前回、ケガレ論を紹介するにあたり
該書《第七章 体系の外縁における境界》を
挙げると記しました。
著者は肉体と社会を比喩的にとらえます。
肉体においては「外縁における境界」とは
身体部位ではどこにあたるのでしょう。
約束を違えて《訳者あとがき》から導入します。
●ここで特に注目に価するのは
人間の肉体とは社会のイメージであるとする主張であろう。
著者によれば、
未開人が肉体の開口部や排泄物に大きな関心を示すのは、
それらが社会の周辺部を象徴するからであり、
いかなる社会も-そしていかなる観念の構造も-
その周辺部は不可避的に脆弱であるため
社会の崩壊を導く惧れがあるからである。
身体における開口部は
危険に曝されているのです。
侵入する外敵に曝されているのです。
心意的な存在で説明するのは差し控え、
あるいは、その外敵が昆虫であったり
細菌であったりもします。
その開口部は排泄物・分泌物を
溢出あるいは排出する
外部への通路でもあります。
これらのモノは紛れもなく
肉体的汚物です。
制御から離脱された汚物です。
その外部に排出された肉体的汚物が
特定の人物のモノである場合、
祭式において特効薬となる場合を筆者は挙げます。
●まず汚物は、
祝福を受ける能力を具えている人々の手にあっては、
祭式において善きことをもたらすために
用いることができる。
例えば血は、
ヘブライ人の宗教では生命の源泉と見倣され、
聖なる供犠の場合以外には
一切触れるべからざるものだったのである。
次に場合によって、重要な地位にある人々の唾は
祝福を与える能力があると考えられることがある。
ここでは肉体的汚物として
血と唾を挙げております。
これが排泄物、乳汁、汗、精液であってもよい訳です。
こんなことを書くだけで「変態」かと思われます。
それは、すでに
「私たち」がこのような肉体的汚物を
疎んじ穢らわしいモノとして
言葉にすることをも禁忌しているからです。
その肉体的汚物には両義性が潜むものなのです。
著者は、その魅せる両義性を次のように自問します。
●肉体の排泄物が災禍(わざわい)の象徴となり
能力(ちから)の象徴となるのは何故であろうか?
呪術師が聖人の儀式に参加する資格を受けるとき、
血を流したり近親相姦を犯したり人肉を食したりすると
考えられるのは何故であろうか?
成人の儀式における彼等の呪術はほとんど、
人体の周辺部に宿ると考えられている能力を
操作することから成立しているのは何故であろうか?
肉体の周辺部には
特に能力や危険が潜んでいると考えられるのは何故であろうか?
第一に我々は、
集団的祭式は幼児的幻想と
共通のものを表現しているという考えを
除外することができる。
この自問のうちに除外されたのは心理学者の考えであります。
フロイトによるリビドーなんぞの性的欲求を
幼児期から蓄積された深層心理と見る見方のことでしょう。
むしろ肉体的汚物が有する両義性は、
開口部の持つ危険性に求めるようであります。
●第二に、あらゆる周辺部は危険を秘めている。
もし周辺部があちこちに引きまわされれば、
基本的経験の形態が変わってしまうからである。
どのような観念構造においても侵され易いのは
その周辺部である。
従って肉体の開口部は特に傷つき易い部分を象徴していると
予想するべきであろう。
そういった開口部から溢出する物質は、
この上なく明白に周辺部の特徴をもった物質なのである。
唾、血、乳、尿、大便あるいは涙といったものは、
それらが溢出するというただそれだけのことによって、
肉体の限界を超えたことになる。
躯から剥落したもの、
皮膚、爪、切られた毛髪および汗等も全く同様である。
肉体の周辺部を
他の周辺部とは全く関係のない別種のものとして扱うのは誤りなのだ。
さて、一気に著者の論を連ねましたが、
狐に摘ままれたか、
さっぱり理解する気になれないか
いずれにせよ。
そもそも祭式に肉体的汚物が重要な役割を持つといっても
臍の緒や遺髪や爪を大事に残す
風習ぐらいしか思いつかないかも知れません。
著者は次のように記します。
●ある場所においては月経の汚穢は致命的危険として怖れられ、
ある場所においてはそのようなことは全然見られない。
ある地方においては死の汚穢が日々の関心事であり、
ある地方においては全くそうしたことはないのである。
ある地域においては排泄物は危険であるが、
ある地域においては単なるお笑い種にすぎない。
著者は「世界中の各種の祭式が
肉体のさまざまな相を扱う方法が一様でない」とも述べています。
問題はこのような肉体的汚物を
処理する行為の持つ意味を
次回以降、探究することになります。
大阪民俗学研究会代表 田野 登