八十嶋祭の祭場(1) | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

やがて春本番。
大阪あそ歩の日程が近日中に発表されます。
ボクのガイドするコースの一つに
浦江・大仁コースがあります。


今回、取り上げますのは
今日、浦江八坂神社に鎮座する斎宮社にまつわる
八十嶋祭です。

写真図1 浦江八坂神社の斎宮社



写真図2 手前(東)が斎宮社、右側(西)は野々宮社





何度も本ブログで取り上げているようで
取り上げてなかったのが「八十嶋祭」です。

上井久義先生(関西大学名誉教授)の
2006年『民俗宗教の基調』〈上井久義著作集 第一巻〉
「第四章 八十嶋祭の成立」の導入に
*僧・顕昭『袖中抄』を引用してます。

上井先生にお訊ねしたところ
早稲田大学古典籍『袖中抄』第十九
「やそしま」とのことです。
*インターネットの紹介をいただきました。
 *
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko18/
  bunko18_01018/bunko18_01018_0010/bunko18_01018_0010.pdf


以下、用字は
上井論考などを参考にして、
田野が適宜、宛てました。
●・・・又拾遺集云
 百敷の大宮ながら八十嶋を
  見る心地する秋の夜の月
 私云これも島々を遙かに眺めわたす心なり。


「拾遺和歌集」ですから「源氏物語」の時代です。
貴族たちは秋の夜の月を見て
八十嶋を遙かに眺める気分に浸っているのです。
●此歌を本にて
 堀川の院百首に紀伊公月歌に
 秋の夜の月を遙かに眺むれば
  八十嶋巡り見る心地する


「堀川の院百首」は
【堀河百首@コトバンク デジタル大辞泉の解説】には
次の記述があります。
「平安後期の歌集。長治2年(1105)ごろ成立か」


『袖中抄』の続きです。
ここからが上井論考も引く
八十嶋祭の説明です。
●代初めにぞ
 八十嶋の遣ひとて
 内の御乳母の発ちて
 八十嶋巡りといふ事は侍る。


先の歌にあった「八十嶋巡り」は
御世代わりの時、
女官が難波に派遣される行事と
読み取られます。

『袖中抄』を続けます。
●それも
 島々にて祓へすべきを
 住吉の濱のこなたにて
 西の海に向かひて
 諸々の島々の神を祭るといへり


「島々にて祓へすべき」とある「べき」を
「本来は」と解釈しますと
それ以前の島々での祓えを
想定することになります。
それが今や「住吉の濱のこなた」での祭祀となったと
読み取られます。
難波の「八十嶋」は祭祀の場所では
かつてもなかったのでしょうか?


まず、その祭祀の成立時期について
*上井論考は次のように
推論しています。
 *上井論考:上井久義、2006年『民俗宗教の基調』
 〈上井久義著作集 第一巻〉第四章 八十嶋祭の成立
●・・・難波の海浜で行われる八十嶋祭の成立も、
 その原義と源流は、
 より古型が存在したことも予想されるが、
 一応その成立は平安朝のことと考えられる。(中略)
 文献史料上の初見である嘉祥3年(850)に
 初めて行われたと仮定しておいたいと思うのである。


祭祀の場所と儀式の意義はいかがでしょう?
●したがって、
 行事の意義についても、
 その原初的形態は、
 天皇の象徴的衣服をめぐる
 宗教的儀礼にもとづくものであるが、
 八十嶋祭としては、
 斎王の場合と同様に、
 他に行われる同類の潔斎の儀礼と同じで
 天皇の祓いの行事の一つとしての意味に
 端を発するものであったと考えることができるようである。


祭祀の場所について、
「住吉の濱のこなた」以前があったのか、
ボクにはわかりません。

「住吉の濱のこなたにて
 西の海に向かひて
 諸々の島々の神を祭る」の記述に戻ります。


着目したいのは
「住吉の濱」の「西の海」にある
「諸々の島々」とは記していない点です。
平安時代において
地勢的にも「住吉の濱」の「西の海」に
「諸々の島々」はないでしょう。
祭祀の対象が
「諸々の島々の神」とあるだけです。
またいずれ続きを考えます。


究会代表 田野 登