「まれびと」の末裔たち(後) 暮らしの古典50話 | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

「まれびと」概念について、本ブログでは、折口信夫が
1929年1月「国文学の発生(第三稿)」に
「「稀に來る人」の意義から、珍客の意を含んで、
まれびとと言うた」と述べ、それを承けて
「まれひと《ママ》は来訪する神」とも述べたと記しました。
それが、そうそう容易くは「神」とは断じられないのです。
以下、マレビト論の顛末について考えます。

「国文学の発生(第三稿)」の発表に際して、
柳田國男による「掲載拒否の指示」があったようです。
前掲『折口信夫全集1』岡野弘彦・井口樹生・長谷川政春誌筆の
「解題」の記事を引用します。
◆(『日本文学の発生』第三稿の)脱稿については、
 『古代研究』民俗学篇2付載の「著作年月一覧」に
 「昭和2年10月草稿」とある。
 雑誌発表が遅れたのは、掲載誌『民族』
 (大正14*(1925)年11月創刊、昭和4*(1929)年4月休刊)の
 責任者柳田国男からの掲載拒否の指示があったためで、
 柳田が雑誌編集から手を引いた時点で掲載されたことを、
 その編集に携わっていた岡正雄が回顧談で明らかにしている
 (『季刊柳田国男研究』創刊号、昭和48年2月)。

柳田との間に鍔迫り合いがあったのです。それがあってか?
初出誌『民族』記事と『古代研究』の間には*異同があります。
  *異同:『精選 折口信夫Ⅱ 文学発生論・物語史論』2018年
     慶應義塾大学出版会(株)
     長谷川政春「Ⅱ「文学発生論・物語史論」解題」
◆・・・・初出誌の「呪言の展開」および「巡遊伶人の生活」には
 それぞれ論考執筆の動機や状況を伝える前文が付されているが、
 『古代研究』所収に際して折口自身により削除されている。

初出誌「呪言の展開」にあった
「論考執筆の動機や状況を伝える前文」を
ボクは以下の記述と推測します。
◆私は此章で、まれびとは古くは、神を斥す(ルビ:さ-)語であつて、
 とこよから時を定めて來り訪ふことがあると
 思はれて居たことを説かうとするのである。

「まれびとは古くは、神を斥す語」以下が削除され、
「神」がみえにくくなっています。
初出誌にあった「とこよから時を定めて來り訪ふ」という
神たる「まれびと」の正体は、一体、何なのでしょうか?
*小川直之前掲書は「まれびと」の「実像」に触れています。
  *小川直之:小川直之2014年5月「折口信夫の民俗探訪」
       『現代思想 五月臨時増刊号 折口信夫』第42巻第7号
◆「生活の古典」という用語が示されるのは、
 1921(大正10)年、1923(大正12)年の沖縄での民俗探訪を経て、
 古典から想起された、
 たとえば「まれびと」などについての実像を得ることができた後の
 1925(大正14)年4月に発表した
 「古代生活の研究常世の国」(全集2)である。

「1921(大正10)年、1923(大正12)年の沖縄での民俗探訪」によって、
「まれびと」の「実像」を得たと読み取られます。・・・・
折口自身は沖縄本島の村の祭場の場で万葉人の生活の「俤」を
感じ取ったことは以下の記事からみて間違いありません。
初出*1924年「国文学の発生(第二稿)」を引用します。
  *1924年:『精選 折口信夫Ⅱ 文学発生論・物語史論』
      2018年、慶應義塾大学出版会(株)、「国文学の発生(第二稿)」 
      初出『日光』第1巻第3・5・7号1924年6・8・10月
◆(沖縄本島の)村の祭場で、古い叙事詩の断篇を謡ひながら、
 海漁、山猟の様子を演じるのが、毎年の例である。
 万葉人の生活の俤を、
 ある点まで留めてゐると信ぜられる沖縄の島々の神祭りは、
 此とほりである。
 一年の生産の祝福・時節の移り易り、などを教へに来る神わざを、
 段々忘却して人間が行ふ事になつた例は、内地にも沢山ある。

「内地」においても
人間が行う「万葉人の生活の俤」とは、いったい何なのでしょう?
以下、折口の引用を続けます。
◆明治以前になくなって居た節季候(ルビ:せきぞろ)は、
 顔を包む布の上に、羊朶(ルビ:しだ)の葉をつけた編笠を被り、
 四つ竹を鳴して、歳暮の家々の門で踊つた。
 「節季に候」と言うた文句は、
 時の推移と農作の注意とを与へた神の声であらう。
 万歳・ものよしの祝言にも、
 神としても神人としても繰り返して来た久しい伝承が窺はれる。
写真図1 せきぞろ 『
人倫訓蒙図彙』七巻

     国立国会図書館デジタルコレクション
     左が「せきぞろ」

写真図2 ものよし

        『人倫訓蒙図彙』七巻 国立国会図書館デジタルコレクション
     
折口は、明治以前になくなって居たセキゾロを実見してはいませんが、
少年時代、四天王寺界隈、とりわけ毘沙門池の畔、長町界隈から出る
祝言職の人たちを薄々、
「まれびとの末裔」と幻視していたのではあるまいか?
この体験が端緒となって、
文学・演劇を包括する「まれびと」概念を構築したとボクは考えます。
折口の実見した「まれびと」の末裔は誰なのでしょう。

明治の大阪の街を徘徊し、門付けした祝言職の者たちを探ります。
折口の*「大阪詠物集」抄に「えびす舞し」が詠まれています。
 *「大阪詠物集」抄:初出1930年「春のことぶれ」梓書房
          『折口信夫全集』24、1997年、中央公論社、
          「春のことぶれ」解題、594頁
◆西の宮えびす舞し
 朝戸あけて、まづ聞く耳の すがしさや。
 えびす舞しよ。何を献(オマ)さむ

『広辞苑 第七版』 (C)2018 株式会社岩波書店の
「恵比須舁き」に次の記述があります。
◆兵庫県西宮から出た人形遣い。
 もと恵比須が鯛を釣るまねをし、正月に豊漁を予祝したもの。
 えびすまわし。

折口が詠んだ「西の宮えびす舞し」と同類の祝言職は、
大阪においては、他にも見られたようです。
*1936年「正月雑片」を引用します。
   *1936年「正月雑片」:船本茂兵衛「正月雑片」
             1936年1月『上方』61号
◆正月情調が人と時代に圧されながら
 ヂリヂリと失つて行くのは寂しいことである。(中略)
 萬歳、獅子舞、猿廻しの物乞ひも市中では顧みられなくなつた。・・・・

「萬歳、獅子舞、猿廻し」を「物乞ひ」と表現しています。
彼ら大道・門付け芸人こそ、「まれびと」の末裔です。
この論考は昭和11(1936)年の時点での昔を回顧する記事であります。
「萬歳」を糸口に「昔」を探りました。
『広辞苑 第七版』 (C)2018 株式会社岩波書店の
「漫才」に次の記述があります。
◆二人が掛合いで滑稽な話をかわす演芸。また、その芸人。
 関西で大正中期、万歳が舞台で演じられたことから始まり、
 昭和初年掛合い話が中心となる。「―師」

萬歳が舞台で演じられた嚆矢は「大正中期」と読み取られます。
それ以前は門付け芸です。
ちなみに獅子舞は、《前篇》冒頭の、「神農さん」宅を正月に訪れていました。
それは昭和30年頃のことですが、
門付け芸・獅子舞は現代も生きています。
「家をまわる芸能の在り方を考える~伊勢大神楽を中心に~」が
2023年7月1日、大阪府立中央図書館で講演がありました。
  ↓ここにアクセス
https://www.lighty-hall.com/event/2023/07/event-2992.php
写真図3 ポスターにある獅子舞

「まれびと」の末裔が段々と見えてきました。

究会代表
大阪区民カレッジ講師
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登