晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

「阪俗研便り」希望者受付
大阪民俗学研究会では、講演、マチ歩き情報満載の「阪俗研便り」配信の登録を受け付けています。
ご希望の方は、氏名、電話番号をお書き添えの上、tano@folklore-osaka.org
まで、直接メールいただきますようお願いします。毎週無料でメール配信します。 田野 登

大阪あそ歩「浦江・大仁」コースを4月1日(水)にガイドします。

「浦江」「大仁」と云われても現在の町名には見えません。

いっそ「ウメダの西」と云うことにしました。

3月17日(火)に下見で歩きました。

地元の人なら知らないようで何となく知っている情報を載せることにします。

「ウメダの西」と云われて「福島」を外すとは?

「浦江・大仁」は歴史的に一括りされる中で、ウメダに一層近い「福島」を

外したまでで、出発点は「JR福島駅」です。

写真図1 南から見たJR大阪環状線福島駅

「福島です」と云えば、まぁ遠い所でと返ってくることが時々ありますが、

大阪の福島です。

大阪市福島区の鉄道駅に「福島」と付く駅名は3駅あります。

菅原道真公が筑紫に左遷の砌、潮待ちの時、里人の歓待に喜ばれ、

「餓鬼島」の当地の名を「福島」と改めさせたとか?

近世のガイドブック『摂津名所図会』あたりから見えますが、

これが当時のコピーライター・秋里籬島の作り話か、地元の伝承か?

いずれにせよ他所の人による噺です。

「売れても占い商店街」こと福島聖天通を西に、

昔の農業用水排水道跡の道路を渡ると「売らないでも売れる」と

一時期、向こうを張った聖天通商店街です。

「聖天さん」の石の鳥居を潜り

右手の手水に立派なお地蔵さんが立ってござる。

写真図2 「聖天さん」の水掛地蔵さん

「宝暦六丙子年三月」とあります、西暦に直せば1756年です。

中央に「了徳院」と刻まれています。

聖天さんの正式名称は東寺真言宗「如意山了徳院」です。

子どもの頃は「浦江の聖天」と云い、

いつの間にか、「福島聖天」と称されるようになりました。

その辺の事情や如何?

「聖天さんの裏手」と云えば失礼ですが、北西にインドのタージマハルを

思わせる本堂のお寺があります。

われら阪俗研が話題提供する「福っくらトーク」の会場として使わせていただいている

曹洞宗妙寿寺です。

山門の右手に稲荷の祠があります。

「とげぬき稲荷」の幟が立っています。

写真図3 妙寿寺「とげぬき稲荷」の幟

道路側の看板には「浦江のお稲荷さん」とあります。

お寺やのに「稲荷」?何のこともありません。

お寺の鎮守なのです。

此のお寺にも石の鳥居?

明治政府による神仏分離令以前のお寺なのです。

JR神戸線のガードを潜れば北区です。

昔の「北浦江」です。

浦江八坂神社、正式名称「素戔嗚尊神社」は浦江公園の奥、東側です。

末社の一つに「野々宮」が鎮座まします。

写真図4 素戔嗚尊神社末社の野々宮社

現在の社地に遷座する明治42(1909)年以前は、

浦江でも北西の字江川に祀られて居ました。

御祭神は「飯豊受皇大神」です。

古代の神名としてなら「豊受大神」があり、

伊勢神宮下宮の豊受大神宮と音通しますが、如何?

「豊受」の「受」は「ウカ」を冠する「宇賀神」とも通じ

稲荷神ともなります。

子どもの頃「センギョセンギョ、ノーセンギョー」と野施行として

油揚げと赤飯を上げてきた神社です。

まさか斎宮禊の地とは?

この段に至って「摂津志」にある「田蓑島」言説に及びます。

本番では「難波往古図」と照らして、その顛末を話します。

浦江公園の北を東進しますと大仁八阪神社が鎮座まします。

此処では道すがら、「王仁博士」の伝説を話しましょう。

さらに東進しますと、ゴールの梅田スカイビルが間近に見えてきます。

いよいよ「ウメダの西」が実感されてきます。

梅田スカイビルの行く手に歩道橋があります。

「大広歩道橋」とあります。

写真図5 大広歩道橋

「大広」の「大」は大仁の「大」ですが、

「広」はとなりますと字名の「広戸」からのものです。

「戸」は場所を指す接尾辞の「と」でしょう。

この辺りに広い湿地でも広がっていたのでしょう。

市街地を歩きながら昔の地形を想像したりもします。

そもそも梅田スカイビルのある北梅田の「梅田」の「ウメ」は何でしょう。

「中自然の森」を通り抜けて「花野・新里山」に出ました。

写真図6 「花野・新里山」に咲く梅の花

里山に相応しく一群れ梅が咲いています。

あたかも新梅田シティ空中庭園展望台が借景の如く。

「梅田」の「ウメ」は菅原道真公が愛でたとされる梅?

それとも梅田スカイビルの先、東南に広がっていた「梅田墓」に

死人を埋めたから「ウメダ」?

現在の町名「大深町」の元の字名の「大フケ」から?

「フケ」は深田を指します。

この地一帯の原地形は低湿地なのです。

どうやらゴールを過ぎてガイドをしてしまったようです。

帰りの電車は「おおさか東線」の大阪駅からの乗車としましょう。

「おおさか東線」とは語頭の平仮名表記が付属語「辞」との

境目が付きにくくて、読みづらい。

目の前に「大阪駅うめきた地下口」を表示するビルが見えてきました。

写真図7 「大阪駅うめきた地下口」を表示するビル

平仮名表記の「うめきた」は「大阪駅」と「地下口」の間に挟まって

「梅田北」の愛称に相応しく口語の響きを感じさせます。

誰も「呻き田」を連想することなく「梅北」で以て「梅田の北」と解るでしょう。

語頭に「うめきた」や如何?

今回は出くわした名辞に拘りながら仮想案内をしました。

書を捨ててフィールド「野」に出てガイドをしてみたいものです。

興味のある方は「大阪あそ歩」HPをご覧ください。

    ↓アクセス

 https://www.osaka-asobo.jp/course562.html

歴史に関心がなくとも、

地理・民俗・国語に関心のある方を歓迎します。

 

究会

大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

この朝もコンビニエンスストアで小麦色の肌の青年が

レジで丁寧に対応してくれていました。

「がんばってね」と声を掛けました。

そんなボクですが、現場仕事で無線を装着すれば

「皆さんお早うございます。タノノボルです。

今日も一日、がんばります。よろしくお願いします」と

発報します。

そんなボクを齢が一回り若い隊長は

「タノさんらしいね」と笑っておられます。

こんなボクは「がんばる」という言葉を現役時代、

使いませんでした。

漢字を宛てれば「頑張る」、

「頑なに気を張る」といった気負った言い方が嫌いやからです。

大阪弁で「がんばる」に近いニュアンスは

「おきばりやす」という言葉が耳の底に残っていますが、

案外、子ども時代、

昭和30年代のテレビ番組で流行った「船場モノ」か、

ラジオ番組の名前からかもしれません。

そんな悠長な物言いは生では聞こえてきませんでした。

「きばる」は「気張る」です。

便所で気張ったりします。

漢字の「勉強」の「強」は「男が思い切り弓糸を引く」で

「勉」は「女が分娩で気張る」の意味ですね。

勉強せんとアカンと思っている我が家の子どもたちに

殊更「勉強せんかい」と言った記憶はありません。

親から「勉強せぇ」と言われたのは小学校5年の意学期末、

夏祭りの踊りに呆けて帰った、その晩、一回限りです。

ただ挫けかけた時には、

「がしんたれ」と叱咤激励されたりはしていました。

「がしんたれ」はテレビドラマでもありましたが、

艱難辛苦の「臥薪嘗胆」からの言葉であったようです。

今思えば、「負けじ魂」だけは吹き込まれていたようです。

そんなボクですが、来年「喜寿」を迎える齢になって、

ほとんど口にしなかった

「がんばる」を再考するようになりました。

自分にも若い青年にも精一杯生きることを

恥ずかしげもなく言えるようになりました。

これは間違いなく齢のせいです。

片肘肩張らず、気楽に機嫌よう健気にがんばります。

 

浦江で子ども時代を過ごした名に負う田夫野人

今回の≪暮らしの古典≫169話のタイトルは「馳走」です。

厄年の行事に「馳走」という言葉は見えます。

「馳走」という言葉はぜんざいを平らげてお仕舞いとなる以前の事のようです。

前回の≪食べて貰ふ≫では、

「…「摂待」という漢語を今回、取り上げます。

このような習俗を主人(ホスト)を中心とする場の問題として、

再構築を試みます」と予告しました。

 

「柳田1942年」に見えて「高谷1941年5月」に無かった言葉は「摂待」であります。

「摂待」を解く糸口は、

「柳田1942年」に明記された出典「大阪民俗談話会報2巻5号」を求め、

大阪府立中之島図書館、大阪市立中央図書館と駆け廻り、不図したことから

「大阪民俗談話会報2巻4号」記事に遭遇したことで見つかりました。

予告に挙げた別資料とは、それであって、

「柳田1942年」が出典とした会報の1号前・ひと月前に発行された会報です。

紙質の悪い時代の刊行物にもかかわらず、

きちんと製本され、経年劣化を免れた貴重な資料です。

その資料の「厄年の行事」欄にある

「和泉・泉北・忠岡町」と「大阪市」の事例を取り上げます。

「和泉・泉北・忠岡町」記事の全文は以下のとおりです。

◆和泉・泉北・忠岡町 25の厄に観音様に詣る。

41は前厄、42が厄、43がハネ厄と言ひ、

3年間は冬至にぜんざいを作り接待する。

この餅は3斗3升3合つくり、ぜんざいはしきゐを持つて出てはならず、

残つてもいけない。(鈴木東一)*以下「鈴木1941年4月」

「大阪市」記事の全文は以下のとおりです。

◆男42歳の大厄の前後通じて3年間の行事に、

41歳の年(小豆一升)、42歳の年(小豆二升)、43歳の年(小豆3升)を用ひて

ぜんざい(餅入り)を作り冬至の日に接待す。

但しこのぜんざいは家より持ち出てゝ与ふべからず。

厄除行事なり。(伊藤櫟堂)*以下「伊藤1941年4月」

 

これら「鈴木1941年4月」「伊藤1941年4月」に一致しますのは、

冬至の日に「ぜんざいを作り接待」するという記述です。

「接待」なる漢字熟語は「高谷1941年5月」には無く、

「柳田1942年」では「摂待」が対応します。

「接待」「摂待」の「接」「摂」は、如何なる語義を有するのか?

諸橋轍次『大漢和辞典』巻5、1957年初版、大修館書店に当りました。

「接」には「接待」も載せられています。

◆[接](上略)慣用音:セツ(中略)

[接待]セツタイ(中略)㊁仏教語:人に飲食を施す。

[*仏祖統記]法師宗暁…施二湯茗一、無レ間二道俗一、

結二屋敷楹一、則為二接待一。

 

『仏祖統記』とは、南宋の僧・志磐1269年撰の仏教史書です。

日本の漢書でない漢書に既に「接待」の用例があるのです。

いっぽう「柳田1942年」の「攝(摂)」や如何?

「接」と同じく慣用音に「セツ」とあり、

仏教語に「摂取」「接受」があげられているものの、

「摂待」は『大漢和辞典』には挙げられていません。

柳田の云う「摂待」とは、いったい何を意味するのでしょう。

「摂待」は「摂待餅」の他「摂待風」という語が*「明治大正史・世相篇」に見られます。

 *「明治大正史・世相篇」:「明治大正史・世相篇」『定本柳田國男集』第24巻、1963年、筑摩書房「六 旅行道の衰頽」(初出1931年、朝日新聞社)

「柳田1942年」は「小豆の話」所載記事でありますから、

11年前の記事で、≪ヤマンバ≫と同時代の論文です。

柳田が「摂待風」という言葉を用いる文章は、面倒くさくも、以下に抄出します。

「明治大正史・世相篇」の「六 旅行道の衰頽」では、

宿屋という商売を取り上げ、旅人が夜寝る所を三つの様式に集約しております。

その第一は「御仮屋式、もしくは本陣風」、第二は「問屋式もしくは定宿風」、

第三には「善根宿式又は摂待風」を挙げ、懸案の「摂待」が見えます。

◆第三の様式も衰へては居るが、

是はまだ少しばかり町中にさへも残つて居るさうである。

仮に善根宿式又は摂待風とも名づけて置くが、

起りは必ずしも信心ばかりでは無かつた。

家の格式もしくは慣例によつて、止める必要も無いとて続けて居るのが普通だから、

何か特別の祈願でも無い限り、新たに之を始める者は先づ少なからう。

 

「善根宿式又は摂待風」の起業を信心ばかりでなく、特別の祈願かとも述べています。

引用を続けます。

◆しかも村では利益の為に、客商売をすることは不可能だから、

誰でも一夜の宿を乞ふといふ者は、

斯ういふ家ばかりを捜さなければならなかつたのである。

是は家族の一員にするといふよりも、寧ろ被保護者の関係であつた。

 

この段に至って「摂待風」の宿主と旅人の関係性が

「保護者と被保護者」であることが明かとなります。

「大阪民俗談話会報2巻4号」記事の「鈴木1941年4月」「伊藤1941年4月」には、

ぜんざいの振る舞いに、但し書きが添えられています。

「鈴木1941年4月」には

「ぜんざいはしきゐを持つて出てはならず、残つてもいけない」とあります。

「しきゐ」は「敷居」です。

「伊藤1941年4月」には、

「但しこのぜんざいは家より持ち出てゝ与ふべからず。

厄除行事なり」とあります。

これらの但し書きからは、

厄年である主人が屋敷内で郎等に気前よく振る舞っている有様が想像されます。

いっぽうで「高谷1941年」には

「鳳町北王子、大津町松原(この2ケ所では…その村人又は村の道を通る人に食べて貰ふ)」ともあり、必ずしも路上での振る舞いが無かったわけでもないようです。

大阪の他に、厄払いに料理が振る舞われることは『民俗語彙』1956年に見えます。

 *『民俗語彙』:『綜合日本民俗語彙』第4巻、1956年、民俗学研究所、平凡社

◆ヤクハライ 年齢 厄払い。岐阜県加茂郡で二月のはじめ、

 四十二歳になる男が人を招き馳走する(美濃伊深村の民俗)。

 

タイトルの「馳走」が出ました。

「人を招き馳走する」とありますように

厄年男のための饗宴に奔走する家人たちの振る舞いが窺えます。

再度「伊藤1941年4月」の「大阪市」に目を凝らし、何が振舞われたのかを注視します。

「41歳の年(小豆一升)、42歳の年(小豆二升)、43歳の年(小豆3升)を用ひて

ぜんざい(餅入り)を作り」とあり、

小豆をふんだんに用いた「ぜんざい」が目に止まります。

写真図 芭蕉堂販売の「大阪ぜんざい」(東野利明会友提供)

大阪の「摂待餅」が振舞われた場は、

厄除けに小豆の威力を借りて験を担いで盛大に縁者を招いた饗宴なのでした。

さぞ縁者を仰山、相伴させ、自らの厄を祓ったことでしょう。

厄年の主人は、皆の衆の加勢により災厄を除けようと開いた饗宴に

小豆粒の入った「善哉」が振舞われたのです。

以上が166話から始めました大阪の「ぜんざい」をめぐる習俗の結論です。

 

究会 田野 登

2026年3月11日(水)大阪市城東区新喜多東の「狐山」を

東野利明会友の先導で探検してきました。

東野会友は2021年6月に同地を踏査し、

以下のブログにアップしています。

≪ヒガチャンの大坂まち歩き 城東区今福の皇大神宮≫

https://higachanntan.hatenablog.com/entry/2021/06/12/020849

2021-06-12

≪ヒガチャンの大坂まち歩き 小女郎稲荷社と狐山≫

https://higachanntan.hatena blog.com/entry/2021/06/18/142411

本ブログの探検は、同ブログの記事に基づくものであり、

別途「狐山」に関する考察の一資料とするものです。

 

当日の経過を時系列に沿って報告します。

14:00にJR鴫野駅をスタートし、南鴫野商店街(鴫野東3)に出ました。

「鴫野」は明治22~大正13年は「城東村」の大字です。

鴫野東3では大日寺、八剱(やつるぎ)神社を訪ねました。

八剱神社には「大坂冬の陣 鴫野の戦い 上杉景勝 本陣之地」顕彰碑が建っていました。

JR学研都市線高架を抜けますと右手(東)は、新喜多(しぎた)東2です。

「新喜多」は鯰江町の大字です。

北進し城見通に出て平野川分水路方向に東進し、

大阪シティバス「放出西一丁目」からバス道を左折北進しますと間もなく、

東野説「狐山の跡地」の関西電力新喜島変電所(新喜多東2)に到着しました。

写真図1 関西電力新喜島変電所

字名「外島」とある云う此の地はマピオン地図によれば「標高 海抜2m」とあります。

稲荷の祠があって祀られていた形跡など全く認められません。

門扉越しに従業員に訊ねましても御存じありません。

前川電気鋳工所といった工場が隣接する一帯は工場街です。

工場跡地に建ったマンションを左に見て道なりに北西に行きますと、

寝屋川に架る極楽橋極楽橋(新喜多東1・放出西1~今福南2)に差しかかりました。

東野会友からは極楽橋をめぐる怪談を聞きました。

北詰東に今福小学校(今福南2)があり角地に「旧野崎道の跡」碑が建っていて、

通称「野崎の観音さん」への参詣ルートであることが示されていました。

ここからは「古堤街道」を北西に行きました。

街道道は堤道で一段高く盛られていました。

写真図2 盛土された古堤街道から東を臨む

程なく右折して東進しますと皇大神宮(今福南2)の「桃山様式の風雅な流造」の社殿が

左手(北)に見えてきました。

社務所で懸案の「狐山跡地」の場所を宮司さんに訊ね、確認しました。

社殿北東の末社に祀られている「小女郎稲荷」を参拝。

写真図3 皇大神宮末社「小女郎稲荷」

この神が祀られていた元の場所が新喜多東2の喜島変電所とは?と

束の間、旅人の感慨に耽りました。

皇大神宮を下向して一筋南の屋敷の前で東野氏は、隣家の奥様と

世間話をするふりをして調査をされているようでした。

一頻り話が終わったところで、彼は此の旧家が残る一画を調査しました。

屋敷の造りから鯰江町の中心地であった嘗ての今福の町を偲びました。

この後、「皇大神宮由緒記」にある三郷樋を案内していただきました。

「三郷橋丸木舟出土跡」碑文は地元の人による撰文したらしく、

この地の歴史が古代にまで遡ることが記されていました。

海が入り込み、未だ池沼が点在する低湿地であったとのこと。

ふと見やりますと稲荷大神の祠があり朱色の玉垣が巡らされていました。

私は、別の角度から「狐山跡地をと」せがんだもので、

今思えば随分、遠回りして「狐山跡地」である変電所を裏側から観察することになります。

西進して新喜多橋北詰に向かいました。

そこには「巡航船の船着場址城東区役所 平成27年3月」が掲げられていました。

此の地は、近代にあって水運が盛んであったことを顕彰したものです。

不図、上流を眺めますと極楽橋が見え、遥か彼方に生駒の山並が望めました。

下流には新喜多大橋が架けられていますが、

橋詰には西大阪に見られるような高層のビルなど見えませんでした。

往時の賑わいや如何?

新喜多橋を渡り切りますと緑道が見えました。

楠根川跡緑陰歩道でした。

寝屋川に並行して楠根川が流れていたのです。

緑道を東進しますと鉄筋コンクリート造の飾り気のない2階建ての建物がn

緑道の左手(北側)に連なっていました。

「ゆりかご第二保育園」でした。

図書館を誘致していたのが旨く行かなかったと東野会友から聞きました。

緑道から離れて寝屋川側に上がりました。

鯰江商店街があったと東野会友は仰いましたが、

仕舞屋となっていてアーケード柱跡ばかりがあるだけでした。

「此処が私とこの店のあった所です」と仰せられたのには唖然としました。

一筋北には古びた焼き板が張られた家屋が見えました。

新喜多新田会所跡でした。

案内板によりますと大和川付け替えによって、

川があった跡の低い土地を開発してできたのが、この新喜多新田とのこと。

懸案の「狐山」も河道に築かれた堤の切れ端やないか?と思いました。

東野会友に掲示されている地図に「狐山」を指し示していただきました。

彼の指は旧大和川の可動が膨らんだ所を指しています。

写真図4 新喜多新田付近の地図から見える「狐山」

東野説の凡その見当が付きました。

楠根川跡緑陰歩道を東進しますと、緩やかに右(南)にカーブします。

木立に包まれて、嘗ての川の流れが再現されていました。

写真図5 楠根川跡緑陰歩道の緩やかなカーブ

前方に子どもたちの声が聞こえてきました。

布屋公園でした。

新喜多新田の東に隣接する、「布屋」は河道の跡に開拓された新田だったようです。

布屋公園を余所目に、再び古堤街道を案内されました。

程なく電柱に「1.0m 想定浸水深」が表示されていました。

写真図6 電柱の「1.0m 想定浸水深」表示を指す東野会友

この付近では4~5mが軒並みでした。

近くの電柱には「シギヘン」との表示が見られました。

新喜島変電所を裏側から捉えることができました。

写真図7 裏側から見た新喜島変電所

「滄海変じて桑田と成る」とはこのことか?

かつて此の一帯は土手が連なり、その一角に狐山があり、

其処に小女郎稲荷が祀られていたとする東野説が証明された思いがしました。

JR鴫野駅までの日没後の道のりは弾んでいました。

以上が「城東区ふれあいマップ」を参照しての「狐山」探検の報告です。

 

次回から東野会友ブログ≪ヒガチャンの大坂まち歩き≫を

引用しながら私の「狐山」論を展開します。

 

究会 田野 登

 

 

前回「次回は、小豆の「ぜんざい」の厄除に関して、

柳田の解釈を絡めて考察します」と予告しました。

今回のタイトルは≪食べて貰ふ≫です。

「食べて貰ふ」を「食べてもらう」の表記に替えます。

これですっきりしたでしょう。

いったい何故、ぜんざいを食べてもらうのでしょうか?

さっそく「食べて貰ふ」表記を探すことにしました。

前回、1930年『旅と伝説』に

「山母が、瓜子姫を俎で切つて小豆餅にして爺婆に食はせた」とありました。

「食わせる」と「食べてもらう」とは大違いです。

ヤマンバ譚を載せた柳田国男でありますが、12年後の1942年*「小豆の話」に

大阪の「ぜんざい」について述べております。

 *「小豆の話」:「小豆の話」『定本柳田國男集』第14巻、1962年、筑摩書房、

初出1942年4月『スヰート』

小豆を珍重する場面を考える文脈での記述です。

まずはお伊勢さんの土産物・餡ころ「赤福餅」から。

写真図 餡ころ「赤福餅」

◆私たちが列挙し得るのは、所謂サカムカヘ、

殊に伊勢参宮の迎へ団子、是には餡ころがしをこしらへて行く例が多く、

現在神都で名物となつて居る赤福の餅なども、

由緒は或はこゝに在つたかと思はれる。

 

引用を続けて本題に入ります。

◆大阪府下の田舎などに今も行はれる厄年の摂待餅、

是は小豆のゼンザイが普通になつて居て、

うんとこしらへて出来るだけ多くの人に食べて貰ふといふ

(大阪民俗談話会報2巻5号)。

 

たった此れだけ70字にも満たない記事です。

タイトルの「食べて貰ふ」が見えます。

出典の「*大阪民俗談話会報2巻5号」に当りました。

 *大阪民俗談話会報2巻5号:「大阪民俗談話会会報」昭和16(1941)年5月号

「厄年の行事」の「大阪府泉北郡(一)」にあります。

13項目からなる原稿末署名に「高谷重夫」と執筆者署名があります。

以下「高谷1941年5月」と称することにします。

◆42歳を厄年とし、その前3年間は冬至にぜんざいを作り

親類近所の者や又他に

できるだけ多人数に食べて貰ふ事によつて厄除けにする。

この例は泉北郡諸地方にあり、高石町

(41・2・3歳、南区では40・1・2歳の3年間といふ)、

忠岡町、取石村富木、福泉町菱木、鳳町北王子、大津町松原

(この2ケ所では厄年に餅をつき1月22日には

小豆のぜんざいをたいてその村人又は村の道を通る人に食べて貰ふ)、

八田荘村穴、浜寺町、堺市、北池田泉財、東百舌鳥村土師。

 

柳田1942年「小豆の話」70字が「高谷1941年5月」から取ったのは、

冒頭の

「42歳を厄年とし、その前3年間は冬至にぜんざいを作り

親類近所の者や又他にできるだけ多人数に食べて貰ふ事によつて厄除けにする」の

60字です。

これに加えて「…村人又は村の道を通る人に食べて貰ふ」が関連します。

「柳田1942年」70字は「高谷1941年5月」との間の異同が目に付きます。

「柳田1942年」の「大阪府下の田舎」は、

「高谷1941年5月」の項目「大阪府泉北郡」でありました。

「泉北郡」を「府下の田舎」と書き換えています。

「厄年の摂待餅」の「摂待餅」は「高谷1941年」には見られません。

「(うんと)こしらへて」は「高谷1941年5月」では、

「冬至にぜんざいを作り」が対応し、

「冬至」と時季を明記しております。

また関連記事に挙げた個所では「1月22日」とあります。

両者とも「こしらへて」「作り」の動作主が明記されていません。

文脈からすれば「食べて貰ふ」の動作主でもあります。

「出来るだけ多くの人」には、

「高谷1941年5月」では

「親類近所の者や又他にできるだけ多人数」が対応します。

「柳田1942年」は現地調査に基づく「高谷1941年5月」からの

焼き写しに相違ありません。

それだけに具体性を欠く記述で自説に導入する意図が見られます。

そのような文脈のもと

「柳田1942年」の「(ぜんざいを)多くの人に食べて貰ふ」は、

「高谷1941年5月」の「多人数に食べて貰ふ」と一致します。

柳田が「小豆の話」にあって言わんとした事柄が見えてきました。

さてタイトルの「食べて貰ふ」にとりかかります。

「食べて貰ふ」の「貰ふ」を注視します。

「貰ふ(貰う)」は動詞ではなく、補助動詞です。

『広辞苑 第七版』2018年、岩波書店で「貰う」を確かめました。

◆⑨(動詞連用形に助詞「て(で)」の付いたものに続けて)

他人の動作によって自分が恩恵・利益を受ける意を表す。

また、自分のための行為・動作を他人に依頼し、させる意を表す。

「教えて―・う」「やめて―・いたい」

 

「厄年行事」記事の動作主である「自分」は、厄年に当る人物です。

「他人」を「高谷1941年5月」に重ね合わせますと

「親類近所の者や又他にできるだけ多人数」となります。

「自分」にとっての血縁者・地縁者であります。

厄年に当る人物は、

このような縁者に「善哉」を一緒に食べる行為に、

相伴してもらうによって、

恩恵を被っているのです。

自分の「厄除け」行為に加勢していただいているのです。

その力の源となるのが「小豆のぜんざい」なのです。

 

縁者は厄年に当る人物に請われて食べて居る人たちです。

請われて食べて居る縁者は、

節分の夜に徘徊する厄落としを職掌とする人たち

「厄払い」(厄払い請負人)なんぞではないのです。

この段で自分が受ける「恩恵」を速断して、

厄年に当る人物の身に負った災厄を「ぜんざい」に託して、

同席者である縁者に負わせ「厄を落とす」といった解釈は、

モノ「ぜんざい」に拘り過ぎで、私の解釈とは異なります。

 

次回は、別資料から今回パスした「柳田1942年」にはあって

出典とした「高谷1941年5月」に無かった

「摂待」という漢語を取り上げます。

このような習俗を、主人(ホスト)を中心とする場の問題として、

再構築を試みます。

 

究会 田野 登