牛の藪入り | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

梅雨空の7月4日(土)午後≪「梅田牛の藪入」いま昔≫を話題提供しました。
話した内容の詳細は「阪俗研便り」に野球小僧会友により詳細に情報提供されていますが、
本ブログではPowerPoint版の画像を紹介することにし見ます。
「福っくらトーク」での「梅田牛の藪入」とは?
ここでは代表の玉尾照雄会友作成のポスターを挙げます。

写真図1 第28回「福っくらトーク」ポスター


≪毎年、端午の節句に大仁・浦江など近郊の村々より
農民は飼牛を着飾らせ放った「梅田道」の景観の変容や如何?≫とあります。
では話の展開や如何?

写真図2 コンテンツ

先ず導入は≪幼き日の梅田≫から入りました。
祖母に連れられて眺めた「梅田」の光景はビルが林立する大都会ではなかった。
阪神電車がビルの地下に消えて行く「トンネルの闇」その先は「梅田貨物操車場」でした。
≪「梅田」の昔≫では近松門左衛門「曽根崎心中」道行に謳われた
「梅田橋」「梅田堤」その先や如何? 

写真図3 ≪「曽根崎心中」道行≫

梅田三昧に通じる堤を後にして曽根崎の天神の森に向け彷徨います。
「梅田牛の藪入」の舞台は「梅田道」「梅田堤」とされます。
飼牛にとっての年に一度の里帰りの場所は「野道」でした。
その先の梅田三昧の跡地には、つい20年程前まで墓石が固められていました。

写真図4 梅田貨物駅に残されていた墓石羣

このような場で繰り広げられた年中行事をフローチャートで図示しました。

写真図5 都市民俗としての構造図

片や牛を放つ農民がいる「農耕儀礼」です
もう片方に、それを見物する町衆がいる「都市の祭礼」という構造です。
これは梅田に限った行事ではありませんでした。

写真図6 「石切献牛祭」

東大阪の石切剣箭神社の「献牛祭」は昭和初期の牛の藪入りを再現した
いわばフォークロリズム、擬えの民俗でした。
この行事を始めた当初は本物の牛を枚方の津田から連れて来て行ったのですが、
牛が暴れ出し作り物に替えたと聴きます。
大阪市内でも西淀川では昭和の初めごろまでは
神社に牛交々参拝し牛の藪入りを行っていました。

写真図7 五社神社所蔵「牛の藪入り」

梅田に近い海老江では牛を農耕に使役していました。

写真図8 「水郷の村 海老江の原風景」

福島区歴史研究会顧問の末廣訂氏の語りに
対照の末頃まで隣村・浦江(鷺洲)の田圃まで牛を田舟に乗せていったとのこと。
海老江の八坂神社では郷土雑誌『上方』30号1928年、
『上方』社主催の「牛の藪入り」行事の「再現」が行われました。
その「牛の藪入り」の現在や如何?

写真図9 綱敷天神社茶屋町御旅社の撫で牛

毎年5月5日に神職が撫で牛に花を飾り付け、
往時の「牛の藪入り」の野花に飾られた牛を再現し参詣者を集えています。
そのいっぽうで「梅田牛の藪入」の舞台となった「野道」や如何?
最期の都心として「うめきた」地区再開発の対象地となりました。

写真図10 「うめきた」大深町の2015年

写真左前方(北西)に梅田スカイビルが見えます。
写真右前方(東方)にグラングリーン大阪の高層ビルの一部が見えます。
全面に広がる広っぱは、恰も低湿地の「埋田」、原野を思わせる光景です。
昭和3年に開業した「梅田貨物駅」があった場所であって、
近松の「梅田堤の小夜烏 明日は我が身を 餌食ぞや」を幻視してしまいます。

写真図10 西南方面からのグラングリーン大阪の眺め

その場所も今では、「グラングリーン大阪」といった都心部にできた広大な緑地です。
「桑田変じて滄海となり、滄海変じて」何となる?
低湿地を思わせる「大深町」一帯が
「うめきた」(梅田北か?)の名のもとに、「飼牛」ならぬ「市民」の憩いの場となり、
知的産業集積の場となりつつあります。
最後に第二部のトークに向けて「おひらき」をしました。

写真図11「おひらき」

皆さんにとって「梅田」とはどんなとこですか?
大都会のど真ん中を想像していたのに…。
「牛の藪入り」が繰り広げられていた場所は
ムラとマチの境目で、
農民と町衆の交流の場でありました。
そんな場所・大阪駅の北に昭和3(1928)年に
貨物駅ができました。
それ以前は、その一角に梅田三昧が広がっていました。
今日、グラングリーン大阪が開業し、
かつての大火事・飢饉など都市災害による
死者を葬り供養した公共的な弔いの
場であったことが埋もれてしまいそうです。
近隣の福島区住民にとって
今一度「梅田」の書かれざる「歴史」を
かいまみる機会となれば幸いです。
これを以ておひらきとします。

第二部は「梅田道」をフォローすべき画像、
梅田墓の埋葬調査の現場写真などなど
北区情報紙「つひまぶ」編集長・浅香保ルイス龍太会友の
大深町周辺の近代は「文教地区」であったとか、
盛りだくさんの話題で
「梅田」での牛の「藪入り」は時間長歌で終りました。

究会代表 田野 登