浦江塾「行基伝承」の構想(7) | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


行基集団は土木技術を駆使して
淀川水系河口部に土砂の堆積して出来た、
島嶼部「八十島」において、堀川開削、あるいは改修工事に
関わっていたと考えます。

次に示します「白鷺嶋堀川」の
「津守里」もまた、港湾に面する地と考えられます。


●白鷺嶋堀川
  [長さ百丈、広さ六十丈、深さ九尺]
  已上西城郡津守里に在り、

先に引きました*地名辞典では
「白鷺嶋堀川」の項を次のように記述しております。
*地名辞典:『角川日本地名大辞典 27大阪府』1978年


●行基により、現在の大阪市西成区津守1~3丁目付近に
 開削された堀と伝えられるが、
 その正確な所在地は明らかでない。
とあります。


何たることでしょう。
「津守」によって明らかにされていた
大阪湾一帯を指す「津」が
すぼまって、現在の情報に拠っているのです。
「津」の解釈に整合性がみられません。
やはり「白鷺嶋堀川」の所在地もまた、
大阪湾一帯の広域にしてはいかがでしょう。

福島区に「鷺洲」(さぎす)という地名があります。
福島区ですから、大阪湾に面する地ではありません。
もとより今日、井路川すら埋め立てられてありません。
水辺を偲ぶよすがは、寺社にしか求められません。

その北方に現在、勝楽寺(北区大淀中)があります。

享保20(1735)年刊行の*『摂津志』四に
勝楽寺に関する次の記述が見られます。
 *『摂津志』四:『日本輿地通志 畿内部61巻』
執筆者田野が書き下し文に改め、下線部は補筆。

●勝楽寺《半角割注:浦江村に在り。
 大般若経一百三十五の跋に云ふ
 「承久三年三月廿七日摂津国天王寺御領
 西成郡鷺島の荘浦江村勝楽寺に安置す。》
 
勝楽寺所蔵の「大般若経一百三十五」の跋に
勝楽寺の所在地として
「西成郡鷺島の荘浦江村」と記しているのです。

『行基年譜』に記されている
「白鷺嶋堀川」の「白鷺嶋」が
この記事では「鷺島(の荘)」と対応します。
さらに『行基年譜』が書写されたのが
建保2(1214)年に対し、
『摂津志』記事の「大般若経一百三十五」の跋には
「承久三年三月廿七日」と記されていたとあります。
承久三年は1221年です。
『行基年譜』を書写した時点である

建保2(1214)年とほぼ一致します。
鎌倉期初期、近世の浦江村は「鷺島の荘」に属し
このあたりを「白鷺嶋」と称する島が
存在したというのでしょうか?
『摂津志』の記事が偽文でないならば、
そのような推定が成立します。


降って、安政年間未刊行の

*『摂津名所図会大成』巻之十に
次の記事が見られます。
*『摂津名所図会大成』:船越政一郎編纂校訂、
   1928年『浪速叢書八』浪速叢書刊行会

●鷺嶋弁天堂
 《半角割注:了徳院の西ニあり妙壽寺といふ弁財天を安置す
  いにしへ此辺塚本海老江浦江大仁等を
  鷺嶋の荘といひしよし》

半角割注の「妙壽寺」は、

浦江塾を開く妙寿寺(福島区鷺洲2)ですが、
この「鷺嶋弁天堂」記事から
「鷺嶋の荘」の領域が見えてきます。

塚本(現在の淀川区塚本)、

海老江(現在の福島区海老江)、
浦江(現在の北区大淀北、大淀中、大淀南および福島区鷺洲)、
大仁(現在の北区大淀中)あたりが

「鷺嶋の荘」となります。

『行基年譜』の「白鷺嶋堀川」という堀川は、
いったい、どこなのでしょうか?

現在、大阪市立大淀中学校(北区大淀中)の場所から
戦前、古墳時代とみられるクスノキの刳舟が出土しました。
*「鷺洲遺跡」と命名されています。
*「鷺洲遺跡」4-2-51 表 4-2-10 史跡、天然記念物及び重要文化財一覧
http://www.city.osaka.lg.jp/toshikeikaku/cmsfiles/contents/0000198/198452/houhousyo4.pdf
Wikipedia「丸木舟」最終更新 2013年4月15日 (月) 08:57


刳舟の出土から、
この鷺島と称される地域が水辺であって、
舟を操る人々が居住していたとボクは想像します。
『行基年譜』に記される「白鷺嶋堀川」は、
このあたりから西へ開削された水路と推定します。


『摂津志』には勝楽寺の所在地は
「鷺島の荘浦江村」と示されていました。
「浦江村」というムラの名から推察しますと
やはり水辺であって、入江の光景が想像されます。
「白鷺嶋堀川」の長さを「百丈」と記しております。
300メートルほどでしょう。
前回、取り上げました「比賣嶋堀川」の6分の1の長さです。
すぐ、そこに海があったのです。


水辺と云えば
浦江八坂神社(北区大淀南)の
『素戔嗚尊神社略記』には、次のように記されています。
●この辺は、太古より形成された
 多くの島々の中の一つである
 田蓑島であったろうと考証されています。
 鎌倉時代の末まで行われていた
 八十島祭りはこの島でも行われました」
とあり、水辺の祭祀の伝承がみられます。


今日こそ、水辺の風景は失われましたが、
浦江と云えば、明治の半ば頃までは、
杜若、蓮といった水辺の花開く
遊覧地でありました。
水利の技術に長けた行基集団が、
河川の開削・改修を手がけたとしても
不思議ではない場所であります。


次回は、『行基年譜』の最後です。


究会代表 田野 登