数奇なる瑞賢山の行方 | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

大阪市港区の山と云えば天保山が有名ですが、
瑞賢山という山がかつてありました。

*浜松歌国『摂陽年鑑』「貞享二年 安治川を掘り浪除山成る」の項に
次の記述があります。
 *浜松歌国『摂陽年鑑』:『浪速叢書』第2、1927年
◆一 同年 安治川口を堀並ニ波除山を築ク
 瑞見此川口に掘上し土を一所に運バせ
 一ツの山を築キ松樹を植えさせ
 【半角割注:波除山と号ク高サ八間二尺
  新山ともいふ世俗瑞見山と呼ぶ】

記述は続きます。
◆又烽のごとくに高き燈籠を建て
 昼夜渡海の船に川口の湊を知らしむるの便りとし
 陸よりハ朝暮天気をうかゞひ
 風雨を知る都て海上眺望の為にこれを築きたり

「烽のごとくに高き燈籠」など、確認すべくもありませんが、
元禄4(1691)年版*「新撰増補大坂大絵図」の
「九条嶋」の先、海中に没した「新田のあと」との境に
「新川築山」とあって「高サ八間」と書き込まれた
山が描かれています。
   *「新撰増補大坂大絵図」: 玉置豊次郎『大阪建設史夜話』
  (大阪都市協会1980年)附図 第四図
「高サ八間」15m弱は、よくぞ海没もせず、持ちこたえた堂々たる山です。
この新川築山こそ瑞賢山です。

瑞賢山の数奇なる運命は、
近代大阪にあっての数重なる転変にも続きます。
*『昔話』の「波除山の話」を引きます。
 *『昔話』:『港区の昔話 増補版』唯称寺、2000年
◆明治になって外国人の居留地が制定され
 その外人の墓地になりました。
 *明治37(1905)年阿倍野墓地に移転され、
 後は子供の良い遊び場になっていました。
 大正末期の盛土工事後、
 その跡は市の消毒所となり戦災焼失、
 現在の弁天埠頭のあたりになります。

「外人の墓地」は、
明治21(1888)年の*「内務省大阪実測図」によって
確かめられます。
  *「内務省大阪実測図」:『大阪建設史夜話』附図
   (大阪都市協会、1980年)第23図西半 明治21(1888)年
新田会所を取り囲む「字邸附割」表記の左(西)、
 地図の中央上部やや左に
「外国人埋葬地」の表記があります。

*『港区誌』には
「大正元年頃までは畑地の中に高さ*2間(約3.6m)、
 広さ34坪ばかりの草丘を残していた」とあり、
大正末期の盛土工事以前には、
未だ、その「草丘」として形跡があったようです。
 *『港区誌』:『港区誌』1956年、大阪市港区役所
その「草丘」は、『評伝河村瑞賢』の
やや高まった草地に木が生え洗濯物が干されている
現況写真によっても確かめられます。
  *春秋居士『評伝河村瑞賢』博文館1912年

それが大正末期の盛土工事後には、
消毒所なる近代的施設が設置されるに至っております。

今日、瑞賢山の旧地を訪ねる術はありませんが、
昭和59(1984)年3月、大阪市建立の「波除山跡」が
弁天東公園(港区弁天5丁目)の数段上った場所に立っています。
写真図 弁天東公園「波除山跡碑」

事績記事の末尾に
「瑞賢山あるいは波除山の名で親しまれた」とあります。
公園の入口には、「旧町名継承碑 千代見町一~四丁目」があり、
末尾に次の記述があります。
◆(昭和2年4月施行の)町名は、詳細は不明であるが、
 当町にかつて波除山(瑞賢山)があり遠望ができたことから、
 千代に(永遠に)望見できることを願って付けたものと思われる。

「波除山跡」碑文と併せて
数奇なる運命をたどった、
この地における河村瑞賢の業績を偲ぶ縁とします。 

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登