今週の≪暮らしの古典≫181話のタイトルは「淫祠」です。
《暮らしの古典180話:2026-05-31 11:30:27》「鐘紡」では
「鐘紡運河跡の児童遊園」を引きました。
https://nippon1000parks.blogspot.com/2023/11/34871000.html
2023/11/17 (以下、ブログ「児童遊園2023/11/17」と表記します。)
この情報には鳥居が倒れている「お社」が見えます。
「塚」ひょっとすれば「野神」が見えるかも?」と期待感を抱いて
居ても立っても居られなくなって
2026年6月2日(火)≪鴫野西「塚」探索記:2026-06-02 06:20:50≫に出ましたが、
飛び交う台風情報が恨めしく引き上げました。
明くる6月3日(水)、朝からの悪天候を突いて、
午後の空き時間、鐘紡運河跡の児童遊園に赴きました。
生憎、老人憩の家は閉まっています。
ご近所の方を訪ねました。
偶にお参りする人もいるようですとのこと。
「某さんがお世話なさっておられますので
お聴きにゆかれましたら」と丁重に断られました。
地蔵調査の時に屡々、体験した「たらい回し」です。
祀られている神様と、ご近所の関係性を知ることができます。
紹介されたお宅に行きました。
出て来られたご婦人は
「今は祀っていません」と突っ慳貪な返事です。
たらいを廻した最初の方とは随分、態度が違います。
用意していた調査カードの神名を訊ねることさえ忘れていました。
その方は以前、八剱神社は「ウチの神様でない」とか、
伏見稲荷も「ウチの神様でない」とか仰り、無いない尽くしです。
よくある伏見からの御霊の分祀でもないようです。
現在祀っている場所より南西に祠があったとのこと。
「現在、祀られている昔の鐘紡の敷地ではなかったのですか?」との問いには、
「鐘紡の敷地のことは知りせん」とのこと。
「鳥居が倒れているのは何故ですか」との問いには
「根元から腐って危険なので倒しました」とのこと。
義父が祀り始めたのは昭和30年頃とのことで、
「それ以前のことは知りません」とのお返事。
何か話せない事情でもあるのだろうと思い、現地を発ちました。
「話せない事情」こそ、研究テーマたり得ます。
マンションに帰ってデータをひっくり返しました。
この神様の名前をブログ「児童遊園2023/11/17」には「白高大善神」とありますが、
倒された鳥居にあるはずの扁額も無く、蛇腹が邪魔して祠の前まで踏み込めていません。
「児童遊園2023/11/17」の*先行調査を再読しました。
*先行調査:【白高大善神】(はくたかだいぜんしん)大阪市城東区
https://yaouolaoder.hatenablog.com/entry/2018/05/30/181905
(以下、ブログ「白高大善神2018/05/30」と表記)
此のブログには写真が添えられていて2018年5月30日の時点では、
ちゃんと鳥居が立っていて扁額の「白高大善神」の文字が鮮明に読みとられます。
ブログ「児童遊園2023/11/17」はブログ「白高大善神2018/05/30」を下敷きに
記述したと思われます。
「児童遊園2023/11/17」は、祭祀場所について次のとおり記述しています。
◆おそらく、元々の運河の横には管理用通路(私道)が通っていて、
それに面して建てられた家々があったものが、
通路と運河とがまとめて公園になってしまったためではないかと考えます。
この鳥居が倒れている白高大善神のお社も、そういう土地利用だったのではないかと。
神仏の祭祀場所を巡るトラブルは屡々、発生します。
児童遊園という公有地に神仏を祀ることは「信仰の自由」を損なうとする考え方があります。
拙著『大阪のお地蔵さん』渓水社1994年の「法廷に立たれたお地蔵さん」では、
控訴審判決は、「地蔵像では年一回二日間、
すでに季節の風物として習俗化した地蔵盆の行事が行われているだけである」とし
原告側の主張を否定したことを記述しました。
お地蔵さんの場合の「季節の風物として習俗化した」行事は
此の「白高大善神」にも適用され、公有地の使用が許されるのでしょうか?
祀りを放棄した突っ慳貪な返事をしたご婦人の話せない事情の一端がわかりはじめました。
無いない尽くしであった八剱神社、伏見稲荷神社に断られた件については、
抑々、明治の政府の宗教政策に起因するもののようです。
再び拙著を引きます。
「文明開化とお地蔵さんの受難」を上げます。
◆明治5年11月に布告された「町内路傍・環境ノ整備 申391号」
(以下、大阪府史編集室『大阪府布令集一』(1971)の原文を
現代語に読み替えたものを記す。)
府下各町内の路傍に、従来地蔵・妙見あるいは稲荷・道祖神など、
さまざまな小祠を軒下・路地・塵埃不潔な場所に置き、
敬神の道に適わないばかりか、往来運輸の妨げとなり、
あるいは幼少婦女朝夕群がり集まり、無用の時間を費やし、
時として祭りのため、町内から金銭を取り集めることもある。
野卑な風習も甚だしい。謂れのないことだから、今後禁止とし、早々に取り除く事。
(中略)この時代、大阪の町内の路傍に、お地蔵さんばかりか、
「妙見あるいは稲荷・道祖神など、さまざまな小祠」が祀られていたことが知られる。
文明開化の時代、此の国の宗教政策として「廃仏毀釈」にみられる神社神道を上位とする
ヒエラルキー構造が構築されます。
「妙見あるいは稲荷・道祖神」の小祠に祀られていた神々は排斥され、
時には「ウジガミ」と称される地域の有力な神社に統合もされます。
*『鴫野の里』は、此の動向を次のように捉えています。
川原市太郎『しぎの里』1984年、編纂発行・志宜野今昔会、「産土神 八剱神社」11頁
◆明治40年(1907)の神社合祀令は、
淫祠撲滅を意図したものではなく、
歳収500円以下の経営困難な神社を統合する目的のものであった。
タイトルの「淫祠」が出てきました。
統合されたのは「淫らな神」を祀るホコラなのでしょうか?
写真図 ご神体のイメージ

『鴫野の里』の記述によれば
「神社合祀令」によって「経営困難な神社を統合する目的」を
取り上げています。
淫祠が地域の有力な神社に統合され、立派なお社に鎮座する神々もありました。
祠の神が格上げされもしたことでしょう。
白高大善神の場合、義父が祀り始めた昭和30年頃の
「それ以前のこと」は分からず仕舞いです。
何時の時代に、如何なる形態で祀られ始め、
神体が祠に納まる「昭和30年頃」を迎えたのかは謎のままです。
昭和30年頃以降、地元の八剱神社の許に身を寄せんとしたのでしょう。
八剱神社末社の「野神社」の同社における経緯を神職から
2026年5月24日、電話での質問に答えていただきました。
抜粋を記します。
1 村の人がお祀りしていたのを戦後、有志の方々から依頼があってお祀りしている。
2 野神さんは地蔵さんのようなものだった。
3 野神は田圃や畑の守り神である。
4 「カヤノヒメ」というのは、こちらで付けた名前である。(5~7割愛)
8 「宮地神」とあるのは「宮床神」で土地の神で格下である。
中の町の「野神さん」は本社では格下ながら戦後、
地域の有力な神社に引き取られ記紀神話に登場する神として祀られた訳です。
戦後の出来事です。
今回、小字「塚田」に祀られ、祀り棄てられた神を
神祀りの動態の一齣として捉えてみました。
「塚田」には今では知られなくなった「オツカ」に祀られていた多数の神々を想像します。
次回は「東野塚」の駐車場に祀られている「お稲荷さん」を取り上げます。
大阪民俗学研究会代表 田野 登
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