晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

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ご希望の方は、氏名、電話番号をお書き添えの上、tano@folklore-osaka.org
まで、直接メールいただきますようお願いします。毎週無料でメール配信します。 田野 登

前回、182話の結びは、
「神体としての「石」を『南路志』記事の「野神」と照らすことです。
「野神」が如何に変装して次の段階の祭祀対象となるのかを知りたいのです」でした。
しばらく大阪市城東区の「野神」を先延ばしにして
『南路志』記事の「野神」に遊びたいのです。

今回のタイトルは「大松」です。

写真図1 ぬくもりを感じさせる大松

182話≪ミィさん≫では、ミィ(巳)さんが居付いたとされた大木は楠でした。
今回の『南路志』の世界では、大きな松を発見しました。

 

最初に「野神」の神体を探ります。
『南路志上巻』闔国之部、高知県文教協会、1959年、国立国会図書館所蔵の記事から
作成した「南路志野神類台帳」から「野神」記事を全て挙げます。
⑧【野神】同*(野神)同*[穴川ノ上]御神躰石 同*(祭礼)五月五日/九月九日
@第9之3「安芸郡下」「伊尾木村」
⑨【野神】同*(野神)[ハツチヤシ]同*(祭礼)五月五日/九月九日
 @9之3「安芸郡下」「伊尾木村」
⑩【野神】同*(野神)[安田岡]同*(祭礼)五月五日/九月九日
 @第9之3「安芸郡下」「伊尾木村」
⑪【野神】野神[玉造地蔵の後神体赤石]
 @第9之3「安芸郡下」「土居村」
⑯【野神】野神[味谷/神体石]/社記云矢神と申伝寺尾の畝鼻に地面弐代斗有其内に大石有其間に矢根ありし由今ハ散失古へ寺尾何某矢根と申伝
 @第9之3「安芸郡下」「川北村」
⑰【野神】同*(野神)クホタ神体石社地ハ昔ハ弐丁斗艮ノ方ニ有
 @第9之3「安芸郡下」「川北村」
㉑【野神】野神[右*(蔵王権現)境内]神体[トウモチノ木]
 @第9之3「安芸郡下」「川北村」
㉓【野神】野神[新町ノ後]神体石 同*(祭礼)九月十日
 @第9之3「安芸郡下」「松田島村」
㉔【野神】野神[天神坊 神体石/祭神 土居村耕作牛馬]
祭日[三月三日/五月五日/九月九日]
 @第9之3「安芸郡下」「江川村」
㉕【野神】同*(野神)[堂尾]同*祭日[三月三日/五月五日/九月九日]
 @第9之3「安芸郡下」「江川村」
㉜【野神】野神[ウトノ口無神体大松一本を祭]同*(祭礼)九月十五日
 @第10之1「香美郡上」「夜須村」

以上「野神」項目11件中10件が「安芸郡下」に見られます。
㉜【野神】野神「香美郡上」「夜須村」にタイトルの「大松」を目にします。
此処では「大松」を扨て置き、先ずは「野神」を祀る10件の地域を通覧します。
『保存版 地図で知る平成大合併』2006年、平凡社を読図しましたところ、
高知市の東に「香南市野市」「香南市夜須」、
更に東に「安芸市伊尾木」「安芸市土居」が読み取られます。
「香美郡夜須村」は現在の高知市の東に接し、
「安芸郡」は「香美郡」の東に隣接する地域であります。
「野神」と称する「神」は高知市の東、
とりわけ「安芸川」「伊尾木川」の河口部に「野神」が分布することがわかります。
神体についての記述に目を遣ります。
「神体」明記は7/10件、7件のうち「石」6件、「赤石」1件、
あと1件の㉜【野神】は「無神体大松一本を祭」とあります。
此の「大松一本」は神体で無いまでも此れを祭祀の対象としているのであります。
何処か大阪市城東区の「字東野塚」の塚に似ています。

「松」に注目します。
㉜【野神】の「香美郡」は「安芸郡」の西に隣接する地域であります。
夜須村の「ウト」につきましては既に本ブログ177話「謡坂」で
柳田国男1910年を引いて、次のとおり記述しました。
◆「ウタウ坂」というのは「ウト」「切り通し」の洒落言葉であって、これまた山間です。

『南路志』における「松」は、
「香美郡上」「深淵村」の㊴【野宮八幡】にも見えます。
◆野宮八幡[野宮]祭日六九月十八日/社記云社地十八代
[久敷退転無社里人松を野宮と祭来ル]
正保三年当村郷士原源五右衛門成直社を建立す
東鏡云養和二年九月廿五日癸巳云云
於野宮辺希義被討之由云云

「野宮」と称される字名に祭祀される「野宮八幡」につき、
「里人松を野宮と祭来ル」とあります。

写真図2 神秘感をそそる大松

㉜【野神】の「無神体大松一本を祭」と対応します。
此の㊴【野宮八幡】につき*『高知県の地名』は次のとおり記述しています。
 *『高知県の地名』:『高知県の地名』日本歴史地名大系第40巻、1979年、平凡社
項目は「野々宮神社」です。
◆野々宮神社 現在地:野々市町西野 東上野/西野の北部、通称東上野に鎮座。
八幡宮と野神(のがみ)社が合祭され、野宮(ののみや)とも野宮八幡ともいう。

注目すべきは「野神(のがみ)社が合祭」されたとあることです。
『南路志』㊴【野宮八幡】に見えなかった「野神」が見えます。
此処でも「野神」が地域にあって有力な神社に取り込まれたのでしょう。
八幡宮の末社としての「野神社」が祠に祀られているものと考えます。
此処の「野神」はいったい何方様なのでしょうか?
次回は此れまた『高知県の地名』にあって『南路志』に無い解釈から始めます。

究会代表 田野 登
 

2026年6月14日(日)、河川レンジャー・桑村和男会友のガイドによる
「淀川歴史まち歩き⑧」に参加しました。
阪神伝法鉄橋見物がてら鷺洲まで歩きました。
本ブログは、この日の気ままな町歩きを取りとめもなく綴ります。
「淀川歴史まち歩き⑧」は阪神本線「淀川駅」解散でしたが、
ボクは、ある思いがあって実家のある鷺洲まで足を延ばしたのでした。
ボクの視点で立ち止まったスポットを挙げます。

当日の出発点は阪神なんば線「福駅」でした。
「大塚切れ洪水碑」に行く道すがら、福の共同墓地の上から
淀川上流を眺めました。

写真図1 福の共同墓地

対岸(左岸)の鉄橋の下に遥かに超高層ビル群が見えます。
梅田あたりが、「小さな摩天楼」のように見えます。
「福」といった験の良い名の漁港を控えた地にあって、
このような対岸を見わたす景観はボクのお気に入りなのです。
「大塚切れ洪水碑」見学の順番待ちの間に電車が
伝法鉄橋を通りました。

写真図2 阪神なんば線伝法鉄橋を渡る近鉄電車

阪神電車でなく残念ながら、近鉄の「不祝儀の色」をした車両でした。
ボクは、阪神線の「阪神」の黄色と銀色の縞柄の車両を待ちました。
来ました。来ました!
並行する伝法大橋下流歩道からワンショット。

写真図3 阪神なんば線伝法鉄橋を渡る阪神電車

提供された「河川レンジャー」資料によりますと、
手前の現在の橋梁より「桁下高が7m上がります」とあります。
今の鉄橋は水面擦れ擦れに架っているのでしょうか?
来しな「福駅」に着くまでに車窓を眺めましたところ
川波が心なしか、気清かに見えました。
高潮時の安全性を確保するための工事が進められているのです。
ボクにとっての今回の楽しみは、ここまでで、後は軽く見流しながら、
まち歩きの列の後から歩き、気に入った光景を撮りました。

澪標住吉神社には一昨年夏に≪大阪市章「みおつくし」今昔-浪花の澪標-≫の
講演の準備に歩きました。
その時、目に止まった常夜燈をワンショット。」

写真図4 澪標住吉神社の常夜燈

「北 樽屋中世話人」と刻まれています。
「北」は北伝法で、伝法川右岸・北岸の町です。
「樽屋」の「樽」は樽廻船に船積みされた酒を詰める樽です。
近世に在っては正蓮寺川沿いの「南」より栄えていたようです。
鴻池運輸の鴻池本店、本宅を過ぎ、伝法川・正蓮寺川分流点近くの
烏宮に立ち寄りました。
八咫烏が日本サッカー協会のシンボルとて、
2026ワールドカップが開催されユニホームが
社務所に掲げられていると思いきや?
ひっそり閑で拍子抜け。
拝殿の船の舳先をワンショット。

写真図5 烏宮拝殿

なにやら太閤秀吉が此処から船出して「遠征」に出かけたとか?
この伝承についてはサラリとガイドされたようでした。
正蓮寺川公園を東進、かつての中津川に挟まれた鼠島に着きました。
公団の団地が建っています。
広い公園があります。
高見新家公園です。
此花区側の「高見」、福島区側の「野田新家」の「新家」を合わせての命名。
両区の境界線が北東から南西に走っています。
両区の境界線を挟んでのことからか?愛称は「ふれあい公園」です。

写真図6 高見新家公園

リニュアルされた下水道科学館を右手に高見スーパー堤防に出ました。
緩やかなスロープがスーパー堤防です。
阪神本線「淀川駅」にて解散。
桑村和男さん他、スタッフのサポートで無事終了しました。

ボクはその後、野田阪神に出て腹ごしらえをして鷺洲を歩きました。
野田阪神高架を潜れば鷺洲です。
『鷺洲町史』に云う聖天川跡地道路の南側は工事中です。
聖天川跡の北側は高層マンションが建っています。
いっぽう南側は工場中で、以前、長屋が建っていて、
長屋の辻にはお地蔵さんが祀られていました。
それが今では52階建ての超高層マンションの建設中です。
6月12日になって、山神務会友が3月に亡くなられていたことを知り、
彼のことが偲ばれました。
彼の生家のあった長屋跡の現在をワンショットしました。

写真図7 聖天川跡地道路の南側

信号を渡れば鷺洲中公園です。
昭和30年代には土俵がありました。

写真図8 鷺洲中公園

其処で相撲を取り、彼のベルトを切ってしまったこともあります。
素人落語で悲喜こもごもの話で笑わせた彼でありました。
2016年11月、「福っくらトーク」の前身の「浦江塾」で
「楽しかりし長屋暮らし」を話された時は拍手喝采でした。
今となれば、子だくさんの家の末っ子として育ち、
ボクより世間を能く知っていた彼でした。

此の後、実家に寄らず「浦江聖天」了徳院に立ち寄り、
ご住職から、ある地蔵さんのことを訊ねました。

写真図9 「浦江聖天」了徳院からの眺め

「福っくらトーク」での≪「梅田牛の藪入り」いま昔≫での一齣の取材です。

此の日、西長堀の図書館に着いたのは閉館2時間前でした。
取り留めも無く書き散らした≪阪神なんば線伝法鉄橋を渡って鷺洲まで≫を終えます。

究会代表 田野 登
 

前回《暮らしの古典》181話の結びは
「次回は「東野塚」の駐車場に祀られている「お稲荷さん」を取り上げます」でした。
ところが駐車場に祀られている「お稲荷さん」は、
会社がお祀りしている神様と分かり、個人情報のこともあり、

追究することを断念しました。
此の「お稲荷さん」のことは今回のブログで、他所から接近して炙り出すことにします。

今回のタイトルは「ミィさん」で三毛猫の名前ではありません。
牧村史陽編『大阪ことば事典』講談社学術文庫、1984年に
「ミィサン[巳さん](名)蛇を恐れていう」とあります。
何処に恐ろしい「巳さん」が潜んでいるのでしょう。
今回は野球小僧会友と探検しました。
彼は「東野塚」の稲荷祠の周辺を事前に調査されていて、
ご近所の昭和8(1933)年生まれの男性宅に案内されました。

ボクの知りたいことは「東野塚」の稲荷祠周辺の祠以前の「昔」です。
以下、野球小僧会友との調査結果を箇条書きに記します。
調査は2026年6月5日(金)です。
話者は旧小字「東野塚」に住まわれる方です。
1 明治40(1907)年生の父は、紡績機械製造会社*「紡機」に就職した。
   *「紡機」:紡績機械の略称で、鉄工所。
2 昭和22(1947)年に、此処に住んだ。
3 28歳の時、昭和36(1961)年に結婚した。
4 稲荷の祠は会社*(鉄工所の後身)が祀っている。
5 稲荷は、現在地より東、此の家の裏側の桜の木の下に祀られていた。
6 桜の木は伐採された。
7 傍らに楠があり、妻は蛇「巳さん」を見たという。

「妻は蛇「巳さん」を見たという」と確かに聴きました。
早くもタイトルの「巳さん」が出ました。
早速、傍らにあったという楠を目当てに探検しました。
一先ず、西の方に大阪城を目指す城見通に出ました。

写真図1 城見通

前方(西)の鴫野橋筋を左折・南進すれば「野塚」を冠する「野塚橋跡」碑があり、
小字「野塚」の南東の入口でした。
手前を右折した所の空地に目当ての楠が見えます。
駐輪スペースの裏に野球小僧会友が一つの石を見つけました。
駐輪スペースの裏に踏み込みました。

写真図2 駐輪スペースの裏

左(北)に自然石2個が据えられ、お神酒・メロンサワー・お水が供えられています。
前面に石の囲いが見えます。
神域なのでしょう。
右手(南)手前の楠の根元にも石の欠片が見え、
其処にもお神酒とお水が供えられています。
駐輪スペースの裏に二組の石組を確認しました。

写真図3 楠の根元の「塚」?

これぞ「東野塚の塚」の現在と見ました。
野球小僧会友から翌々日(6月7日7:14 PM)のメールに
「あのお家のガレージの上を、巳さんがほうて(這って)出入りしていたのは、
凄く不思議な光景ですね」とあります。
彼は今回、目にした楠に「傍らに楠があり、妻は蛇「巳さん」を見たという」
不思議な光景を重ね合わせたのです。
神体は石です。
依代となる桜の木が何の事情があってか、
伐採された現在、神木は楠だけです。

写真図4 神木の楠

冒頭に引いた『大阪ことば事典』の「ミィさん」の項の続きを載せます。
◆…各所の古木には大ていミイサンが住んでいると称し、
しめ縄などを張りまわしてあがめたものであるが、
その古木も、市の中央部のものはほとんど焼けてしまった。
また、巳さんは弁天さまのお使いものといわれて、
たとえば稲荷における狐のように、弁才天と蛇とが混同してしまっていることが多く、
その例は、生国魂神社の末社淀姫神社は、
弁天祠に淀君を配祀したものであるが、
ここに願掛けに行く者は、生きた蛇を逃してやる風習があった。

「巳さんは弁天さまのお使いもの」とあります。
「弁天さま」は鴫野東の八剱神社の末社にも祀られていることに気づきました。
「生国魂神社の末社淀姫神社は、
弁天祠に淀君を配祀したもの」とある「淀姫神社」は、
嘗ては鴫野に鎮座していました。
『東成郡誌』東成郡役所、1922年刊を引きます。
◆又大字鴫野の西部弁天島に大藪林ありて林中に
中央弁天社、右淀姫社、左稲荷社の三社並立し、之を総称して巳様と云へり。

淀姫は、弁天社、稲荷社共々「大字鴫野の西部弁天島」に神として祀られていました。
今日の八劔神社の祭祀については≪八劔神社http://www.880.jp≫に次の記事があります。
関連事項だけを抄出します。
6月12日午後、訪問するも、神職の方が不在であったため、
以下の記事は、ネット情報による推論であります。

 

6月21日(日)神職から

本ブログに云う「東野塚の塚」とは関係が無い旨聞きました。

従いまして以下の弁天社に関する推察

≪◆当社の~神々と推察されます≫は誤りであることが分かりました。

此のことを加筆します。2026年6月22日
 

◆当社の境内には、大小5棟の本殿があります。そのうちの1棟(本社)を中心として、
4棟の末社があります。それぞれにお鎮まりになられている神様は、以下のとおりです。
 (中略)
・辨天社  辨財天女、大楠稲生大明神、楠春稲生大明神
弁天社には三柱の神々が祭祀されているとあります。
弁財天一柱に、稲荷大明神二柱であります。
弁財天は、彼の楠の老木から話者の家族が見たというミイさん蛇体と重なります。
其れも遡れば、八剱神社の鎮座する鴫野村小字「宮の前」より、
遥か西の「大字鴫野の西部弁天島」の「大藪林」に祭祀されていた神と推察されます。
稲荷二柱のうち一柱は、此の地「東野塚」に今回、見つけた自然石のお塚で、
もう一柱は、弁財天と同じく「弁天島の大藪林」に祭祀されていたと推察されます。
今回、見つけた「東野塚の塚」の神々は、
今日、八剱神社末社の祠に祭祀されている神々と推察されます。

 

「東野塚の塚」の楠の老木について考えました。
手始めに*柳田国男の「うつぼ舟の話」1926年、今から100年前の論考です。

 *柳田国男:「うつぼ舟」『定本柳田國男集』第9巻、1962年、筑摩書房、
(初出『中央公論』1926年4月)
「神霊の宿する所」としての
「天然の空洞木」と、「ひさご」を挙げた上で、次の記述があります。
◆我々の神は日本種族の特性を反映して、
頗る移動を愛し又分霊を希望せられた。

翻って懸案の「楠の老木」とは、
神霊が居つく場所であって宿する所ではなかろうか?
其の神の遣いとしての蛇が棲まう空間ではなかろうか?
其の神霊は移動もし、同じ霊力を持つ神霊が方々に増殖もする。
このように解釈をしています。
推察ばかりで結論が未だ出ません。
此処まで来れば折口民俗学に頼らざるを得ないことになります。
其の次に控えているのは、
神体としての「石」を『南路志』記事の「野神」と照らすことです。
「野神」が如何に変装して次の段階の祭祀対象となるのかを知りたいのです。

究会代表 田野 登
 

今週の≪暮らしの古典≫181話のタイトルは「淫祠」です。
《暮らしの古典180話:2026-05-31 11:30:27》「鐘紡」では
「鐘紡運河跡の児童遊園」を引きました。
https://nippon1000parks.blogspot.com/2023/11/34871000.html
2023/11/17 (以下、ブログ「児童遊園2023/11/17」と表記します。)
この情報には鳥居が倒れている「お社」が見えます。
「塚」ひょっとすれば「野神」が見えるかも?」と期待感を抱いて
居ても立っても居られなくなって
2026年6月2日(火)≪鴫野西「塚」探索記:2026-06-02 06:20:50≫に出ましたが、
飛び交う台風情報が恨めしく引き上げました。

明くる6月3日(水)、朝からの悪天候を突いて、
午後の空き時間、鐘紡運河跡の児童遊園に赴きました。
生憎、老人憩の家は閉まっています。
ご近所の方を訪ねました。
偶にお参りする人もいるようですとのこと。
「某さんがお世話なさっておられますので
お聴きにゆかれましたら」と丁重に断られました。
地蔵調査の時に屡々、体験した「たらい回し」です。
祀られている神様と、ご近所の関係性を知ることができます。
紹介されたお宅に行きました。

出て来られたご婦人は
「今は祀っていません」と突っ慳貪な返事です。
たらいを廻した最初の方とは随分、態度が違います。
用意していた調査カードの神名を訊ねることさえ忘れていました。
その方は以前、八剱神社は「ウチの神様でない」とか、
伏見稲荷も「ウチの神様でない」とか仰り、無いない尽くしです。
よくある伏見からの御霊の分祀でもないようです。
現在祀っている場所より南西に祠があったとのこと。
「現在、祀られている昔の鐘紡の敷地ではなかったのですか?」との問いには、
「鐘紡の敷地のことは知りせん」とのこと。
「鳥居が倒れているのは何故ですか」との問いには
「根元から腐って危険なので倒しました」とのこと。
義父が祀り始めたのは昭和30年頃とのことで、
「それ以前のことは知りません」とのお返事。
何か話せない事情でもあるのだろうと思い、現地を発ちました。
「話せない事情」こそ、研究テーマたり得ます。

マンションに帰ってデータをひっくり返しました。
この神様の名前をブログ「児童遊園2023/11/17」には「白高大善神」とありますが、
倒された鳥居にあるはずの扁額も無く、蛇腹が邪魔して祠の前まで踏み込めていません。
「児童遊園2023/11/17」の*先行調査を再読しました。
 *先行調査:【白高大善神】(はくたかだいぜんしん)大阪市城東区
https://yaouolaoder.hatenablog.com/entry/2018/05/30/181905
(以下、ブログ「白高大善神2018/05/30」と表記)
此のブログには写真が添えられていて2018年5月30日の時点では、
ちゃんと鳥居が立っていて扁額の「白高大善神」の文字が鮮明に読みとられます。
ブログ「児童遊園2023/11/17」はブログ「白高大善神2018/05/30」を下敷きに
記述したと思われます。
「児童遊園2023/11/17」は、祭祀場所について次のとおり記述しています。
◆おそらく、元々の運河の横には管理用通路(私道)が通っていて、
それに面して建てられた家々があったものが、
通路と運河とがまとめて公園になってしまったためではないかと考えます。
この鳥居が倒れている白高大善神のお社も、そういう土地利用だったのではないかと。

神仏の祭祀場所を巡るトラブルは屡々、発生します。
児童遊園という公有地に神仏を祀ることは「信仰の自由」を損なうとする考え方があります。
拙著『大阪のお地蔵さん』渓水社1994年の「法廷に立たれたお地蔵さん」では、
控訴審判決は、「地蔵像では年一回二日間、
すでに季節の風物として習俗化した地蔵盆の行事が行われているだけである」とし
原告側の主張を否定したことを記述しました。
お地蔵さんの場合の「季節の風物として習俗化した」行事は
此の「白高大善神」にも適用され、公有地の使用が許されるのでしょうか?
祀りを放棄した突っ慳貪な返事をしたご婦人の話せない事情の一端がわかりはじめました。
無いない尽くしであった八剱神社、伏見稲荷神社に断られた件については、
抑々、明治の政府の宗教政策に起因するもののようです。

再び拙著を引きます。
「文明開化とお地蔵さんの受難」を上げます。
◆明治5年11月に布告された「町内路傍・環境ノ整備 申391号」
(以下、大阪府史編集室『大阪府布令集一』(1971)の原文を
現代語に読み替えたものを記す。)
府下各町内の路傍に、従来地蔵・妙見あるいは稲荷・道祖神など、
さまざまな小祠を軒下・路地・塵埃不潔な場所に置き、
敬神の道に適わないばかりか、往来運輸の妨げとなり、
あるいは幼少婦女朝夕群がり集まり、無用の時間を費やし、
時として祭りのため、町内から金銭を取り集めることもある。
野卑な風習も甚だしい。謂れのないことだから、今後禁止とし、早々に取り除く事。
(中略)この時代、大阪の町内の路傍に、お地蔵さんばかりか、
「妙見あるいは稲荷・道祖神など、さまざまな小祠」が祀られていたことが知られる。

文明開化の時代、此の国の宗教政策として「廃仏毀釈」にみられる神社神道を上位とする
ヒエラルキー構造が構築されます。
「妙見あるいは稲荷・道祖神」の小祠に祀られていた神々は排斥され、
時には「ウジガミ」と称される地域の有力な神社に統合もされます。
*『鴫野の里』は、此の動向を次のように捉えています。
 川原市太郎『しぎの里』1984年、編纂発行・志宜野今昔会、「産土神 八剱神社」11頁
◆明治40年(1907)の神社合祀令は、
淫祠撲滅を意図したものではなく、
歳収500円以下の経営困難な神社を統合する目的のものであった。

タイトルの「淫祠」が出てきました。
統合されたのは「淫らな神」を祀るホコラなのでしょうか?

写真図 ご神体のイメージ

『鴫野の里』の記述によれば
「神社合祀令」によって「経営困難な神社を統合する目的」を
取り上げています。
淫祠が地域の有力な神社に統合され、立派なお社に鎮座する神々もありました。
祠の神が格上げされもしたことでしょう。

白高大善神の場合、義父が祀り始めた昭和30年頃の
「それ以前のこと」は分からず仕舞いです。
何時の時代に、如何なる形態で祀られ始め、
神体が祠に納まる「昭和30年頃」を迎えたのかは謎のままです。
昭和30年頃以降、地元の八剱神社の許に身を寄せんとしたのでしょう。

八剱神社末社の「野神社」の同社における経緯を神職から
2026年5月24日、電話での質問に答えていただきました。
抜粋を記します。
 1 村の人がお祀りしていたのを戦後、有志の方々から依頼があってお祀りしている。
 2 野神さんは地蔵さんのようなものだった。
 3 野神は田圃や畑の守り神である。
 4 「カヤノヒメ」というのは、こちらで付けた名前である。(5~7割愛)
 8 「宮地神」とあるのは「宮床神」で土地の神で格下である。
中の町の「野神さん」は本社では格下ながら戦後、
地域の有力な神社に引き取られ記紀神話に登場する神として祀られた訳です。
戦後の出来事です。

今回、小字「塚田」に祀られ、祀り棄てられた神を
神祀りの動態の一齣として捉えてみました。
「塚田」には今では知られなくなった「オツカ」に祀られていた多数の神々を想像します。
次回は「東野塚」の駐車場に祀られている「お稲荷さん」を取り上げます。

究会代表 田野 登
 

2026年5月30日(土)、阪俗研の東野利明会友、
野球小僧会友、今村一善会友と共に小字名に「塚」の付く地を探索してきました。
場所は大阪市城東区鴫野西です。
野球小僧会友は途中まで、今村会友は途中から同行しました。
以下、私感を交えて探索の報告をします。
以下、小字名は鉤括弧[ ]で括ります。
今回も末社に野神(のがみ)社が鎮座する八剱神社から始めました。
5月19日(火)の野神探検のルートを確かめ、
別のアングルから見ての発見を期待してのことです。
八剱神社の大鳥居から続く旧大和川の自然堤防を見定めました。

写真図1 八剱神社大鳥居

[宮の前]の鳥居は東向きで左手(北)に道路が続いています。
JRおおさか東線、学研都市線の高架を潜ります。
やがて道路は左に湾曲します。
この道なりの曲線は埋もれた旧大和川の堤防跡に沿ったものです。
聞通寺を過ぎ、布屋公園(新喜多東2)の剣先が見える辺りを目指します。
写真図2 [東の町]の自然堤防

小蛇が上陸したとの伝説のある縄手堤を行きました。
道なりに歩きますと自然に[中の町]に出ます。
南方に見えるJR線方面を眺めますと、やはり微高地であることが確かめられました。
右手(北)に来通寺、左手(南)に光曜寺の間を通って西進します。
先の聞通寺も、何れも浄土真宗大谷派のお寺です。
前回の探険で神木を発見した「神域」にそっと踏み込みました。
19日の時とお供え物に変わりはありません。
今回は「神域」裏の屋敷前に廻りました。
門扉の奥には立派な乾蔵が見えます。
2021年夏の調査時、淀川中流右岸の水被りの地「冠」地区(高槻市)に見た

北東端が高い段蔵が此処にも見出されました。
写真図3 [中の町]神木の裏手の屋敷の乾蔵

自然堤防上の集落にあって水災を恐れてのことです。
自然堤防下に広がっていた水田が嘗て水被りの地であったことを想像します。
寝屋川に架る新喜多大橋から南に横断し
第二寝屋川に架る鴫野大橋に連なる今里筋を渡り北の方の道を歩きました。
やがて立派なダンジリと小屋が見えてきます。
[西の町]のダンジリ小屋です。
写真図4 [西の町]のダンジリ小屋

右手南方を行く城見通と比して此処も微高地です。
西進し「鴫野霊園」の前を通ります。
此の「霊園」はムラバカ、村の共同墓地です。
舟形光背の六地蔵が赤い袈裟(よだれかけ)を掛けてお迎えしています。
墓域に裸電球のソケットがあるところからすれば、
盂蘭盆には人出があるのでしょう。
此の宗旨では盂蘭盆に墓参をする習俗があるのでしょう。
真新しい「鴫野霊園」標札の「管理者」には
先の浄土真宗大谷派の三箇寺が名を連ねています。
JRの高架を潜れば西鴫野です。
いよいよ未知の「塚」の付く地の探索です。
城陽中学の正門を左(南)に見て西進します。
やがて朝日橋南詰に出ます。
写真図5 朝日橋南詰東角

此処を起点に「朝日橋通り」が南に延びています。
19日の探険の時は東野会友から、昔は賑わっていたと聞きました。
今では道路幅が広くクルマの通行ばかりで買い物客など見受けられません。
『しぎの里』1984年発行の付図「鴫野今昔散歩道」を読みますと、
「バス停跡」が2ヵ所書き込まれています。
そのうちに「カネボー前バス停跡」があります。
今回の塚跡探険のお目当ての一つ[塚田]の比定地でありました。
朝日通りを通過しますと右手(北)に橋が見えてきます。
鴫野橋です。
橋を渡って西を眺めました。
写真図6 鴫野橋から西方の眺め

JR大阪環状線の鉄橋が見え「大和路快速」の電車が見えます。
私は無邪気にシャッターチャンスを窺っていました。
間近にOBP(大阪ビジネスパーク)の超高層ビル群が見えます。
橋上では多くの死者が出た嘗ての砲兵工廠の跡など脳裏を過ったりしませんでした。
鴫野橋の南詰に戻り「大津橋」と刻まれた石柱を南方向からワンショット。
写真図7 小字名[大津]の大津橋碑

寝屋川に沿った井路に架っていたのが大津橋です。
「大津」とは大仰ですが、此の地は巡行船が就航する船着場であったようです。
小字名に[茶屋の前]ともある繁華街であったのでした。
鴫野橋通りを左折し南進しました。
東野会友は通りの左手(東)に「旧鴫野倶楽部」があったとか
宣われていたようですが、私の頭の中は、此の先の「野塚橋碑」に行っていました。
気が急く道行でありながら、
右手の広い駐車場の奥に朱色の鳥居がチラッと目に止まりました。
ツカツカと駐車場に入り込みました。
稲荷の祠でした。
目指す「野塚橋」の東です。
小字名[東野塚]ではあるまいかと閃きました。
東野会友が西長堀の図書館で入手され、
31日夕、メールで送って来られた≪「大阪城」大正8年1月5日 西部逓信局≫地図と
照合しました。
稲荷の祠の場所は小字名[東野塚]に位置しました。
写真図8 [東野塚]の稲荷祠

鳥居扁額に「正一位 稲荷大明神」とあります。
祠左手の立札に平成22年の稲荷神社整備工事の際撤去した3基の鳥居の
「稲荷神社鳥居奉納芳名録」が記されています。
「芳名録」には「一の鳥居(奉納者名)昭和13年3月吉日建立」以降、
昭和61年4月吉日までのことが記されています。
此の稲荷社の前身が何なのか、一刻も早く調査したいものです。
鴫野橋筋道路に出て前方(南)、クレオ大阪東を更に南に
「大阪府看護協会」看板、郵便ポストの傍らに「野塚橋」の石柱が立っています。
前方には下城見橋、橋を渡った先には大阪公立大学のユニークな学舎が見えます。
写真図9 小字名[野塚]の野塚橋碑から南方の眺め

此の先、左折し井路川跡道路を東進し、第二寝屋川対岸から移設された中浜霊園に立ち寄り、
今村会友と落ち合い小字名[塚田]の祠を探すべく左折し北進して
西鴫野3児童公園に向かい公園北限の「桜橋」と刻まれた橋柱まで出ました。
写真図10 小字名[塚田]の桜橋橋柱

間違いなく嘗ての鐘紡敷地内の運河跡です。
折り返し、右手に倒れた鳥居のある祠があるのを見つけたのは
急遽参加の今村会友でした。
写真図11 小字名[塚田]の祠

此の祠の建立経緯を知りたいものの生憎土曜日夕方につき、
「第三町会老人憩の家」も閉まっていて、児童公園に弾む子どもたちの元気な声を背に
探険を断念し鴫野駅まで引き上げました。
月は6月、飛び交う台風情報が恨めしく、
取り敢えず小字名に「塚」の付く場所の「探索」記録をアップしました。

究会代表 田野 登