黒沢石斎著、承応3(1654)年成立『懐橘談』より
《難波の海陸眺望》を記します。
以下の『懐橘談』は、テキストとして
『続々群書類従』第9*『懐橘談上』1969(1909)年を採用し、
句読点は私的に打ち、適宜、送り仮名は書き換え、
会話は括弧で括り、助辞は仮名に改めます。
一行が江戸から難波にやって来たのは、
承応2(1653)年「閏6月16日」(新暦換算8月9日)でした。
前回、「安治川開削以前の水路を
探索することになります」と予告しました。
テキスト歌枕「大江の岸」を詠んだ
「良暹(りょうせん)法師が歌を吟ずる人もあり」の続きです。
◆㉝福嶋、
㉞中津川、
㉟右は化美野の嶋。
わずかに12字をめぐって、
じっくり考えます。
本文の異同がありますのは、㉟「化美野の嶋」であります。
*国文学研究資料館「懐橘談 懐橘談 (かいきつだん)」に
「他美野ノ嶋」とあります。
*国文学研究資料館:http://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200017831/images/200017831_00004.jpg
「右懐橘談者夏氏源繁高□写本ヲ以テ写之卒畢/平正孝
*享保十七仲春日」 *享保十七:1732年
「他美野ノ嶋」であれば、歌枕「田蓑の嶋」でありましょう。
問題は、船路であります。
東横堀川の大川尻近くの「大江の岸」から
㉝の「福嶋」までは、大川を下り、
中之島から堂島川、曾根崎川に抜けたのでしょう。
この間の地形は、貞享年間(1780年代)河村瑞賢による
一連の治水記事を記した*『畿内治河記』に次の記述があります。
*『畿内治河記』:今泉定介編輯校訂1906年『新井白石全集』第三
原漢文を私的に書き下す。
◇頃年、(川の)水土佐掘に直下し、堂島曽根崎二流梗渋して、
水既に乾涸す。故に先ず、曽根崎川を浚え、開削す。
長さ七百二十余丈。堂島川は湮滅して河道に就くを得ず、
洲沢廬葦の間を浸灌し散漫潜行して福島に下る。
約30年後の貞享年間(1780年代)ですら、
川浚えで開削された曽根崎川の
河道においても「洲沢廬葦」の観を呈しているのですから、
今日、目にする満々と水を湛えた堂島川などではありません。
福嶋まで出た後、㉞の「中津川」までの船路は如何でしょうか?
「中津川」については、*『大阪府の地名』1986年、平凡社に
次の記述があります。
◇中津川/長柄川ともいう。
淀川の支流で、北長柄の通称三ッ頭(現大淀区)で
淀川本流と分れ、西流ののち南流、
四貫島(現此花区)に至って
南伝法川(下流を正蓮寺川という)・北伝法川に分れて
大阪湾に注いでいた川。
福嶋から行き着く中津川は、
「西流ののち南流」する河口に近い場所です。
かつては、鼠島がありました。
今日、埋めたてられて、此花区と福島区の
境界線のほぼ真上を阪神高速道路が走っています。
写真図 埋立前の中津川
『正蓮寺川利水工事誌』(1972年3月
水資源開発公団中津川建設所)
写真は南からの撮影。
中央左下(南西)から上(北)に細く見えるのが、
埋め残っている中津川右岸(此花区側)。
福島区側左岸は、埋めて立てられています。
詳しくは
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https://ameblo.jp/tanonoboru/entry-11894037558.html
《『正蓮寺川利水工事誌』にみえる中津川下流(2)
2014-07-14 15:13:22》
あらためて、福嶋から中津川下流まで
如何にして出たのでしょうか?
『懐橘談』承応2(1653)年記事は安治川開削以前です。
大阪民俗学研究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登
