難波の海陸眺望(13) | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

黒沢石斎著、承応3(1654)年成立『懐橘談』より
《難波の海陸眺望》を記します。
以下の『懐橘談』は、テキストとして
『続々群書類従』第9*『懐橘談上』1969(1909)年を採用します。

 

一行が江戸から難波にやって来たのは、
承応2(1653)年「閏6月16日」(新暦換算8月9日)でした。
今回は、テキストの㉞~㉟の10字です。

 ◆㉞中津川、
 ㉟右は化美野(田蓑)の嶋。

 

前回、「埋めたてられて、海陸の眺望に乏しい、
都会の光景と知りながら歩きます」と記しました。
野田川から中津川に出て右に何が見えるかです。
今や、福島区吉野5,大開4から
此花区朝日1に架かる嬉ヶ崎橋から
中津川側の右方向を眺める他ありません。

 

17日(木)絶望的な思いで橋の右(北)側歩道の
かかり口に行くことにしました。
北港通の先(西側)に信号機のまだ先に
「吉野5西」との表示が見えます。
写真図1 北港通の先(西側)

緩やかなスロープを登り、
右側を注視することにしました。
写真図2 嬉ヶ崎橋北側歩道

橋のかかり口(東)でないと河口が見えません。
少し歩を進めました。
写真図3 嬉ヶ崎橋かかり口

右側に見えるのは、埋め立てが完了した護岸壁です。
右側遠方に北摂の連山が見えない。

 

記事を信じるならば、この「田蓑の嶋」は、
中津川の北方に位置する島です。
西淀川区佃でしょう。
2017年5月19日に
「田蓑島」の文字を確認させていただくために
田蓑神社を訪ね宮司さんに古文書を閲覧させていただきました。
  ↓ここをクリック
https://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12275923382.html
  《佃小学校と田蓑神社の訪問
 :2017-05-19 00:14:45》

「摂州西成郡佃大和田住吉兼帯神主
住吉宮/平岡氏/記録」とあります。
古文書の冒頭の箇所には、「摂津の国田蓑嶋庄
佃村住吉大明神」とあります。
結語「神主謹言」の日付が
「慶長十八年丑八月十日」になっています。
慶長十八年、1613年には
田蓑神社の鎮座の場所を「田蓑嶋庄」と
称していたことになります。

 

石斎一行の船路が
承応2(1653)年「閏6月16日」(新暦換算8月9日)ですので、
「田蓑の嶋」が佃村として
知れ渡っていても不思議ではありません。

地図上では確認できそうです。
9月12日、踏査した折、野田阪神の
大阪メトロ、バス路線図で、野田新家の北方を探りました。
写真図4  大阪メトロ、バス路線図

地図のほぼ中央に「野田中学校前」が見えます。
その左(西)に僅かに水路が描かれています。
懸案の「中津川」の跡です。
そこから地図のやや左寄りの上(北北西か?)に
目を走らせますと海鼠の格好の島が見えます。
その島に「佃」と表記されています。
田蓑神社は、その島の北端に鎮座します。

テキストは「右は化美野(田蓑)の嶋」とあるだけで
赴いた記事はありません。


「田蓑の嶋」は、古来、歌語「歌枕」であります。
そうとなれば、テキストの「左は」に挙げられる
「歌枕」は何処?
中津川河口の南であることに間違いありません。
トリミングした地図の右下に辛うじて見えます。
次回、テキストの続きを読みます。

 

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登