中之島蔵屋敷からの大阪検定2級問題(7) | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

前回、「蛸の松系伝説」という語を
初めて用いました。
蛸の松系伝説群ともいうべき
さまざな変型(version)がみられます。


井上versionの後、15年にして
昭和12(1937)年10月初版、
山口幸太郎編輯発行*『中之島誌』に
山口versionが記述されます。
*『中之島誌』:山口幸太郎編輯発行1937年10月初版『中之島誌』
  中之島尋常小学校創立六十五周年
  中之島幼稚園創立五十周年記念会発行
●今を距離る三百余年前、
 慶長年間に福島正則がその所領安芸に入国の際、
 わざわざ邸内を構へて居た伏見から二株の稚松を携へて来て、
 中之島の自邸の前に移植した。
 その一つが鶴の松で、
 他の一つを鶴に対する亀の松
 -亀形の松ともいふ-と目出度く名づけられて居た。


お気づきなられたでしょうが、
山口versionの福島正則移植記述には
「蛸の松」がみられません。
一連の山口幸太郎による『中之島誌』には
蛸の松が枯死した亀の松と

混同したとかの記事がみえますが、
真偽は別としてその詮索には

今回はお付き合いしかねますので

記事の紹介は省略します。


大事な点は『中之島誌』の書誌としての位置づけです。
『中之島誌』には、蛸の松、亀の松、鶴の松の他に
「売買の松」が取り上げられています。
ちょっと立ち寄って『中之島誌』記事を

検証することにしましょう。
●中之島二丁目(旧肥後島町)の大川沿ひに
 枝ぶりをかしき老松があつた。
 丈余の松ヶ枝は恰も
 一は手をのべて物を売らんとするが如く、
 一は手を屈めて物を買はんとするが如く
 市場の振り手に似て、
 しかも旧堂島米市場と
 大川を隔てた南真向ひにあつたので
 売買の松といわれてゐた。
 これは加藤清正公邸の遺物といふので、
 その名が特に著れ、
 古竹斎文集にも記されて居るが、
 明治となつていつの程にかその姿を消してしまつた。


またぞろ太閤連なりの武家・加藤清正公の邸宅ですか?
いったい『中之島誌』とは
いかなる書物なのでしょうか?
「本誌編纂の由来」を引きます。
●大正十一年五月頃かと思ふ、
 山村校長来任間もなき或る日
 学校へ講演に来られた木崎好尚氏と雑談中
 偶々中之島について種々の話が出た、
 これが動機となつて
 愛郷精神を涵養するは青年の思想を
 善導する捷径であることを痛感し、
 爾来郷土誌編纂を思ひ立ち
 其計画に没頭し
 府立大阪図書館長今井貫一氏に図り、
 種々その指導助言を得、
 是非その計画を遂行せよと勧奨せられた。(中略)
 稍もすれば散逸せんとする尊き郷土の歴史を調べ、編み、
 以て後世の参考に資し得るは
 恰も美田を子孫に残すものと自負するものである。(中略)
 編纂委員一同


図らずも府立大阪図書館長今井貫一氏までもが
引き合いに出されています。
編纂の趣旨は
「愛郷精神を涵養するは
 青年の思想を
善導する捷径であること」のことばに尽きます。
「尊き郷土の歴史」を編纂することの
使命感が綴られています。
時は昭和12(1937)年10月のことです。
伝説にも時代色というのが
反映するのでしょうが・・・・。


戦前において「蛸の松」伝説を語り継いだ団体に
「友松会」という会があります。
この会は

大阪府師範学校(後身が大阪教育大学)の同窓会です。
友松会編輯発行1940年『友松会五十年史』には
井上正雄versionの伝説を載せています。
師範学校卒業者にとりまして
蛸の松は、まなびやの松であったのです。


さて、戦後における伝説の継承と変容を
次回、記すことになります。
大阪の研究、上方の研究の大御所の登場です。
いかなる展開があるのやら?


究会代表 田野 登