晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

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今週の「暮らしの古典」は、92話「陸標」とします。

8月15日朝は、7時に朝のお供えをし、

般若心経、修証義、舎利礼文を三遍挙げてから買物に出かけました。

気になるのは、最初に「野田阪神」と称された場所です。

 

最初の「野田阪神」という名称は大阪市電の停留所「野田阪神電車前」です。

*『国有鉄道現況 大正7年11月末調』鉄道大臣官房文書課編に

「軌道名:大阪市営電気軌道/区間:西野田玉川町 野田阪神電車前

   /哩程:0.37/

開通年月日:*(大正)7・4・24」とあります。

*『国有鉄道現況』:国立国会図書館デジタルコレクション

今日の通称地域名「野田阪神」でなく電車停留場の名称です。

 

『福島区史』1993年の「区内の市電廃止の経過」5項目の

最初に次の記事があります。

◆昭和39*(1964)年3月15日 玉川4丁目-野田阪神

 

市電廃止後の現況や如何?

写真図1 大阪市電「野田阪神」電停跡地

「野田阪神」電停跡地は、

正面(北)に見える高架線が阪神本線「野田駅」西側で、

その手前(南)の国道2号線道路上です。

阪神高速3号神戸線高架の曲線が覆いかぶさる都市の風景です。

 

当日は、前日の14日に立ち寄った「野田駅」を称する施設・店舗は

端折り歩きました。

まず阪神本線野田駅西側の高架下の機械工具街に立ち寄りました。

野田阪神機械工具街@海老江7丁目1-23≫は町名は海老江なのです。

写真図2 野田阪神機械工具街

後日、*HPを開きました。

http://haripura.com/about/about.php

◆野田阪神機械工具街の成り立ち

野田阪神機械工具街は戦後間もない頃に、

ベニヤ板1枚のバラック小屋から始まりました。

一軒目は「そこに土地があったから」かも知れませんが、

国道2号線直結という恵まれた立地特性から、同じ業種の店が軒を連ね、

徐々に工具街としての存在を確立して参りました。

 

「ベニヤ板1枚のバラック小屋」とは何だか俗っぽい、

ヴァナキュラーっぽい匂いがします。

読み進みますと現在の高架下に行き着きます。

◆昭和32年から始まった「阪神電車連続立体高架化事業」に協力して、

各店舗が同電鉄の高架下に店を構えたことにより現在の形があります。

 

機械工具街の生い立ちには、

したたかでエネルギッシュなものが感じられます。

阪神本線野田駅に立ち戻って、

今更ながら違った目で地下鉄の出入口を眺めました。

Osaka Metro千日前線 野田阪神駅@大開一丁目14-18≫

写真図3 Osaka Metro千日前線 野田阪神駅

背景に見えるのは阪神本線野田駅の高架、

正面の登りエスカレーターはOsaka Metro千日前線

野田阪神駅改札口からのもの。

左のエレベーターには「JR東西線」とも表示されています。

「JR東西線」とだけしかありませんが「海老江駅」です。

このスポットは、地下に下りて右(北)に行けば海老江、

左に行けば大開です。

駅の所在地が双方とも元の集落の外れであるため境界線上であることは、

しばしばあることです。

前回≪幻の片福線・野田阪神駅≫で紹介しましたが、

現在、地下鉄駅「野田阪神」のある場所は、

大阪市電「野田阪神」電停跡地の地下と

単純に考えれば良いのですが、

この駅名について海老江を絡める、小さな歴史地理は次回に廻します。

 

この日は、「野田阪神」の南限を定めるべく北港通を南に歩きました。

8時過ぎに実家を出て小一時間、10時40分に棚経に住職が参られるまでに

10時のオヤツのお供えを買って帰らねば…。

野田には新橋筋商店街もあります。

「三井住友」「りそな」といった銀行には

野田阪神支店」はなくて「西野田支店」です。

「野田阪神支店」があるのは「関西みらい銀行」です。

所在地リストで確認しました。

 

関西みらい銀行野田阪神支店@吉野3-22-24(野田支店内)≫です。

所在地は「吉野」で、「大開」の南で「野田支店内」とありますように

どうやら「野田阪神」と「野田」が重なるエリアのようです。

野田阪神」が進出したのでしょう。

「関西みらい銀行野田阪神支店」を見つけてワンショット。

写真図4 関西みらい銀行野田阪神支店

手前(南)から左折する阪神高速道路高架、阪神本線の高架、

ショッピングセンター・ウィステ、正面には阪神本社ビル

この土地「野田阪神」の象徴となるような建物・ランドマークは

ウィステ、正面の阪神野田センタービルです。

「野田阪神」を極めるべく急ぎ足でJR環状線野田駅方面に向かいました。

 

メトロ千日前線「玉川駅」の出入口に「野田城跡」碑が立っています。

写真図5 メトロ千日前線「玉川駅」の出入口に「野田城跡」碑

字名から推測された「野田城」の口に立つモニュメントです。

この先には、よもや「野田」に「阪神」が接続する地域はあるまい。

 

野田新橋筋でホトケさんのお八つにみたらし団子を買って、

鷺洲の実家に急ぎました。

帰り道に鷺洲での「野田阪神」にワンショット。

この日はランドマークのウィステ、阪神本社ビルを借景にカシャッと。

野田阪神坂尻歯科@鷺洲3-10-6 ビバーチェ鷺洲1F≫です。

写真図6 野田阪神 坂尻歯科

ランドマークは「陸標」と訳します。

今や野田、海老江、元の浦江といった水系地形の陸標を

阪神電鉄系列の高層ビル群に見つけました。

次回は、さほど深くもない低湿地の「歴史」を

「野田阪神」を介して深掘りする予定です。

 

究会代表 

大阪区民カレッジ講師

大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

今回の「暮らしの古典」は、

お盆休み特番で91話≪幻の片福線・野田阪神駅≫とします。

このお盆、恒例のホトケさんへの飯事「ままごと」をしに

実家である浦江(福島区鷺洲2)の破屋で2泊3日しました。

そのついでの特番です。

8月13日はカドで苧殻を焚き修証義を挙げた時、既に日は暮れていました。

翌14日、次の「福っくらトーク」での「野田阪神いま昔」の取材もあって、

3度のお膳の合間を縫って「通称・野田阪神」をめぐりました。

はじめに福島区役所前の「福島区町名街区案内」を載せます。

写真図1 「福島区町名街区案内」

紺色のラインは阪神高速道路です。

斜め上から下に北西から南東に、およそ並行して走っています。

地図中央のラインが左右(西から東)に走っています。

それが阪神本線で地図下の高速道路と交差する所に

「阪神野田駅が表示されています。

阪神野田駅の下(南)に大阪メトロ千日前線が走り、

突端に「野田阪神駅」が表示されています。

他社鉄道会社名を駅名に取り込んだ駅名であって、

この辺りの街区の通称は「野田阪神」です。

阪神本線の上(北)が町名・海老江、鷺洲で下(南)が大開、吉野です。

大阪メトロ千日前線を下(南)に行き、

右上(北東)から左下(南西)に走るのがJR大阪環状線で

「野田駅」が表示されています。

左(西)が町名・野田、右(東)が玉川です。

 

懸案の通称地域名「野田阪神」のリストは、12日に一日かけて

ネットで「野田阪神」を検索して作成したものです。

「阪神野田駅」は鉄道駅名ゆえにカウントしません。

以下、地区別に整理したものを挙げます。(@以下は福島区以下の所在地)

まず阪神本線の南、JR環状線の北から挙げます。

大開:9件

≪まぐろふぐ 満海(まんかい) - 野田阪神(海鮮)@大開1-13-31:飲食

≪松阪豚平/野田阪神」@大開1-13-1:飲食

≪てっぱん/源治家野田阪神@大開2-1-1:飲食≫

≪「イシイ内科クリニック」を野田阪神で開院@大開1-1-4 商店街側1階

:医療≫

≪吉鳥 野田阪神店@大開1-1-4 商店街側1階:飲食

≪タイムズ野田阪神@大開1-1:駐車≫

≪海鮮・地どり 志な乃亭 野田阪神店@大開1-14-19-1F:飲食

≪エイブル野田阪神店@大開1-1-18福島大開ビル:不動産≫

≪町屋酒場りとも 野田阪神店@大開1-15-24:飲食≫

吉野:8件

≪ダイガク(DAIGAKU) - 野田阪神(居酒屋)@吉野2-13-7 川田ビル 2F:飲食

≪黒毛和牛焼肉一 野田阪神店@吉野1-20-25レジデンス野田阪神1F:飲食≫

≪大阪市福島区・野田阪神の総合歯科@吉野1-10-13NTビル2:医療≫

≪野田阪神 ボディケア まほらま@吉野 2-15-17阪神野田駅前第2ビル4F

:筋トレ≫

≪関西みらい銀行野田阪神支店@吉野3-22-24(野田支店内):金融≫

≪WiLL 野田阪神店@吉野2-15-12カドヤビル2F:美容≫

≪大阪市福島区・野田阪神の総合歯科かきうち歯科矯正歯科@吉野1-10-13:医療≫

≪GUEST 野田阪神店@吉野2-14-15 HIRANOビル 1F:理容≫

≪ケンタッキーフライドチキン野田阪神店@吉野2-14-12≫

 

以下、阪神本線の北側地区です。

海老江:18(7)件+1件

≪イオンスタイル野田阪神@海老江1-1-23≫

≪野田阪神アルプス歯科@福島区海老江1-1-23:医療≫

≪鶴橋風月 野田阪神ウイステ店@海老江1-1-23 野田阪神ウイステ 4F

:飲食≫

≪フラワー&ガーデン イオンスタイル野田阪神@海老江1-1-23:生花≫

≪イオン薬局野田阪神店@海老江1-1-232階:医薬≫

≪野田阪神ウイステ@海老江1-1-23:大型店舗≫

≪野田阪神駅・阪神野田駅自転車駐車場@福島区海老江1-1先:駐車≫

≪おにぎり専門店 COROLY 阪神野田店@海老江1-1-11 阪神野田駅 改札前:飲食≫

≪くるみ薬局野田阪神店@海老江1-2-17阪神野田駅前ノースサイドビル

1階:医薬≫

≪大阪市福島区 野田阪神の歯科・歯医者・セレックは村川歯科@福島区海老江2-1-38 

ウェルネス2F:医療≫

≪野田阪神前いまい皮ふ科@海老江5-1-1:医療≫

≪馬淵教室中学受験コース,個別指導コース 大阪市福島区の学習塾野田阪神校

@海老江5-1-1さくら野田ビル2F,3F:学習塾≫

≪GSパーク野田阪神駐車場@海老江5-1-6:駐車≫

≪野田阪神店 – アーバンフィット24@海老江5-2-6 セイシア大拓26

:筋トレ≫

≪中華そば 無限/野田阪神@海老江5-5-10:飲食≫

≪野田阪神機械工具街@海老江7-1:工具≫

≪野田阪神・海老江公園@海老江7-15:公園≫

≪野田阪神歯科クリニック@海老江7-3-17 パレス都1F:医療≫

鷺洲:3件

≪ドラッグアカカベ 野田阪神店@鷺洲1-12-11:医療≫

≪旬菜野菜 旨味食堂 べじ吉/野田阪神@鷺洲1-2-11:飲食≫

≪野田阪神 坂尻歯科@鷺洲3-10-6 ビバーチェ鷺洲1F:医療≫

 

さて14日は通称「野田阪神」発生の元となった阪神本線の野田駅

駅名ゆえ番外ながら、最初に訪ねました。

阪神本線の野田駅は、

1905(明治38)年4月、現在の福島区海老江1-1-11に開業しました。

写真図2 阪神本線の野田駅 2024年8月14日

背景に藤を意味するウイステという名称のショッピングセンターが見えます。

「藤」は福島区の花「のだふじ」に因むネーミングで、

「のだふじ」発祥の地・福島区玉川2丁目の春日神社は、

阪神本線の野田駅から歩いて15分は掛かるJR環状線野田駅の東部に鎮座します。

 

続いて、1996年開業のJR東西線海老江駅(福島区海老江5丁目)の

開業前の仮名「野田阪神」を確かめたくなって、

夕べのお勤めの時間を気にしながらも、

阪神本線、一駅梅田駅寄りの福島駅に出かけました。

写真図3 阪神福島駅の「福島区の史跡・旧跡」の地図

たしかに「片福線 野田阪神駅」とあります。

今や認知度の高い他社名を含んだ「野田阪神」を駅名とする話があったことの証左です。

伝承足利義詮「住吉詣」に記事があって、

古来、多くの文人墨客が集った「野田藤」に駅名まで肖ろうとしたのでした。

 

究会代表

大阪区民カレッジ講師

大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

今週の「暮らしの古典」は90話「臭い川」です。

パリ五輪も残すところ1週間をきり、

「ラジオ深夜便」も途中から五輪中継に変わり、

朝5時からテレビの情報番組を

見ようとてチャンネルを合わせるに、これまた五輪中継。

日本の選手の活躍を中心に同じのばかり放送しています。

 

今回は、セーヌ川を舞台に開会式、トライアスロン競技が行われました。

開会式は、大阪天満での船渡御の大規模なのが盛大に繰り広げられました。

トライアスロンについては、水質が問題視され男子は延期されたりしました。

◆パリ五輪の大会組織委員会は30日、

 同日に開催予定だった男子トライアスロンを31日に延期すると発表した。

 会場となるセーヌ川の水質検査の結果が基準に満たなかったことが原因。(中略)

 英国の陸上専門誌「アスレチックス・ウィークリー」の

 ティム・アダムス記者はセーヌ川を訪問。

 水の濁り具合がわかる動画を自身のXで公開した。

 文面には「いまや明日に延期されたトライアスロンを前に、

 パリに落ち着いてセーヌ川の色に気づいた。

 これは、うーん、興味深い」と記載。

 https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion

 THE ANSWER編集部

 

ここでは「川の色」を挙げていますが、セーヌの悪臭は古来、有名でした。

*『においの歴史』の口絵写真のトップは、セーヌの悪臭です。

 *『においの歴史』:アラン・コルバン/山田登世子・鹿島茂訳

          『においの歴史』1988年、新評論

◆19世紀の中頃まで、セーヌ河にはパリのあらゆる汚物が流れこみ、

 土手は耐えがたい悪臭がしていた。

 

川の臭さでは、*昭和の大阪も負けていません。

 *昭和の大阪:「大阪毎日新聞」1915年12月23日

「郊外電車から見た大阪(九) 」

◆…北大阪一帯にこの清い水流を分布して

 田圃にも灌げば小舟をも通じたものだ。

 それが淀川改修のために今日の様な、

 腐敗の極、臭穢の極と謂うべき

 不潔極まる洫川と変化し、

 衛生上からは恐ろしい病竃となって了ったのだとすると、

 淀川改修の責任者であった国家は、亦当然之れを

 以前の清い小川たらしむべき義務を負担すべきである。

 

「腐敗の極、臭穢の極」とは、

このありさまを断罪する記事です。

拙著『水都大阪の民俗誌』2007年、和泉書院は、

≪近代大阪の都市民俗の展開≫で

川施餓鬼の時の「臭い川」を取り上げています。

◆正蓮寺川近辺の商店街は女工・職工たちで賑わっていた。

 職工・女工の暮らした新開地には、

 「慰安」のために寄席・映画館などの大衆娯楽場が建ち並んだ。

 そのような近代的工場の建つ川筋の新開地にも祭礼の時には

 「浪花情趣」が感じられた。

 近代大阪の都市民俗を鳥瞰する時、

 このような光景の存在にも注目しないとその全容が把握できない。

 「非近代」が「近代」から滲み出ているのである。

 川筋のマチには、

 ドブ川の饐えた臭いに混じって煮炊き物の臭いが漂っていた。

 そんな場所に新開地らしい下町情緒が醸し出されているのである。

写真図1 正蓮寺川公園内の1948(昭和23)年の航空写真

     2024年7月6日撮影

     川施餓鬼が行われていたのは写真中央下を

     左右(東西)に見える正蓮寺川

「ドブ川の饐えた臭い」と「煮炊き物の臭い」のコラボに

川筋の工場街を行く祭礼の趣を表現してみました。

そもそも「臭」は、「におい」なの「くさい」なの?

平安時代の*漢和字書に「臭」の字音・字義・和訓が記されています。

 *漢和字書:昌住著。12巻。昌泰(898~901)年中成立。

       「新撰字鏡」『群書類従・第二十八輯 雑部』初版1932年

◆自部百四 臭[半角割注:尺又反。去。久佐志

 

ここでは「久佐志」で「くさい」です。

また『和訓栞』には「臭」の語源を記しています。

 *和訓栞』:谷川士清『和訓栞』(1777~1887)巻第8、3ウ

       

写真図2 『和訓栞』巻第八 表紙 国立国会図書館デジタルコレクション

写真図3 和訓栞』本文 国立国会図書館デジタルコレクション

     右頁(3ウ)後ろから4行目に項目「くさし」が見える

◆くさし 臭をよめり 腐ルより出たる詞なるにや

 

動植物、人間など有機物が腐った匂いから

「くさし」の言葉が生まれたと推定しています。

これは日本人の古来の感性からの語源説でありますが、

近代ヨーロッパにおける悪臭の原因や如何?

再び*『においの歴史』を引きます。

*『においの歴史』:前掲書終章「パリの悪臭」冒頭

◆1880年の夏のこと、パリにただよう悪臭のあまりのひどさに、

 世間は騒然となった。(中略)

 とっさに世間は、この災難の原因を、

 公共空間に溜まっている

 汚物や糞便のせいだと思いあやまったのであり、

 工業に起因する匂いが犯人だなどと、

 ほとんど思いもよらなかったのである。

 

「汚物や糞便のせい」にするのを誤りと指摘し

「工業に起因する匂い」を犯人と断じています。

『においの歴史』からもう一例挙げます。

年代は大阪の淀川、正蓮寺川の事例とほぼ同時代です。

◆1911年の夏に、危機が勃発した。

 散歩をしていた人たちは、息がつまりそうになり、

 夕方になると、特にひどかった。

 専門家の話によれば、

 「ワックスのような、有機体を熱した時にするような」

 臭気、とのことだった。

 今度ばかりは、ヴェルヌィユのおかげで、

 犯人がわかった。

 パリ北部の郊外に建った

 過燐酸石灰工場が元凶だったのである。

 

「パリ北部の郊外に建った過燐酸石灰工場」とは

正蓮寺川近辺にもありそうな工場です。

臭さの原因を、人糞、屎尿など身体からの排泄物とするのは

否定されています。

翻って冒頭に取り上げました

セーヌ川でのイベントでのトラブルをば、

『においの歴史』の文脈に照らしますと、

細菌による病原の脅威と「悪臭」とは別のこととするのが妥当です。

それにしましても為政者のメンツのために

劣悪な環境での競技断行には疑問を感じます。

しばし、ボードレールやポオの詩を読み耽っていた

ボクの暗かった10代末の日々を思い出したものです。

 

究会代表

大阪区民カレッジ講師

大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

今週の「暮らしの古典」は89話「身売り話」です。

ここでの「身売り話」は「口減らし」があった時代の話です。

澪標住吉神社の澪標の由来について*大阪市HPに次の記述があります。

 大阪市此花区澪標住吉神社 (…>此花区はこんなまち>此花区のみどころ) (osaka.lg.jp)

◆社伝によれば、

 延暦23年(804年)遣唐使の航路安全を祈願して祭壇を造り、

 一行の帰路を迎えるため澪標を立てたのがはじまりという。

 当地が伝法口として賑わうとともに、

 土地の守護神・海上交通安全の神として社殿境内も改まり、

 今もその面影を留めている。

 

平安時代の遣唐使の事績に事寄せています。

『此花区史』1955年にある、五、六百年前「当時地形が海岸に接し、

川が海にそそぐ地点に澪標が建てられ…」とある時代とは異なります。

 

「日本を楽しむポータル&コミュニティサイト」の記事や如何?

  https://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=10139

◆当地は、浪華八十島の1つで、                 

 延暦23年(804年)に遣唐使の一行がこの島の景勝に感激し、

 航海の安泰を祈願するために島の一角に

 住吉神を奉祀したことに始まるとされる。

 その後、島民が祭壇跡に祠を建立して

 帰路の印に澪標を建てたと言われ、

 当地が酒造の本場として栄えるにつけ、

 その存在は航海の守護神として全国に知られることとなった。

 

遣唐使一行が「この島の景勝に感激…」と物語化しています。

これと似た話は高槻市の冠地区「大塚の地名伝承・「大塚殿」」

「高槻まちかど遺産 H27-6≫にも見られます。

写真図1 大塚の地名伝承 「高槻まちかど遺産 H27-6

◆大塚には次のような伝承があります。

 平安時代、清和上皇が諸国を巡られた際、

 当地で淀川の美しい風景に心を奪われ、

 松の木に掛けた冠を忘れたまま、帰ってしまわれた。

 気づいて村人たちは恐縮し、冠を埋めて「王塚」と名付けた。(中略)

 大塚の地名は、この「王塚」が転じたものともいわれています。

  平成28年3月 高槻市教育委員会

 

ここに取り上げました「伝法」、「大塚」は何れも伝説です。

伝説化されていない、澪標住吉神社の澪標建立の事情を

『大阪港』1913年、大阪市役所港湾課の記事に探りました。

写真図2 『大阪港』表紙1913年 国立国会図書館デジタルコレクション

◆明治元*(1868)年大阪開港条約の発市(*発布?)と共に、

 政府は治河使に命じ、航路を浚渫し、安治川左岸海口より、

 約400間の導堤を築き、澪標を設けて船舶の出入りに便せり。

 『大阪湊口異船舶来之図』嘉永7(1854)年に天保山沖に描かれていた

 

現在の大阪市章のモデルとなる澪標が安治川左岸海口に設けられました。

新政府によって「安治川左岸海口より、約400間の導堤を築き、澪標を設け」とあります。

川浚えして旧標識を更新したのでしょうか?

引用文を続けます。                                      

件の伝法の地名に注目してください。

明治3*(1870)年閏10月、西四辻権知事政府に請ふて、

 安治、木津、尻無、伝法の四川に入津する、船舶に帆別税を課し、

 海口及諸川の浚渫に充て翌4*(1871)年川口波止場を設けて、

 航運上に於ける公共の用に供せしむ、実に是れ富島繁昌の基なりとす。

 

追って伝法川も浚渫されたようです。

その際の澪標や如何?

伝法でのある噂話が*『小学校記念誌』に記録されています。

 *『小学校記念誌』:『大阪市立伝法小学校創立90周年記念誌でんぽう』          

           1963年「古老に聞く」

           :創立80周年記念誌(1953年)からの再録

◆和田*(推定1868年生)

 北のお宮さんは澪標住吉神社と称する事は皆さんご承知の通りですが、

 ごく近年まで宮地が川岸まであったのですが、

 その前はこの宮の灯籠の火が舟の水先案内をしていたので

 今天保山にあるような澪標が川下に立っていた

 いつの頃からかこの澪標がなくなって

 天保山の方に移ってしまった始末である。

 

「いつの頃からか」とあって、この記事だけでは

明治3*(1870)年の浚渫時とは断定できません。

引用を続けます。

◆板谷*(推定1870年生)

 天保山の澪標は伝法から売られたという噂さえあるのです。

 真偽はもとより判明しませんがとにかく由緒のある神社ですよ。

 

それにしましても「明治末頃まで住吉神社の浜にそびえていた澪標」が

『小学校創立90周年記念誌』1963年に

「伝法の古い思い出」として載っているのです。

はたして伝法のが「売られた」のでしょうか?

 

「身売り話」となれば、市岡パラダイスの飛行塔を思い起こします。

橋爪紳也著『なにわの新名所』(東方出版 1997年)

「生駒山頂上の大飛行塔」の記事を挙げます。

◆68】昭和6(1931)年に完成した飛行塔。

 そもそもは市岡パラダイスにあったものらしい。

 閉園に際して売りにだされ、生駒山上に移築された。

 第二次世界大戦の際も供出を免れた。

 現存する日本で最古の飛行塔である。

 

この記事の市岡パラダイスの飛行塔につきましては、

唯称寺(港区夕凪)住職による

『港区の昔話  増補版』(1984年)の次の記事と対応します。

◆大正一四年、市岡土地会社は土地の繁栄策に

 綜合娯楽場パラダイス(*港区磯路)を開設しました。(中略)

 後、町全体が充分賑やかになったので

 各々の建物は独立して営業するようになりました。

 その時飛行塔は生駒山上遊園に移され今も山上で舞っています。

 

近鉄上本町駅に生駒山上遊園の飛行塔の電光看板が見えます。

写真図3 「生駒山上遊園地」の宣伝

塔の構造、ゴンドラの形など市岡パラダイスの飛行塔は、

似ても似つかない代物です。

写真図4 市岡パラダイスの飛行塔 桧垣宏之氏所蔵

人身ばかりかダンジリなど祭礼の屋台の売買も、

戦前の話として耳にします。

このような「身売り話」は子どもの誘拐事件とともに、

都市伝説にも、よくある噂話のようです。

 

究会代表

大阪区民カレッジ講師

大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

今週の「暮らしの古典」88回は「みおつくし」です。

来週の日曜日は、2024年7月28日

「なにわの日」です。

なにわ大阪にとっての偉大な学者の誕生日です。

この日に偶々、此花区で「みおつくし史」の講演をします。

写真図1 此花区歴史研究会作成のパンフレット

講演レジュメ原稿を提出しましたところでホッと一息。

裏話を交えてご案内をします。

演題は≪大阪市章「みおつくし」今昔-浪花の澪標-≫です。

打合せから数えて約3カ月半、その間、≪暮らしの古典≫シリーズの

ネタも此花区づくめでした。

副題の「澪標」は、和製漢語で、唐土には無い航路標識「みをつくし」です。

「澪」は『大漢和辞典』には川の名で挙げられているだけです。

コンテンツは以下のとおりです。

1 街角の「みおつくし」探検/2 澪標住吉神社探訪

3 「ミヲツクシ」分解/4 「難波津頭海中立澪標」記事 

5 近世文献にみえる「みを」語彙/6 大阪市章制定時の物議

7 校歌歌詞「みおつくし」の教え/8 「みおつくしの鐘」のメッセージ

 

今回、「歴史研究会」からのオファーですが、相変わらず多角的に話します。

経済学を教えている長男から

「お父さんの民俗学は文学や」と揶揄されたりしていますが、

今回は大阪市の市章「みおつくし」をめぐる「歴史」のお話です。

「歴史」とはいえ「今日の暮らし」にこだわります。

≪街角の「みおつくし」探検≫≪澪標住吉神社探訪≫に

「探検」「探訪」とありますように

今日の暮らしへの興味から古典の世界を訪ねました。

写真図2 ≪街角の「みおつくし」探検≫の一コマ

写真図3 ≪澪標住吉神社探訪≫の一コマ目

今回の標題は「みおつくし」ですので、

≪「ミヲツクシ」分解≫≪近世文献にみえる「みを」語彙≫に

焦点を当ててみましょう。

講演レジュメ原稿を拝借します。

「分解」といいましてもモノを解体する訳ではありません。

学校の「古典」の時間にやった品詞分解です。

◆みお(を)つ+くし? みお(を)+つ+くし?みお(を)+つくし?

   正解は「みお(を)+つ+くし」です。

  「つ」は「国津神」「天津風」に「津」をあてられたりしますが、

   単なる表音「ツ」の漢字で体言と体言を繋ぐ、格助詞です。

  「みを」とは?「水脈」とは?「水緒」とは?

   川や遠浅の海で、特に深くなっている筋で

  「みをつくし」とはミヲの所在がわかるように杭を並べ立てて、

  往来の舟が目当てとする航路標識です。

 

今日の大阪では、此花区伝法のその名も「澪標住吉神社」の社頭や、

天保山の船着き場ではミナトのシンボルとしての

模型を目にすることができます。

多少「みお」が見えてきたところで

≪近世文献にみえる「みを」語彙≫に飛びます。

 

*『日本船路細見記』所載「東海船路道中記」に次の記事があります。

*『日本船路細見記』

 :『江戸明治所処湊港・舟船絵図集並・改正日本船路細見記』

    日本地図選集第七巻、人文社発行、1977年刊

◆大坂の南川口を木津川といひ北の川口を安治川といふ。

   いづれも廻船の出入あり

   〇用としてこゝに達するにとゝなはずといふ事なし。

   凡諸国第一の大みなと也。

   右両川口ふねどをりの左右に水尾木有

   片側に十本づゝ、その川上にあるを十番といひ沖にあるを壱番といふ。

   みを木のそとを大だなといふ

   また沖を一の洲といふ。

   みをどをりのほかは瀬多し。

   地方は住吉大明神

 

ここに「右両川口ふねどをりの左右に水尾木有」の「水尾木」には、

ルビ「みをぎ」が振られています。

まさに船舶に安全な水域を知らせるための棒杭です。

 

「みをつくし」は歌語であり、当時、操船技術に長けた

船乗りたちは「水尾木」と称していたようです。

近世初期の語彙に詳しい*邦訳『日葡辞書』には、「みおぎ(澪木)Miuogui」はあっても、

「みおつくし」は見えません。

 *邦訳『日葡辞書』:土井忠生ほか編訳『邦訳 日葡辞書』

                                1980年、岩波書店

邦訳『日葡辞書』から引用します。

◆Miuo.ミヲ(澪)川や入江の中で、船(Funes)が浅瀬をよけながら

   通行する水路.

◆Miuogui.ミヲギ(澪木)水路を知るために打ち込んである木,または,杭

 

この歌語「みをつくし」ですが、

明治27(1894)年、恋歌「みをつくし」を近代都市の市章にするとは

「淫酒国」とやらの物議があって擦った揉んだの末、議決されたようです。

今回の講演では≪校歌歌詞「みおつくし」の教え≫

≪「みおつくしの鐘」のメッセージ≫を挙げ、以下の記述で結びます。

◆校歌歌詞での「澪標」は、近代社会にあって、

 正しい道を歩むべく「規範」でありました。

 それは「父性」の論理に基づくものです。

 いっぽうで「みおつくしの鐘」は、愛情の発露で、

 「母性」の子どもたちへの「博愛」であります。

 それは本歌「性愛」からの大いなる逸脱であります。

 歴史民俗研究の楽しさの一つは、身近な暮らしを見つめなおす過程で、

 脇道に逸れた思潮を辿ってみることであります。

 

はたして「「父性」の論理」、「「母性」の子どもたちへの「博愛」」まで

2時間の講演で伝えきれるか?

「みおつくし史」の一つのアングルを提示します。

阪神なんば線「千鳥橋駅」下車西。

レジュメは90名程度用意されるとのこと。

興味のある方のご参加をお待ちします。

 

究会代表

大阪区民カレッジ講師

大阪あそ歩公認ガイド 田野 登