ただす 暮らしの古典107話 | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

今回の「暮らしの古典」は、107話「ただす」とします。

「ただす」と読む漢字に「訂」があり「訂正」という熟語があります。

また「ただす」という言葉が複合動詞「といただす」となれば、

何だか身が引き締まる思いがします。

「藤伝記』を軸に福島区玉川が藤名所となる過程を探る中で

「糺す」(ただす)という言葉に出くわしたのです。

はたして藤名所形成過程の如何なる場面で

誰の行為を指して用いられたのでしょうか?

 

今回も藤三郎『なにわのみやび野田のふじ』東方出版2006年を

テキストとします。

手始めに「藤伝記』にも取り上げられている「義詮難波記」を

詮索します。

「難波記」ならぬ「住吉詣」ならば異本が多いことで知られています。

『大日本史料集』所載の塙保己一編群書類従本「住吉詣」の

巻末奥書を挙げます。

◆扶桑拾葉集所収本、此一巻以下ノ文無シ、又内閣文庫所蔵ノ一本、本文異同     少カラズ、

〇義詮、住吉社ニ詣スルコト他ニ所見ナシ、本文亦諸本異同アリ、

 稍疑フベシト雖モ、姑ク之ヲ収ム、

 

現に「ことのは考」102話以降、

徳川光圀編内閣文庫本「すみよしまうて」をも取り上げました。

『藤伝記』「第十」渡辺武氏による注に

「『義詮難波記』藤家に写本ありという」とありますが、

その先が見えず、記事の確認ができていません。

「藤伝記」についての研究資料は、

テキストとした『なにわのみやび野田のふじ』の他には

見出せないまま論考を始めることになります。

テキストは付録として≪2参考史料≫として

「藤伝記』を始め10点もの藤家所蔵の古文書を載せています。

そればかりか≪3 江戸時代ののだふじの変遷≫など

3点の表を巻末に掲載しています。

今回「藤伝記』を始めとする翻刻された古文書の解読に先立って

≪3 江戸時代ののだふじの変遷≫に見当をつけました。

 

藤名所となる過程を、この表から推察するに、

貞享3(1686)年の「九代宗左衛門「藤伝記」原本を書く」から始まり、

明和8(1771)年~寛政9(1797)年までに

「代官などへの説明マニュアルの作成」に至ります。

画期的な記事は

寛政10(1798)刊行の『摂津名所図会』「野田藤」記事です。

これにより「観光名所の一つとして定着していった」とあります。

平安時代に遡る「申伝」は「いいつたえ」としておいて、

福島区玉川が「藤名所」となるのは近世の半ばごろと見当がつきます。

この間、100年あまりの間に

福島区玉川の藤をめぐって何があったのでしょう。

写真図 野田阪神前阪神高速道路橋脚の

    福島区役所設置の「のだふじ」写真

    2024年12月16日撮影

名所となる起点に設定した、

貞享3(1686)年春「書之」奥書のある

『藤伝記』の冒頭は以下のとおりです。

◆摂津国西成郡野田邑(村)藤名所社藤家之由縁、其古しへより古跡にて、

中年之比(頃)焼失の事ありといへとも又残りし事あり。

誠に諺に吉野の桜野田の藤とて世の人知る所にして、

代々に伝へ、其誉れ高し。

よつて在し事又申伝ふるのミ爰に記す。

 

「在し事又申伝ふるのミ」は、

前回取り上げた奥書にある「在し伝ふるのミ」と相俟って、

神主家である藤家に伝えられた事の記録と云った体裁の文書であります。

「大坂年代記」とも云うべき『摂陽奇観』に

目を遣り記事を照らしてみました。

野田村辺りの記事は、

漸く貞享3年から約70年後の「宝暦八(1758)」に見えます。

◆三月五日より野田村藤波庵開長 四月廿五日迄

 同十五日より 八丁目寺町専念寺ニ而北條家宝物開長 奥ニ委し

 同月 下福島天満宮開長

 四月 上ふく嶋天満宮正遷宮 

 同一日より 野田村神明正遷宮 十九日迄

 

2行目の「八丁目寺町専念寺」記事は別として、他の4件は、

現在の福島区野田、福島に位置する神社に関係する記事です。

開帳、正遷宮と云うのは、

寺では秘仏を公開し、神社では神体を遷す時で

多くの参拝客で賑わうイベントです。

『摂陽奇観』に藤波庵開帳の記事が掲載されていない中、

2行目の「八丁目寺町専念寺」の

「開長(開帳)」記事を挙げ開帳の一例とします。

◆三月 八丁目寺町専念寺開長之事

 河州狭山領主北條美濃守殿御菩提所智恩院末寺

 八丁目寺町専念寺住職狭山へ被願上

 北條家の重器を開長有之参詣羣集ス

 一扇子流シの屏風 古法眼筆 一挑灯之指物

 一釣鐘陣幕 一腰黒陣羽織

 [半角割注:其他北條家之宝器数種略之]

 挑灯之指物は慶長年中 豊臣秀吉公小田原攻の時

 相州韮山城主北條美濃守氏矩が蒲生飛騨守福島左衛門など

 喰留シ時の指物にて世に名高く参詣人挙てこれを賞ズ

 

要は専念寺住職が

檀家である河内国狭山の領主に頼み込んで

檀家の什物を借りてきて展示したのでした。

とりわけ太閤秀吉が小田原攻めの時、

敵方を食い止めた際、用いた提灯に絞った記事です。

これが参詣人に好評であったようです。

はたして、その真贋や如何?

 

野田藤に関する開帳の記事は

テキスト≪(e)「藤原末流子孫」≫にあり、

奥書は以下のとおりです。

◆寛政第十一巳末≪ママ:己未カ≫孟春吉辰

 七拾歳賀認之(1799)/藤子孫代々へ

 

寛政11(1799)年1月吉日、

70歳の誕生日に子孫あてにしたためたものです。

開帳に伴う記事は以下のとおりです。

◆一宝暦八寅年三月廿一日より同四月廿五日まで

 本社修復のため開帳いたし候なり、

 此時御代官内藤十右衛門様、藤記御糺し、差上奉り、

 御奉行様聞こし召し上げさせられ、

 すなわち、此の藤記代々当時に至り、

 御代官所へ相伝りこれ有り候、

 此の開帳の間、御城代井上河内守様御参詣、

 甚だ賑はしき御事に候也。

 

開帳を催すに当って代官に対し

「藤記御糺し、差上奉り」とあります。

「藤記」は「此の藤記」同様『藤伝記』でしょう。

「御糺し」と「御」がありますので

「糺し」の主体は代官です。

『広辞苑 第七版』 ©2018 株式会社岩波書店

「ただ・す【正す・糺す・質す】」から②を引きます。

◆②《糺》罪や過ちの有無を調べて明らかにする。

 詮議(せんぎ)する。

 源氏物語(賢木)「なほざりごとをまづや―・さむ」。

 「事の実否を―・す」

 

これを以てお墨付きを戴いたのですが、

『藤伝記』の如何なる記事を代官は、

チェックし承認したのでしょうか?

次回108話は『藤伝記』の記事を年月未詳の

藤之宮由来記』と照らして

「なぞらえ」をキーワードとして

藤名所が達成される過程を辿ります。

 

究会代表

大阪区民カレッジ講師

大阪あそ歩公認ガイド 田野 登