新いちょう大学校での講義も最終回です。
写真図1 PowerPoint版表紙
最後はやっぱり、
折口信夫の世界を話さねばなりません。
写真図2 プロローグ
合邦ヶ辻界隈の解釈-折口信夫マレビト論を探る-
四天王寺西門を出て
逢坂を下ると合邦ヶ辻である。
木津村に生まれ、
長じて民俗学者、歌人となる
折口信夫(釈迢空)の論文「玉手御前の恋」に導かれて
合邦ヶ辻界隈を解釈する。
行き着いたところは
「マレビト論」であった。
今までからの持ちネタですが、
たった90分ですので
さっぱりとカットして
今回は論点を絞りました。
このテーマに取り組みましたのは
一昨年、日本民俗学会が
関西学院大学で年会を開催し、
大阪の見学コースを案内することになったのが
きっかけです。
天王寺から新世界界隈は
大阪の都市民俗の「宝庫」と思い、
コースを設計しました。
年会実行委員会の島村恭則教授から
折口信夫についても触れてはということで
合邦ヶ辻閻魔堂をめぐる論文「玉手御前の恋」と
絡めてみました。
従来、折口マレビト論は
折口自身の沖縄調査に基づくとされてきました。
ボクは、マレビト論のモチーフになったのは
彼の生まれ育った木津村とその周辺、
6年間通った
天王寺中学(現在の天王寺区上本町8丁目、大阪国際交流センター所在地)近辺に
求めます。
大阪が近代化を遂げる時代、
町の周縁部での
実体験や見聞が折口マレビト論に
影を落としているのではないかと思えてきました。
かつて、合邦ヶ辻界隈は不思議な都市空間でした。
とりわけ四天王寺は聖地であってアジールでした。
病を背負った人たちの避難施設でもありました。
謡曲「弱法師」の俊徳丸もその一人でした。
さまざまな生業の人たちが群れ集う場所でもありました。
まさに都市の縮図が
この合邦ヶ辻閻魔堂の周辺でした。
その残滓を敏感に嗅ぎ付けることができたのが
折口信夫です。
折口のマレビト論には
神と乞食(コツジキ)とが一体であります。
少なくとも、そこに断絶がありません。
柳田民俗学では考えられない発想です。
実証不可能なことです。
たしかに騙られたような気がします。
ボク自身、大阪市立大学で国文学を学びましたが、
折口の世界は封印されていました。
それが一昨年の不図したきっかけで
折口の世界に足を踏み入れることになりました。
吟遊伶人「ほかひゞと」に「まれびと」を幻視する「折口学」には
折口の生いたちに起因する確執を
読み取らねばならないと
今のボクは考えています。
大阪民俗学研究会代表 田野 登