晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

「阪俗研便り」希望者受付
大阪民俗学研究会では、講演、マチ歩き情報満載の「阪俗研便り」配信の登録を受け付けています。
ご希望の方は、氏名、電話番号をお書き添えの上、tano@folklore-osaka.org
まで、直接メールいただきますようお願いします。毎週無料でメール配信します。 田野 登

今週の≪暮らしの古典≫181話のタイトルは「淫祠」です。
《暮らしの古典180話:2026-05-31 11:30:27》「鐘紡」では
「鐘紡運河跡の児童遊園」を引きました。
https://nippon1000parks.blogspot.com/2023/11/34871000.html
2023/11/17 (以下、ブログ「児童遊園2023/11/17」と表記します。)
この情報には鳥居が倒れている「お社」が見えます。
「塚」ひょっとすれば「野神」が見えるかも?」と期待感を抱いて
居ても立っても居られなくなって
2026年6月2日(火)≪鴫野西「塚」探索記:2026-06-02 06:20:50≫に出ましたが、
飛び交う台風情報が恨めしく引き上げました。

明くる6月3日(水)、朝からの悪天候を突いて、
午後の空き時間、鐘紡運河跡の児童遊園に赴きました。
生憎、老人憩の家は閉まっています。
ご近所の方を訪ねました。
偶にお参りする人もいるようですとのこと。
「某さんがお世話なさっておられますので
お聴きにゆかれましたら」と丁重に断られました。
地蔵調査の時に屡々、体験した「たらい回し」です。
祀られている神様と、ご近所の関係性を知ることができます。
紹介されたお宅に行きました。

出て来られたご婦人は
「今は祀っていません」と突っ慳貪な返事です。
たらいを廻した最初の方とは随分、態度が違います。
用意していた調査カードの神名を訊ねることさえ忘れていました。
その方は以前、八剱神社は「ウチの神様でない」とか、
伏見稲荷も「ウチの神様でない」とか仰り、無いない尽くしです。
よくある伏見からの御霊の分祀でもないようです。
現在祀っている場所より南西に祠があったとのこと。
「現在、祀られている昔の鐘紡の敷地ではなかったのですか?」との問いには、
「鐘紡の敷地のことは知りせん」とのこと。
「鳥居が倒れているのは何故ですか」との問いには
「根元から腐って危険なので倒しました」とのこと。
義父が祀り始めたのは昭和30年頃とのことで、
「それ以前のことは知りません」とのお返事。
何か話せない事情でもあるのだろうと思い、現地を発ちました。
「話せない事情」こそ、研究テーマたり得ます。

マンションに帰ってデータをひっくり返しました。
この神様の名前をブログ「児童遊園2023/11/17」には「白高大善神」とありますが、
倒された鳥居にあるはずの扁額も無く、蛇腹が邪魔して祠の前まで踏み込めていません。
「児童遊園2023/11/17」の*先行調査を再読しました。
 *先行調査:【白高大善神】(はくたかだいぜんしん)大阪市城東区
https://yaouolaoder.hatenablog.com/entry/2018/05/30/181905
(以下、ブログ「白高大善神2018/05/30」と表記)
此のブログには写真が添えられていて2018年5月30日の時点では、
ちゃんと鳥居が立っていて扁額の「白高大善神」の文字が鮮明に読みとられます。
ブログ「児童遊園2023/11/17」はブログ「白高大善神2018/05/30」を下敷きに
記述したと思われます。
「児童遊園2023/11/17」は、祭祀場所について次のとおり記述しています。
◆おそらく、元々の運河の横には管理用通路(私道)が通っていて、
それに面して建てられた家々があったものが、
通路と運河とがまとめて公園になってしまったためではないかと考えます。
この鳥居が倒れている白高大善神のお社も、そういう土地利用だったのではないかと。

神仏の祭祀場所を巡るトラブルは屡々、発生します。
児童遊園という公有地に神仏を祀ることは「信仰の自由」を損なうとする考え方があります。
拙著『大阪のお地蔵さん』渓水社1994年の「法廷に立たれたお地蔵さん」では、
控訴審判決は、「地蔵像では年一回二日間、
すでに季節の風物として習俗化した地蔵盆の行事が行われているだけである」とし
原告側の主張を否定したことを記述しました。
お地蔵さんの場合の「季節の風物として習俗化した」行事は
此の「白高大善神」にも適用され、公有地の使用が許されるのでしょうか?
祀りを放棄した突っ慳貪な返事をしたご婦人の話せない事情の一端がわかりはじめました。
無いない尽くしであった八剱神社、伏見稲荷神社に断られた件については、
抑々、明治の政府の宗教政策に起因するもののようです。

再び拙著を引きます。
「文明開化とお地蔵さんの受難」を上げます。
◆明治5年11月に布告された「町内路傍・環境ノ整備 申391号」
(以下、大阪府史編集室『大阪府布令集一』(1971)の原文を
現代語に読み替えたものを記す。)
府下各町内の路傍に、従来地蔵・妙見あるいは稲荷・道祖神など、
さまざまな小祠を軒下・路地・塵埃不潔な場所に置き、
敬神の道に適わないばかりか、往来運輸の妨げとなり、
あるいは幼少婦女朝夕群がり集まり、無用の時間を費やし、
時として祭りのため、町内から金銭を取り集めることもある。
野卑な風習も甚だしい。謂れのないことだから、今後禁止とし、早々に取り除く事。
(中略)この時代、大阪の町内の路傍に、お地蔵さんばかりか、
「妙見あるいは稲荷・道祖神など、さまざまな小祠」が祀られていたことが知られる。

文明開化の時代、此の国の宗教政策として「廃仏毀釈」にみられる神社神道を上位とする
ヒエラルキー構造が構築されます。
「妙見あるいは稲荷・道祖神」の小祠に祀られていた神々は排斥され、
時には「ウジガミ」と称される地域の有力な神社に統合もされます。
*『鴫野の里』は、此の動向を次のように捉えています。
 川原市太郎『しぎの里』1984年、編纂発行・志宜野今昔会、「産土神 八剱神社」11頁
◆明治40年(1907)の神社合祀令は、
淫祠撲滅を意図したものではなく、
歳収500円以下の経営困難な神社を統合する目的のものであった。

タイトルの「淫祠」が出てきました。
統合されたのは「淫らな神」を祀るホコラなのでしょうか?

写真図 ご神体のイメージ

『鴫野の里』の記述によれば
「神社合祀令」によって「経営困難な神社を統合する目的」を
取り上げています。
淫祠が地域の有力な神社に統合され、立派なお社に鎮座する神々もありました。
祠の神が格上げされもしたことでしょう。

白高大善神の場合、義父が祀り始めた昭和30年頃の
「それ以前のこと」は分からず仕舞いです。
何時の時代に、如何なる形態で祀られ始め、
神体が祠に納まる「昭和30年頃」を迎えたのかは謎のままです。
昭和30年頃以降、地元の八剱神社の許に身を寄せんとしたのでしょう。

八剱神社末社の「野神社」の同社における経緯を神職から
2026年5月24日、電話での質問に答えていただきました。
抜粋を記します。
 1 村の人がお祀りしていたのを戦後、有志の方々から依頼があってお祀りしている。
 2 野神さんは地蔵さんのようなものだった。
 3 野神は田圃や畑の守り神である。
 4 「カヤノヒメ」というのは、こちらで付けた名前である。(5~7割愛)
 8 「宮地神」とあるのは「宮床神」で土地の神で格下である。
中の町の「野神さん」は本社では格下ながら戦後、
地域の有力な神社に引き取られ記紀神話に登場する神として祀られた訳です。
戦後の出来事です。

今回、小字「塚田」に祀られ、祀り棄てられた神を
神祀りの動態の一齣として捉えてみました。
「塚田」には今では知られなくなった「オツカ」に祀られていた多数の神々を想像します。
次回は「東野塚」の駐車場に祀られている「お稲荷さん」を取り上げます。

究会代表 田野 登
 

2026年5月30日(土)、阪俗研の東野利明会友、
野球小僧会友、今村一善会友と共に小字名に「塚」の付く地を探索してきました。
場所は大阪市城東区鴫野西です。
野球小僧会友は途中まで、今村会友は途中から同行しました。
以下、私感を交えて探索の報告をします。
以下、小字名は鉤括弧[ ]で括ります。
今回も末社に野神(のがみ)社が鎮座する八剱神社から始めました。
5月19日(火)の野神探検のルートを確かめ、
別のアングルから見ての発見を期待してのことです。
八剱神社の大鳥居から続く旧大和川の自然堤防を見定めました。

写真図1 八剱神社大鳥居

[宮の前]の鳥居は東向きで左手(北)に道路が続いています。
JRおおさか東線、学研都市線の高架を潜ります。
やがて道路は左に湾曲します。
この道なりの曲線は埋もれた旧大和川の堤防跡に沿ったものです。
聞通寺を過ぎ、布屋公園(新喜多東2)の剣先が見える辺りを目指します。
写真図2 [東の町]の自然堤防

小蛇が上陸したとの伝説のある縄手堤を行きました。
道なりに歩きますと自然に[中の町]に出ます。
南方に見えるJR線方面を眺めますと、やはり微高地であることが確かめられました。
右手(北)に来通寺、左手(南)に光曜寺の間を通って西進します。
先の聞通寺も、何れも浄土真宗大谷派のお寺です。
前回の探険で神木を発見した「神域」にそっと踏み込みました。
19日の時とお供え物に変わりはありません。
今回は「神域」裏の屋敷前に廻りました。
門扉の奥には立派な乾蔵が見えます。
2021年夏の調査時、淀川中流右岸の水被りの地「冠」地区(高槻市)に見た

北東端が高い段蔵が此処にも見出されました。
写真図3 [中の町]神木の裏手の屋敷の乾蔵

自然堤防上の集落にあって水災を恐れてのことです。
自然堤防下に広がっていた水田が嘗て水被りの地であったことを想像します。
寝屋川に架る新喜多大橋から南に横断し
第二寝屋川に架る鴫野大橋に連なる今里筋を渡り北の方の道を歩きました。
やがて立派なダンジリと小屋が見えてきます。
[西の町]のダンジリ小屋です。
写真図4 [西の町]のダンジリ小屋

右手南方を行く城見通と比して此処も微高地です。
西進し「鴫野霊園」の前を通ります。
此の「霊園」はムラバカ、村の共同墓地です。
舟形光背の六地蔵が赤い袈裟(よだれかけ)を掛けてお迎えしています。
墓域に裸電球のソケットがあるところからすれば、
盂蘭盆には人出があるのでしょう。
此の宗旨では盂蘭盆に墓参をする習俗があるのでしょう。
真新しい「鴫野霊園」標札の「管理者」には
先の浄土真宗大谷派の三箇寺が名を連ねています。
JRの高架を潜れば西鴫野です。
いよいよ未知の「塚」の付く地の探索です。
城陽中学の正門を左(南)に見て西進します。
やがて朝日橋南詰に出ます。
写真図5 朝日橋南詰東角

此処を起点に「朝日橋通り」が南に延びています。
19日の探険の時は東野会友から、昔は賑わっていたと聞きました。
今では道路幅が広くクルマの通行ばかりで買い物客など見受けられません。
『しぎの里』1984年発行の付図「鴫野今昔散歩道」を読みますと、
「バス停跡」が2ヵ所書き込まれています。
そのうちに「カネボー前バス停跡」があります。
今回の塚跡探険のお目当ての一つ[塚田]の比定地でありました。
朝日通りを通過しますと右手(北)に橋が見えてきます。
鴫野橋です。
橋を渡って西を眺めました。
写真図6 鴫野橋から西方の眺め

JR大阪環状線の鉄橋が見え「大和路快速」の電車が見えます。
私は無邪気にシャッターチャンスを窺っていました。
間近にOBP(大阪ビジネスパーク)の超高層ビル群が見えます。
橋上では多くの死者が出た嘗ての砲兵工廠の跡など脳裏を過ったりしませんでした。
鴫野橋の南詰に戻り「大津橋」と刻まれた石柱を南方向からワンショット。
写真図7 小字名[大津]の大津橋碑

寝屋川に沿った井路に架っていたのが大津橋です。
「大津」とは大仰ですが、此の地は巡行船が就航する船着場であったようです。
小字名に[茶屋の前]ともある繁華街であったのでした。
鴫野橋通りを左折し南進しました。
東野会友は通りの左手(東)に「旧鴫野倶楽部」があったとか
宣われていたようですが、私の頭の中は、此の先の「野塚橋碑」に行っていました。
気が急く道行でありながら、
右手の広い駐車場の奥に朱色の鳥居がチラッと目に止まりました。
ツカツカと駐車場に入り込みました。
稲荷の祠でした。
目指す「野塚橋」の東です。
小字名[東野塚]ではあるまいかと閃きました。
東野会友が西長堀の図書館で入手され、
31日夕、メールで送って来られた≪「大阪城」大正8年1月5日 西部逓信局≫地図と
照合しました。
稲荷の祠の場所は小字名[東野塚]に位置しました。
写真図8 [東野塚]の稲荷祠

鳥居扁額に「正一位 稲荷大明神」とあります。
祠左手の立札に平成22年の稲荷神社整備工事の際撤去した3基の鳥居の
「稲荷神社鳥居奉納芳名録」が記されています。
「芳名録」には「一の鳥居(奉納者名)昭和13年3月吉日建立」以降、
昭和61年4月吉日までのことが記されています。
此の稲荷社の前身が何なのか、一刻も早く調査したいものです。
鴫野橋筋道路に出て前方(南)、クレオ大阪東を更に南に
「大阪府看護協会」看板、郵便ポストの傍らに「野塚橋」の石柱が立っています。
前方には下城見橋、橋を渡った先には大阪公立大学のユニークな学舎が見えます。
写真図9 小字名[野塚]の野塚橋碑から南方の眺め

此の先、左折し井路川跡道路を東進し、第二寝屋川対岸から移設された中浜霊園に立ち寄り、
今村会友と落ち合い小字名[塚田]の祠を探すべく左折し北進して
西鴫野3児童公園に向かい公園北限の「桜橋」と刻まれた橋柱まで出ました。
写真図10 小字名[塚田]の桜橋橋柱

間違いなく嘗ての鐘紡敷地内の運河跡です。
折り返し、右手に倒れた鳥居のある祠があるのを見つけたのは
急遽参加の今村会友でした。
写真図11 小字名[塚田]の祠

此の祠の建立経緯を知りたいものの生憎土曜日夕方につき、
「第三町会老人憩の家」も閉まっていて、児童公園に弾む子どもたちの元気な声を背に
探険を断念し鴫野駅まで引き上げました。
月は6月、飛び交う台風情報が恨めしく、
取り敢えず小字名に「塚」の付く場所の「探索」記録をアップしました。

究会代表 田野 登

 

「次回は、*柳田国男「民俗学上に於ける塚の価値」1918年に当ることになります」と
予告しました。
 *柳田:「民俗学上に於ける塚の価値」『定本柳田國男集』第12巻1962年、筑摩書房、初出『中外』『中外』2巻8号1918年7月
今回は柳田1918年「塚の価値」を踏まえた上で、
当地の城東区の鴫野村の地勢と暮らしを探ります。
タイトルは「鐘紡」です。
先だって2026年5月19日の東野利明会友先導の探険で歩いた、
CMソング「カンカンカネボウ」の「鐘紡」です。
はたして何処にあったやら?

先ず、柳田1918年「塚の価値」より、興味深い記事3カ所を取り上げます。
100年以上前の柳田の「塚の価値」1918年を読んでいて、
今回取り上げる文献*『東成郡誌』東成郡役所の刊行年が大正11(1922)年であって、
ほぼ同時代であることに気づきました。
*『東成郡誌』:『東成郡誌』東成郡役所、1922年刊、第八編 城東村 第一章 地理
柳田の次の記事は東成郡城東村大字鴫野にも共通するところです。
◆平野地方をあるいてみると、今日でも累々たる塚の数であるが、
 しかも塚の名が、地名にのみ残つて、土が悉く平になつたものゝ数は、
 更に何倍かあるらしいのである。
 此数十年の間には、現存する塚がまた著しく片づけられる事と思ふ。

これらの地名の場所は現在では「地名にのみ残つて、土が悉く平」になっていますが、
『東成郡誌』「大字鴫野」の小字に「塚」を含む字名が3件あります。
大正11(1922)年当時の鴫野に、幾つの塚が残っていたかは分かりませんが、
小字名「塚田」「東野塚」「野塚」があります。
小字名の場所を探ることにしましょう。

次に柳田「塚の価値」1918年は「塚」の名から「神」の名を探る点に注目します。
◆一方にはまた塚の名と神様の名とに、幾つも共通なのがある。
 野神と野塚、松神と松塚、牛神と牛塚、狐神と狐塚と云ふ風に、
 神様がある所には、同名の塚のある例が沢山ある。

はたして『東成郡誌』1922年の小字名「野塚」に「野塚跡」が見つかるや否や?
はたまた其の「野塚」が「野神」が繋がるや否や?
ハードルは高いですね。
因みに柳田「塚の価値」1918年には人工の塚をも含めています。
◆そこで、天然に存在する嶺も、
 人工によつて成つた所の一丈二丈*(3.0m6.0m)の塚も、
 信仰上共通の要素を有して居つたと想像することが出来る。

手始めに『東成郡誌』1922年に、小字名の「塚」をめぐる地形を探るべく隣接する番地の小字名をも載せます。
小字名は*『しぎの里』によれば
「大正14*(1925)年頃まで使用された旧鴫野の小字名」とあり、
『東成郡誌』編纂が1922年ですので、その当時、小字名が使用されていたことになります。
*『しぎの里』:川原市太郎『しぎの里』1984年、
編纂発行・志宜野今昔会、「町の移り変わり」

 

写真図1 「東成郡鴫野村里道図面」
 

 

『東成郡誌』1922年の記事から抽出します。

先ず「塚田」の「塚」です。

◆東六尺(ヒガシロクシヤク)[半角割注:自350番/自379番]
   塚田(ツカタ)[半角割注:自380番/自392番]
380番地「塚田」に隣接する379番地の小字名は「東六尺」です。
『東成郡誌』1922年の「城東村」記事に「地勢及地味」があります。
◆展開せる大阪平野の一部にして土地平坦なり。
   本村*(城東村:鴫野・天王田・左専道・永田)内を貫通する河川なし。
  但し池沼及井路多し。

小字名「-六尺」は人の背丈にも及ぶ池沼の深さを想像します。
小字名「塚田」以降の「塚」周辺や如何?
『しぎの里』には次の記事があります。
◆[塚田=つかた]鐘紡跡地。
「塚」の記述はありません。
タイトルの「鐘紡」が見えます。
土地利用の近代化の中で「塚」は消えたのでしょうか?
次に「東野塚」を挙げます。
此の段では川原市太郎『しぎの里』1984年「町のうつりかわり」掲載の
「東生郡鴫野村里道図面」に小字名が貼付されていて、其れを参照します。
この図面を読図しますと、「字塚田」の西に接する「字西六尺」さらに西の「字神子田」に
接する所に「字東野塚」と記されています。
水深い池沼を挟んでの地です。
◆東野塚(ヒガシノツカ)[半角割注:自538番ノ1/至566番]
「東野塚」の「野塚」です。
此処には隣接する小字に連番は見出せませんでした。
連番ではありませんが、「東生郡鴫野村里道図面」面を読図しますと、
「字東野塚」の左下(南西)に「字野塚」が見えます。
隣接する番地の小字名をも載せます。
◆御茶屋前(オチャヤマヘ)[半角割注:自681番/至705番]
 上永田(カミナガタ)[半角割注:自706番ノ1/至723番ノ2]
    野塚(ノヅカ)[半角割注:自724番ノ1/至744番ノ4]
 永田(ナガタ)[半角割注:自745番ノ1/至796番ノ3]
 大津(オホツ)[半角割注:自797番/至824番]
 東大津(ヒガシオホツ)[半角割注:自825番ノ1/至836番]
 柳開(ヤナギビラキ)[半角割注:自837番/至875番]


野塚の北には寝屋川に架る鴫野橋があり、船着場「大津」があって茶店もありました。
野塚の西には永田が控えています。
かつての大阪城北の弁天島です。
『大阪市立鴫野小学校創立50周年記念誌』1983年、「しぎののいまむかし」
◆今、鴫野橋通りに大津橋、野塚橋の碑がたてられています。
    これらは、水田であったころの井路川にかかっていた橋のあとです。

懸案の「塚」の行方を探るべく西鴫野の近代に注目しました。
鴫野の都市化は西鴫野に顕著に見えます。
此処ではタイトル「鐘紡」を深読みします。

写真図2 戦前アート「鐘紡」

『しぎの里』1984年当時「鐘紡跡地」となった場所を探りました。
『大阪市立城東小学校創立百周年記念誌』1993年の「城東村」の記事を引きます。
◆明治28年、大阪鉄道城東線(現環状線)が開通し京橋駅が設置された。
さらに35年、大阪砲兵工廠の拡張により、西部の都市化が始まり、
大正2年の朝日紡績大阪工場(同4年鐘淵紡績に合併)設立と
同8年の運河開削や工場用地の造成によって、
寝屋川沿岸工業地帯の中心となった。

鐘淵紡績の端緒に大正2*(1913)年の朝日紡績大阪工場設立を挙げ、
大正8(1919)年の運河開削や工場用地の造成を記述しています。
『東成郡誌』1922年刊行の目睫の間の出来事です。
運河開削や工場用地の造成の現在を知るべく、
「わがまち城東区をたずねて」1981年㈶城東区コミュニティ協会発行の地図の
朝日橋の南の鴫野西3丁目から4丁目を読図しました。
児童公園が随所に見えます。
「鐘紡跡地の今」を知りたくてネット検索をしました。
「鐘紡運河跡の児童遊園(大阪市城東区)」です。
https://nippon1000parks.blogspot.com/2023/11/34871000.html
2023/11/17
この情報には、西鴫野に連なる児童公園に
「大正時代に建てられた鐘淵紡績(鐘紡:カネボウ)工場と寝屋川とを結ぶ引込運河が、
後に埋め立てられた跡地に整備されたもので、
今もところどころに運河の名残を留めています」とあります。
この情報の続きに鳥居が倒れている「お社」が見えます。
「塚」ひょっとすれば「野神」が見えるかも?

究会代表 田野 登

来年の正月を迎えて喜寿、

此の齢になって頻りに名字の「野」に興味を感じています。

「野の研究」をライフワークとしようかと。

所詮、認知障害に気づくまでの間の

「余生」の戯れでしかないものと知りつつ、

やたらに気になります。

現役の国語教師であった時代、

或る歌人のエッセイに「野を懐かしむ」を

授業で生徒たちと読んだことを思い出します。

今、此の「野を懐かしむ」を検索しますと

万葉第3期だったかの歌人・山部赤人の歌がヒットします。

 〽春の野に菫摘みにと来し我ぞ

         野を懐かしみ一夜寝にける

此の「野」は「吉野」のようで、

大阪に住みながら一度しか行ったことのない場所で、

空疎なイメージしか思い浮かばない自分を恥じます。

思えば狭苦しい大都会の一隅に生まれ育った私にとって

「野」という場所は、いったい何処なのでしょう。

長屋を出て直ぐの所に「広っぱ」があり、

名も知らぬ草が生えていました。

其処が昭和30年ごろには公園になっていました。

後で知ったことには、

其処は戦時中、空襲による延焼を恐れて建物疎開とかで

長屋を壊して出来た空地でした。

「野」とは如何なる場所なのでしょうか?

野原、野山、野水、野仏…

最近は野神、野宮、野塚に嵌っています。

きっと古典趣味から来る「古代」妄想なのでしょう。

和語「の」に宛がえられた漢字「野」は、

野蛮、野心、野望、野人、野党、野合、在野といった、

漢字文化圏の思想では

中心から外れた傍らに位置づけられる文字のようです。

尤も広っぱ変じて公園となった原っぱでは

「野球」をして遊んでいました。

其処もサイレンが鳴り昼の休憩時間ともなれば、

工場から吐き出されて来た大人たちの

草野球に占拠されたものでした。

民俗学者・柳田国男には、此の国の「野(の)」には

沖積平野に広がる大平原とは、

異なる場所を指すとの解釈もあります。

彼の国の文字を此の国の言葉に宛て換えた故の

齟齬が生じるのは当然です。

「邪祠」とされ排斥されたところの

「ほこら」に祀られていた野の神を

正統とされる記紀神話に登場する神に塗り換える操作を

神職から耳にしては、

「為て遣ったり」との思いで

丹念に書き留める今日此の頃です。

浦江の田夫野人之を識す

2026年5月19日(火)阪俗研の東野利明会友の先導していただき
大阪市城東区鴫野地区の野神を二人で探険してきました。
今回のタイトルは「神木」です。
はたして何処に見つかるやら?
待ち合わせの場所はJR鴫野駅でした。
いつものように電光地図でフィールドを探ります。
起点は八剱(やつるぎ)神社です。

写真図1 JR鴫野駅の電光地図

地図の右上(南東)に⛩(鳥居)が見えます。
「野神社(のがみ‐しゃ)」が鎮座するとの情報が
地元の東野会友から寄せられていました。
電光地図では⛩マークから左下に向けて緩やかに曲がる道筋が
幾筋か描かれています。
いったい、この幾筋もの曲線は何でしょう。
東野会友と落ち合い、駅前の昭和レトロのスーパーの
ハンバーガー店に入り冷コー(アイスコーヒー)を飲みながら
情報交換を30分程して、彼からは地図を3枚いただき
八剱神社に向けて出発しました。
八剱神社では神職の方から「参拝のしおり」をいただきました。

写真図2 八剱神社「参拝のしおり」表紙

社務所前で、此の社に祀られる野神についてお話ししていただきました。
「参拝のしおり」表紙の「末社」の左下には「野神社」が慥かに見えます。

写真図3 「参拝のしおり」御祭神

「宮地神/鹿屋野比売命」とあります。
「カヤノヒメノミコト」と読み「茅の姫の命」と解されます。
「宮地神」とは神社の鎮守の神です。
「しおり」での「野神社」は、
本社に向かって右傍らに鎮座する小さな祠です。

写真図4 「参拝のしおり」の「野神社」

成程「野神社」小祠ながら背後に常葉の木が植わっています。
神職の方からは
野神さんは、鳥居を出て昔の川跡の堤防に祀られている旨、お聴きしました。
早速、八剱神社を発ちました。
JR線の高架下に出てから先は、
電光地図にあった幾筋かの緩やかにカーブする道を行きました。
野神探険の始まりです。
どうも『東成郡誌』にある小字「東の町」辺りに誘導されているようです。
其処は小高い丘状の地形が曲りくねった自然堤防でした。

写真図5 自然堤防から南東の小字「東の町」の眺め

恰も同社創始伝説にある熱田神の化身である小蛇が
鴫野村に上陸した縄手道「八剱堤」を彷彿とさせます。
川なりに行きますと、
事前にいただいた町内地図に書き込んでもらった
「中の町」に自然と向かっているようです。
次から次へと彼は旧家の苗字を彼は仰います。
角地に大きな蔵のある屋敷に出ました。

写真図6 大きな蔵のある屋敷

往時の乾(北東)が高い段蔵を想像しました。
間もなく『しぎの里』著者の川原市太郎さんが
生前住まわれていたお屋敷に出くわしました。
此処も微高地でした。
前方(南方)に比べて其処は慥かに高い。
何やら右に曲がってから、
手付かずを思わせる薄暗い藪に案内されました。
数カ所に「お願い」とある掲示板が見えます。

写真図7 掲示「お願い」

「この銀杏と楠は神木です。
ご祈祷いたしております。
枝を折ったり、幹を傷つけたり絶対にしないでください」とあります。
「お願い」掲示の傍ら(左隅)に小さなオヤシロが見えます。
「この銀杏と楠は神木です」とあります。
「ヒガチャンの大坂まち歩き」に云う
「空襲の時に水が噴き出たという神木」です。
https://higachanntan.hatenablog.com/entry/2026/05/20/083045
今回のタイトルの「神木」を発見しました。
傍らのオヤシロ、これぞ野神の祠でした。

写真図8 野神の祠

榊が水瓶に挿され、お神酒と「天然水」という飲料水が供えられています。
ちゃんとコップも用意されています。
何方が祀っておられるのでしょう。
「お願い」を掲げられたお方です。
神木を「ご祈祷いたす」お方です。
八剱神社の神職の方でしょう。
此の簡素なお社に、無駄な飾り物は一切ございません。
社務所前では一頻り私たち三人は、
ノガミサンを話題に弾んでいたものです。
此の鬱蒼とした「神域」を発ち、
大阪城に通じる城見通に出ますと、
今里筋との交差点「鴫野東2」です。

写真図9 前方(南)に「鴫野東2」の交叉点

角には理髪店があって信用組合城東支店があります。
北に行けば寝屋川に架る新喜多(しぎた)大橋、
南を見ますとJR線の高架、第二寝屋川に架る鴫野大橋に出ます。
城東区を南北に貫く今里筋です。
其の繁華な今里筋東方(左下)には草地が見えます。
立ち寄った「神域」に繋がる場所です。
令和7年版「城東区詳細図」では「空地」と標示されています。
神域一帯は、何故か現在「空白」なのです。
野神を求めての探険に、暫しの森閑とした空間を体験したものです。
この先は「野」を冠する「野塚橋」石碑のある「字野塚」を
目指して歩きました。
「字野塚」は、
『しぎの里』に「大正14年まで使用された鴫野の小字名」の一つです。

写真図10 「野塚橋」石碑

「野塚橋」石碑を見つけました。
御影石には「野塚橋「大正元年九月簗□之」と刻まれ、
足許のプレートには
「野塚橋跡/昭和59年8月/大阪市」と記されています。
小字名「野塚」を冠する橋の現在は、
南手前方に下城見橋が見えます。
「野神」に感じられた「野」は伝承地名「野塚」にとどまります。
すっかり平地になり「野」を想像する場所ではありません。
新たな課題をいただくことになりました。
下城見橋の先の世界は
「ヒガチャンの大坂まち歩き」の「バスのゴミ捨て場」を御覧ください。
次回は、柳田国男「民俗学上に於ける塚の価値」1918年に当ることになります。
ボクの地元である嘗ての西成郡の浦江八坂神社「野宮社」が
近づいたり遠のいたりします。

究会代表 田野 登