近世大阪は、まさに「水都」の観を呈しておりました。
諸国の蔵屋敷が中之島をはじめとして、市中に連なっておりました。
堀川が市中に、網の目のように張りめぐらされ、
多くの物資は船で運搬されておりました。
諸国からの物資は、廻船問屋が商っておりました。
今日、かつての都心(大坂三郷町地)を流れている川で残っているのは、
いくらあるでしょう?
東西には、堂島川、土佐堀川、安治川、道頓堀川
南北には東横堀川、木津川だけです。
(尻無川は、都心を流れているとは、云えません。)
現福島区域の対岸の西区域には、富島があり、雑喉場、江之子島・・・
などなど、木津川筋には、また
たくさんの諸国問屋・船宿が分布しておりました。
大坂三郷町地の中心部の「船場」は、
その名にふさわしく、浜で荷が積み卸しされていました。
(一説には「水揚げ」のことばの語源とも。)
現福島区域は、堂島川、安治川以北に位置します。
決して、「都心」では、ありません。
しかし、「福島」辺りにも、諸国問屋・船宿は散見できます。
福島天満宮にまつわる「餓鬼島伝説」を
このブログでも論じることになります。
そこで、準備作業としまして、
現福島区域における諸国問屋・船宿の分布を表にしました。
写真図 現福島区域における諸国問屋・船宿の分布
*延享版『改正増補 難波丸綱目』「諸国問屋?船宿」現福島区のみ
@野間光辰監修1977年『校本難波丸綱目』中尾松泉堂
*延享版:延享5(1748)年刊
現福島区域のうち、三郷町地であったのは、安治川新地と堂島新地です。
この地域には、諸国問屋・船宿が立地しました。
それに、三郷町地に接続するムラである上福島村、下福島村にも
諸国問屋・船宿が営業されていました。
新堀(安治川)開削以前に、栄えたと記録に残る「野田新家」はとなりますと、
延享版『改正増補 難波丸綱目』「諸国問屋?船宿」に
記事が見当たりませんでした。
いずれ、延享版『改正増補 難波丸綱目』の他の生業を
虱潰しに当たって「野田新家」の近世半ば以降を
明らかにしたいと思っております。
7月6日は浦江塾で「鼠島・野田新家いまむかし」を、
7月21日は福島区歴史研究会セミナーで「餓鬼島伝説」を、
話そうと思います。