本ブログは、前回に引き続き
2017年11月4日、上海で都市民俗学シンポジウムにおいて
島村恭則氏(関西学院大学社会学部教授)による
基調報告「都市民俗学の消長―日本の場合―」を
私的な関心から紹介するものです。
今回は、島村報告の《4 内省型都市民俗学》に
拙著の紹介記事です。
◇また、*森栗の著書とほぼ同時期に刊行された
田野登の著作(*田野2008)も、
都市大阪に生まれ育った自身の生活体験の内省の中から
多くの研究課題を発見し、
これを粘り強い調査と分析によって
重厚な「都市民俗誌」に結実させたもので、
「内省型都市民俗学」の成果の一つであるといえる。
*森栗の著書:2003『河原町の歴史と都市民俗学』明石書店
*田野2008:『水都大阪の民俗誌』和泉書院
写真図 拙著2007年『水都大阪の民俗誌』和泉書院のチラシ表
ちなみに上海の華東師範大学民俗学研究所における
島村報告の原文は次のとおりとのことです。
◇有田野登的著作(田野2008),
从自己在大阪出生并成长的生活体验中,
内省并发现许多研究课题,
通过细致入微的调查与分析,
集结成《都市民俗志》,也是“内省型都市民俗学”的成果之一。
島村報告では
ボクの民俗学研究を
「内省型都市民俗学」として位置づけています。
拙著の冒頭《はじめに 「水都」周辺のマチの心象地図》は、
以下のとおりです。
◇都市民俗を研究の対象とする場合、
研究者自身が「都市」とどのように関わり、
向き合ってきたかは、
研究の視角に影響を及ぼす大きな問題である。
「都市」を自分自身の記憶に残る
「場所」として捉えてみることから始める。
場所の記憶は主観です。
ボクはネイティブといった関係性の中で
都市を捉えようとしました。
民俗学は内省の学です。
得体の知れない、自分の領分を
覗き込むことから始めます。
まずは環境から記述することになります。
◇私の生まれ育った「場所」は、
2,30軒もの家屋が軒を連ねる
戦前からの長屋であった。
昭和30(1955)年頃、
町内には、たくさん子供たちがいて、
二筋裏の長屋には地蔵さんが祀られ、
毎年の地蔵盆にはお堂の前で踊ったりもした。
そういったマチを
子供の視点に立ち返って捉え直す時、
そのマチがどのような民俗的世界を
呈するものであったのだろうか。
当時、このマチ近辺には、
さまざまな商店・施設があった。
町内の長屋を出ると、
酒屋、市場、理髪店、風呂屋、古道具屋、
カシワ屋、漢方薬屋、映画館、工場、
橋、停留所、国鉄駅、私鉄駅、
操車場、裏通り、ガード、ボイラー置き場、
土木局、公衆便所、公園、病院、寺、神社といった
さまざまな商店・施設があった。
田圃や畑はどこにも見当たらなかったが、
広っぱ(空き地)は随所にあった。
自分の生まれ育った
戦前からの長屋のある「場所」について、
大阪の古地図に照らして見ますと
大阪三郷の左上(北西部)の
片隅の「ムラ」であることに気づきます。
《第4章 「水都」周辺のマチの民俗》に
次のように記述しています。
◇このマチは、かつては「ムラ」であり、
都鄙が接続する空間である。
この都心部周辺のマチ部における
現代の「景観」に
ムラは見出せないものだろうか。
通時性を追究すれば容易にムラは見出せる。
現代の「伝承」にムラは見出せないのだろうか。
まずは柳田国男の主唱した都鄙連続論に沿って
自分の領分をみつめなおすことから始めます。
大阪民俗学研究会代表
『大阪春秋』編集委員 田野 登