『文化の窮状』を読む(4) | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

今回も次の書物をテキストにします。
ジェイムズ・クリフォード著、太田好信他訳、
『文化の窮状―20世紀の民族誌、文学、芸術』
人文書院、2003年1月20日発行

写真図 お盆の時、読んでいた本




前回は、文化の創造と喪失をめぐって
「非西洋人全般に及ぶ原理」について言及しました。
もしかして、ボクの深読みではないかと
懸念していましたところ
そうではなかったようです。


今回、取り上げます「第1章 民族誌的権威について」の
「権威のテクスト」としての具体化の記述を追いますと
●ここまで概観してきた権威のさまざまな様態
 ―経験的な、解釈的な、対話的な、多声的なそれ―は、
 西洋非西洋を問わず、民族誌テクストの
 あらゆる書き手が利用することのできるものである。


著者自身「西洋非西洋を問わず」と自負するのが
民族誌的権威についての見解のようです。


「第1章 民族誌的権威について」を
通読してみましてキーワードは「テクスト」と読みました。
如何にしてフィールドワークにおける現地人の「声」が
「民族誌テクスト」として「文字」として書かれ、
研究者・読者に共有されるのかと云った問題は、
民俗探訪を重ねる者にとりましても
身につまされる重大事です。


現地で聞いたとおりに書かれテクスト化され
使い回しよく引用されるものでは

決してありません。
聞き書きの談話とテクストとの間に

いったい何があるのでしょう。

●談話を理解するためには、
 「あなたはそこにいたのでなければならない」、
 すなわち談話主体の現前に立ち会っていたのでなければならない。
 談話がテクストになるためには、(中略)
 ある特定の発話や話者の意図から
 切り離されなければならない。


テクスト化されたデータは
現前した「場」から切り離されたものであって、
時間・空間を超えて
持ち運びも、コピペも可能なデータとなります。
著者は次のように記します。

●テクストは談話とは違って
 旅をすることができる。
 多くの民族誌的記述がフィールドで
 生産されているとはいえ、
 実際の民族誌の構成は別のところでなされている。
 談話的、対話的条件のなかで構成されたデータは、
 テクスト化された形でのみ占有される。


もちろん人類学者によるフィールドにおける
データのテクスト化には
何人もの現地人が関わることがあります。
*象徴人類学や解釈人類学に業績のあった
ヴィクター・ターナーを著者は引きます。
  *象徴人類学や・・・:ウィキペディア「ヴィクター・ターナー」
           最終更新 2014年4月27日 (日) 18:26

●ターナーが発表している研究は、
 言説構造においてひじょうに多様である。
 そのいくつかはかなりの部分が

 直接の引用からなっている。・・・


ターナーの論文には「ある儀礼専門家の男性」と
助手兼通訳の名前が出てくるとも記しています。
その調査から研究に至るまでの過程が
明らかに記述されています。

●全体として見た場合、
 ターナーの民族誌は
 例外的なほど多声的であり、
 公然と引用によって組み立てられている。
 (「ある熟練者によれば・・・」、
 「あるインフォーマントの推測するところでは・・・」)。
 とはいえ、
 彼はンデンブ人をさまざまに異なった声で

 構成しているわけではなく、
 私たちは「村のどうしようもない隠語」を

 聞くこともほとんどない。
 フィールドのありとあらゆる声が、
 一定程度取り替え可能な
 「インフォーマントたち」の
 説明的な散文へと平準化されている。


集音装置で以て、

得られた音声が自動的にテクストになるのではありません。
「説明的な散文へと平準化」されないと
持ち運び可能なデータとならないのです。


そこで何が行われるのでしょう。
●一篇の民族誌のなかにおける
 現地人の発話の演出や、
 必要とされる翻訳と通俗化の度合いは、
 複雑な実践的・修辞的問題である。
 
「現地人の発話の演出」が行われるのです。
このような過程を経るなかに
「民族誌的権威」が問われるのです。

この章の結びの個所は以下のとおりです。

●私は、ここ数十年のあいだに可視化されてきた、
 複数の主要な権威のスタイルを見分けることを試みてみた。
 民族誌的著作というものが生きているとすれば、
 そして私自身もそう信じているが、
 そうだとすれば、
 それは民族誌がこれら複数の可能性のなかで、
 と同時にこれらの可能性に
 抗って闘っている限りにおいてのことなのだ。


民族誌が書かれたデータである以上、
テクスト化される過程において
異なる言語の統一から始まり、
記述の整合性が求められます。
その間、複数の関わった人たちの間の
関係性が作品に反映することになります。

そこに「民族誌的権威」が示されます。


如何にフィールドに暮らす人々を
書くのかは
ささやかな民俗調査を続ける
ボクの喫緊の課題でもあります。


究会代表 田野 登