天保町の「砂浜」考(1) | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

昭和24(1949)年に安治川内港化により
海成地となり、現在、地上に存在しない
場所について、このところ調べております。


本ブログ「昭和12年の天保町の生業(2)」に
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「いずれ、図像上での「漁師と船大工の町」を
明らかにしたい」と記しながら
捗っておりません。


なぜ、図像上での存在を
明らかにしたいという好奇心に
駆られるのでしょうか?
それは、30年近く以前の聞き書き調査時に
語られたことを記述した、
自分の記事を確かめたいからです。


とりわけ今、ボクを悩まし、研究に駆り立てているのは、
天保町の「砂浜」のことです。
地図、地誌等の資料に当たっても出てきません。
もしかして、ボクの記述が間違っているのでは?
と思ったりもしています。
「天保町の砂浜」とは、話者も話していないのでは?


天保町の「砂浜」のことで
悩んでいるなら、もう一度
話者ご本人に会って、聴いてくればいいのにと
思われるかも知れません。
大正11年生まれの話者を
昨夏、港区内の病院に入院されていると
近所で聞きつけ病院に見舞いました。
あれだけ、いろんな話をして下さったその方も
すっかり記憶をなくされていました。
もう一度、聞き直すことはできませんでした。


もし、聞き直すことがあっても
資料を上書きするのではなく
別の資料として記録されなければなりません。
聞き直されることにより、
話者には合理化する意識が働くからです。
その点、民俗調査も
飛花落葉のその時を記録に
留めねばならないという辛さがあります。


12月15日、天保町から移住されて方の住む
港区八幡屋を訪ね、
「漁師町からの移住者の記憶」を
まとめようとフィールドワークをしました。


65年も前のことです。
30年前の調査で話して下さった
漁師たちは次々と亡くなったと聞きます。

移住当時、二十歳の漁師も85歳です。
精悍な漁師として鳴らしていた方と
おぼしき杖を衝いた老人に話しかけました。
30年前、訪ねたボクを認識しては
おられましたが、
「悪いけど、もう、そんな時代のことを
思い出す気にもならん」と
言われました。


60代の子供の代にあたる方も
八幡屋に来て生まれています。
70代の漁師の妻は、八幡屋に来てから
嫁いでいます。


かくして65年前に海に没した天保町は
記録にはわずかに残されても、
移住地の人々の記憶からは
漸次消え去ってゆきます。


天保町の「砂浜」は
地図、地誌等の資料にも見出せません。
調査時の話者には認識されていても
実在しないことだってあります。
ある特定の個人や集団にあって
共同の幻想として、心意伝承として
存在することはあります。
かつての妖怪変化や、
船玉さんがいさむといった
共同幻聴などは、そのような心意伝承です。


天保町の「砂浜」につきましては
致し方なく、ボクの調査記録を
よりどころに、分析することにします。
次回は、波除地蔵の由来として
書きとめました「天保町の砂浜」から
起筆します。


究会代表 田野 登