今日、私たちの日常生活において、
「通称町名」の存在に気づくことは、あまり、ありません。
それが*地名辞典「地名用語」の50項目のうちの一つに、
「通称町名」の項目が記述されています。
*地名辞典:『角川日本地名大辞典 27大阪府』1978年
◇行政区画が決定当時の機能を失った場合、
自治会・学区など当該住民の承認だけで、
実情に適合する区画を設定し、
俗称・旧称など住民に慣用されている地名を付して、
準行政地名として適用。
「行政区画が決定当時の機能を失った場合」とあります。
「市岡」の場合、
明治30~33年の西区の大字名「市岡」が、
「市岡町」となったのは、明治33(1900)年のことです。
市岡中学が創立されたのは、その翌年で、
当時の「市岡町」をめぐる情景については、
すでに《学校に出た狸の顛末①2017-03-16 14:09:09》に記しました。
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今回、取り上げている地図「市岡町番地入明細地図」は、
大正12(1923)年11月発行です。
この地図には、たくさんの「町名」が記されていました。
町名となって20数年後のことです。
この間に、この町に何が起きたのでしょう。
地名辞典の記事の続きを載せます。
◇都市部や急速に発展した住宅地などに多く、
市町村によっては、これを行政地名と称し、
正式の行政地名を法律地名と呼ぶ場合もある。
1923(大正12)年地図が発行された当時の「市岡町」は、
まさに「急速に発展した住宅地」といえます。
明治の後期から大正年間にかけての土地利用の変動です。
この変動によって必要が生じ、
俗称・旧称などの通称地名が慣用化されていたのでしょう。
*『港区誌』に次の記述があります。
*『港区誌』:『港区誌』1956年、大阪市港区役所
◇このように新田は一種の水郷を形成していたが、
これらの井路は大正時代に埋め立てられて
各町の境界となり道路となってほとんど痕跡を止めなくなった。
大正時代における風景としての「新田」が
都市へと変化してゆくさまは、
可視的には「井路」が「道路」となることによって
確かめられたのでしょう。
『港区誌』には、当地の名産品・新田西瓜の記述する中に
農地の市街地化について触れています。
◇これは土質が砂質壌土で
西瓜などの瓜類の栽培に適していたからであるが、
大正時代に入って
農地が次第に埋立てられ市街地に発展するに及んで、
農地はさん食*(蚕食)され、
西瓜は川北地方(西淀川区)に移り、
農業は急速にさびれるに至った。
西瓜畑に遊園地が出来した
まさに滄海桑田の椿事の内実は、
すでに《市岡新田の地名伝承「市岡」(2) 2017-03-26 11:13:36 》
《市岡新田の地名伝承「市岡」(3)2017-03-28 15:11:16》で
記しました。
1925(大正14)年に、市岡パラダイスが開園します。
その土地は
「スイカの名産地だった今の夕凪交差点」の北西部にあたります。
夕凪橋以東は、市街地化していたと推測します。
写真図 「市岡町番地入明細地図」大正12(1923)年11月発行
1923(大正12)年地図に記される「町名」は、
昭和2年3月16日「大阪市告示第59号」
「本市港区市岡方面ニ於ケル町名改称」以前のものであって、
通称地名とみなされます。
その通称地名こそ、
当該住民による「俗称・旧称」であって、
市岡新田時代の伝承的世界が見え隠れする
沃野に点在する遺物なのです。
大阪民俗学研究会代表 田野 登