本ブログ記事について2021年4月18日、読者の方から
「「悪水路の付け替へ」もなかったし、
東西を逆に表記していたわけでもない」との指摘がありました。
2021年4月19日 田野 登
前回、絵地図の通称「蒲生墓」と水路の位置関係が
現在の地形が東西反対になっていることを
取り上げました。
この問題を解くことから始めましょう。
写真図1 *陸地測量部大阪地図
*陸地測量部大阪地図:玉置同書
第22図 陸地測量部大阪地図 明治19年(1886)
写真図1によって墓地をご覧下さい。
右中央やや下に右から「野田村」とあります。
その下、地図の右隅中央下部に右から「字西七反田南」
その下に右から「蒲生村字外嶋」が見えます。
その間に墓地の表記が見えます。
これが通称「蒲生墓」です。
それでは、近世絵地図に通称「蒲生墓」より西にある水路は?
見たらないのです。
墓より東(右)になら見えます。
鯰江川から墓の所で分かれて
北上する水路が描かれております。
写真図2 JR京橋駅北口の地図
現在の地図で確認しましょう。
南から、寝屋川があります。
北にJR学研都市線があります。
さらに北には京阪本線が北東にカーブしています。
問題の通称「蒲生墓」は、その間にあります。
歩けばJR京橋駅東の商店街を東に行けば
大阪市建設局東野田抽水所があります。
その南で、昔の鯰江川跡土手道の下に東西に、
土手道に沿ってあります。
問題の水路跡は、通称「蒲生墓」を東に出て
最初の道路を抽水所を左に見て、まず北東に行きます。
国道一号線を渡り、桜宮中学校を過ぎたあたりから
道路が左に緩やかにカーブします。
そのあたりから、京街道跡の商店街が近づきます。
まさに絵地図の表現する水路と
街道に挟まれたエリアにさしかかります。
その後は、当日、案内します。
前回の冒頭に挙げました浜田レポートのとおりです。
『上方』56号記事にあります「悪水路の付け替へ」の
痕跡は見当たりません。
近世絵地図が、墓と水路の位置関係を
東西を逆に表記し続けていたのを
墓地の位置を確定したゆえに
水路の掛け替えと解釈したと
ボクは考えます。
それは、明治の実測図に照らした上で
今日の水路跡道路の道の湾曲と
絵地図の2度湾曲する曲線との対応によります。
近世絵地図には、左右の位置関係の取り違えはあります。
それも版を重ねています。
この通称「蒲生墓」と水路との関係がそうでした。
しかし、水路の曲線は正しく表現されております。
ボクは、実際に踏査して描いたとは考えておりません。
まさに水路と街道に挟まれた場所に刑場が描かれております。
その施設が街道筋の狭まった場所に
位置していたことを意味するのです。
その証拠は?
地蔵堂に求められます。
現在、京街道を挟んでの向かい側(西側)に
町内で祀る立派な地蔵堂があります。
かつて、ボクはこの地蔵堂を
調査したことがあります。
*その時の記事を引用します。
*その時の記事:田野登「京橋駅界隈原風景(下)」
『大阪春秋』71号、1993年6月、写真キャプション
●都島中通三丁目14番の路上にある地蔵堂。
その傍らに木製の塔婆が立てかけられていて
「・・・為野江刑場於死刑無縁之諸霊・・・」と墨で記されている。
写真図3 当時の都島中通三丁目14番の路上にあった地蔵堂
この地蔵堂につきましては、*『大阪のお地蔵さん』にも
取り上げました。
*『大阪のお地蔵さん』:
田野登1994年『大阪のお地蔵さん』北辰堂
●往時、京街道と奈良街道との分岐点がこの地であった。
京街道は現在の京橋商店街に沿ってあった。
京阪京橋駅のある京阪モールから歩いて
15分もしたとところの左手に、地蔵堂がある。
もちろんそろそろ場末らしく
商店街の賑わいも絶えるあたりである。
木製の塔婆が立っている。
読めば「・・・為野江刑場於死刑無縁之諸霊・・・」とある。
消えかかった墨の字は「野江刑場」と読むことができる。
早速、向かいのお爺さんに尋ねたところ、
この地蔵堂から京街道を挟んで反対側の、
南北に細長く続く商店街一帯が、
刑場跡であるとのことを知らされた。
件の施設は、街道と水路に挟まれた
すぼんだ場所にあるのであって、
ことさらマチの交叉するような場所ではありません。
そこには、現在も町内の人たちが
地蔵尊を祀り町内の安全を祈願しておられます。
地蔵堂を調べて歩けば、
しばしば災厄を除けるために
尊像を安置し、祀り込めることがあります。
大正区の調査におきましては、
木津川口刑場跡地に「浪除地蔵」が祀られていました。
絵地図の曲線を読むことによって
街道と水路に挟まれた場所を特定しました。
その地が刑場跡地であって、
今日にあっては、
町内の安全を祈願する
地蔵尊が安置されているのでした。
大阪民俗学研究会代表 田野 登