《第3章 知らない世界に出会う》は、
《1 よりよい暮らしを求めて(岡野宣勝)》と
《2 地域を演出する(森田真也)》から成ります。
《1 よりよい暮らしを求めて(岡野宣勝)》は、
《プランテーションの暮らしと日系文化》に
ハワイの日系社会に生成された
ホレホレ節という労働歌を取り上げています。
●・・・「ハワイハワイと夢見てきたが、流す涙はキビのなか」
「明日はサンデーじゃよ ワヒネ(ハワイ語で妻の意)も連れて
アイカネ(ハワイ語で友人の意)訪問と出かけよか」
「日本出るときゃ一人で出たが
今じゃ子もある孫もある」などは有名である。
七七七五調の歌詞は甚句という短詩型であります。
「日々の厳しい作業や生活、男女関係、
望郷の念などが唄い込まれている」とも記されています。
たしかに、これらの甚句は
日本文化のハワイでの日系社会を物語る歌です。
他に日系文化の特徴が顕著に見られる事例として
浴衣やハッピ、手ぬぐいをまとってのボンダンス(盆踊り)、
42歳の厄年を迎える男性のための
赤飯や鯛などの赤色の料理で祝福されるヤクドシ(厄年)パーティ。
タトゥー(入墨)にまでなったモン(家紋)のブーム。
これらの事例を以て、《「移民の民俗学」に向けて》と記しています。
いかがなものでしょう?
《2 地域を演出する(森田真也)》からは、
沖縄の民俗芸能であるエイサーを取り上げ
今日のイベントのエイサーを「伝統」から逸脱した偽物として
斥けるのでない視点の大事を学びました。
大阪市大正区の千島公園グラウンドで9月に繰り広げられる
大阪ウチナーンチュ(沖縄の人)による
「エイサー祭り」しか知らないボクには
エイサーの「伝統」「本質」を求めたくもなるものです。
《地域社会にある》には次の記事があります。
●エイサーは、祖先を供養する念仏踊りが変化したものである。
1603(慶長8)年、沖縄(琉球)に日本本土から渡った浄土宗の僧、
袋中上人が仏教の経典のなかから選んだ経文を、
沖縄の言葉に翻訳して、節をつけた念仏歌がその原型であるという。
この記事が今のところエイサー起源の定説のようです。
エイサーの呼称につきましては
「エイサー、エイサー、ヒヤルガエイサー」という
掛け声がもとになっていると記されています。
読み進めば次の記述があります。
●また、その時期も旧盆の夜、
あの世から戻ってきた祖先の供養のために踊られるもので、
いつでもどこでも演じるものではなかった。
演じられるのは、旧盆の三日間、
通常三日目の旧暦7月15日に祖先の霊をあの世にお送りする、
ウークイ(お送り)が済んだ後に行われる。
道ジュネーといい、
青年たちは、夜、数十人で隊列を組み、
太鼓を打ちならしながら、
三線の地謡とともに集落内の各家々を回って歩くのである。
「道ジュネー」という言葉など
大正区のウチナーンチュから聞いたことがあり、
エイサーの「本質」を知り得た気分になります。
ふと、今「本質」と云ったことに疑問が生じます。
今日の大正区エイサー祭りと
《地域社会にある》エイサーとは大事な点に違いがあるのではないかと。
日程の違いにも表れています。
大正区エイサー祭りは旧暦7月15日ではありません。
今年2015年第41回は9月13日(日)でした。
そこで《地域社会にある》に続く
《コンクールとイベント化》をじっくり読みました。
●各地域で行われていたエイサーが、外に開かれ、
変化する大きなきっかけとなったのは、
第二次大戦後、県内のエイサー団体が一堂に集まって行われる
コンクールがはじまったことによる。
1956年、各地域のエイサー団体が集まり、
その芸や技を競うことで、
沖縄本島中部のコザ市(現 沖縄市)主催による
「全島エイサーコンクール」が開催された。
各地域から「全島」に広がり、コンクール化します。
競うようになれば自ずから
「祖先の供養のために踊られる」どころでなくなっています。
●コンクールは当初、服装、体(隊)形、態度、伴奏などを
点数化して、順位を付けて、その優劣を決めていた。
このコンクールに何か支障が発生したのでしょう。
「1977年の第22回大会から順位を付けるのを止め、
「まつり」(イベント)に移行している」とあります。
イベント化すれば一層《地域社会にある》エイサーが
変貌を遂げます。
「旧盆の時期に限定せずに踊ることが容認され・・・」ます。
ますます《地域社会にある》から遠ざかります。
そのころからエイサーが全国のイベントに参加します。
大正区エイサー祭りはとなりますと、
この全国的に展開するイベント化以前に
すでに始められています。
主催する「がじまるの会」(前身は「がじゅまるの会」)の
結成の事情は《故郷とつながる》に以下の記事があります。
●がじゅまるの会が結成されたのは1975年である。(中略)
結成の背景には、明治期以降、
多くの沖縄県出身者が就労のために大阪に出て来て、
厳しい差別や偏見を受けてきたことも関係している。
そして、故郷の祭りを大阪で再現しようということになり、
結成同年9月に大正区において、
エイサーの演舞を中心とした「沖縄青年の祭り」がはじめられた。
大正区エイサー祭りの端緒には
大阪ウチナーンチュのアイデンティティの問題があったのです。
論末の《創造から過程へ》は次のように記述されています。
●地域社会にあったものが、
自己や他者の手でいかに演出されようとしているのか、
その過程をとらえることは
単なるロマン主義や政治性への批判だけでなく、
現代の日本社会が抱える課題を真摯に考えることでもあるだろう。
大正区エイサー祭りに参加する人々の
心意気を再発見する機会を得ることができました。
大阪民俗学研究会代表 田野 登