一昨日11月8日(土)
大阪あそ歩の「市岡尻無川コース」を実施しました。
早速、大阪民俗学研究会の会員でもあります
田中和雅氏から投稿していただきました。
今回は田中会員のレポートを軸に報告します。
まず田中レポートを紹介します。
●昨日11月8日、「市岡尻無川コース」に参加してきました。
以前二度参加しているコースですが、
悪天候とアクシデントで完遂できなかったので三度目の正直。
お目当てを見つけて良い町歩きでした。
程よい人数。珍しく20代の女性も参加。
母校もコースの一部です。
ガイドは母校の先輩であり、
国語の先生であった田野登先生。
かつて淡路島から瓦が
大量に陸揚げされた尻無川堤防。
今でも瓦が並び、
川岸には瓦会社がたくさんありました。
田中氏とは、
年賀状で数えれば40年近いお付き合いです。
ボクが新米の教師であった頃
柿本人麻呂の挽歌
「天飛ぶや(あまとぶや)/
軽の道(かろのみち)」といった授業を
彼は覚えておられ
こちらの方が恐縮しています。
母校・市岡の前でガイドするのは
さすがに緊張します。
写真図1 大阪府立市岡高校正門 田中和雅氏撮影
今年は市岡にとっては、
大先輩の直木三十五の直木賞ならぬ
芥川賞を44期生の柴崎友香さんが受賞されました。
この話題を追加しました。
空襲の時、このあたりでは
境川の交通局と、この市岡中学だけが焼け残ったとの話を
『画集 大阪大空襲の記録』の図画を使ってガイドしています。
空襲で家を焼かれた人たちに
炊き出しのおにぎりが正門前で配られています。
「あれっ、正門は煉瓦でできていたはずやのに灰色?」
図画は回想しての絵ですもの・・・。
ありのままでもあるまい。
さらに近くの市岡南小学校のかるたの「お」を
紹介しました。
写真図2 絵札の「お」 大阪市立南市岡小学校 2000年作成
飛行機が空を飛んでいます。
その下にお地蔵さんが立っておられます。
写真図3 読み札の「お」 大阪市立南市岡小学校 2000年作成
「大阪空襲土砂に埋もれた延命地蔵
無事故を祈って手を合わす」
約30年前、ボクは市岡の生徒たちと
港区のお地蔵さんの聞き書きをしました。
その記録を
『市岡紀要』1986年第4号に載せました。
その記事を材料にした地元のかるたなのです。
地元の方から聞いた戦争体験が
このようにして語り継がれてゆくのです。
どんなことでも話を聴いて書きとめておくものです。
調査することによって、
地域の歴史が記録されるのです。
今春からの市岡尻無川コースは
昔の市電の道(みなと通)を
磯路の桜並木まで西に行き、
坂道を登り左(西)に折れ
市岡パラダイス跡地を経て左(南)に
夕凪交差点では一岡ビルを話し
一路、甚兵衛渡船場へと向かうことになりました。
写真図4 市岡浜の瓦屋倉庫 田中和雅氏撮影
大正時代ころから
市岡浜に倉庫が建ち始めます。
安治川と比べて波静かであった尻無川の浜。
田中レポートにもありますように
淡路の瓦が船で運ばれてきたのです。
堤防下には瓦屋さんが並んでいます。
田中氏とはお互い
このあたりの市岡の同級生の
「アマ」のつく名字を言い合い
懐かしがっていました。
海の民との関係がありそうです。
しかし、
明石に大橋がかかり
阪神淡路大震災があって
瓦葺き屋根のダメージが大きく
この地の地場産業である淡路瓦の販売も
昔の勢いが感じられなくなったのが残念です。
今回は訪ねることができませんでしたが、
港区には海を渡ってやってきた人たちが
集住する地区が他にもあります。
その人たちの中には
船を駆って瀬戸内海に生業を立てていた人たちの
末裔の方がいます。
今回は、水都を下支えした人たちの
戦中戦後の暮らしのほんの一端が
3時間ほど歩いてみて
かいまみえたことでしょう。
大阪のマチの、ここかしこに
知られざる歴史が
埋もれながらも
気をつけて歩いておれば見つかるものです。
ボクの今秋の大阪あそ歩のガイドも
11月29日の「浦江・大仁」コースだけとなりました。
そちらの方は「ひなびた趣」を
町中に探るツァーになります。
ゴールは梅田スカイビル。
その先はグランフロント大阪です。
「大阪あそ歩」の
参加費は1500円です。
お申し込みは大阪あそ歩事務局まで。
↓ここをクリック
https://www.osaka-asobo.jp/course154.html
ご参加をお待ちしています。
大阪民俗学研究会代表 田野 登



