晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

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昨日、2026年5月18日は、愛猫ポールの9回忌でした。
写真図 ありし日の愛猫ポール 20080210撮影

毎朝の「舎利礼文」を唱えるお勤めの時、

オコツの前のカードに目を遣り
「平成30年5月18日」の日付に気づき、
妻に「今日はポールの祥月命日やで、お供えでのしたりや」と
口にして家を発ちました。
夜10時過ぎ、帰宅しオコツの前の棚を見ても、

お供え物はありません。
あの日まで妻はポールのオムツを換えてやり、
乳母車に乗せて獣医科病院に連れて行ったりしていました。
昨夜10時半ころ、仙台にいる長男から電話がありました。
「お父さん、今日は何の日が知ってる?」でした。
「憶えているとも、ポールの祥月命日やろ」と応え
暫し「あの時」のことを会話しました。
長男だけは「あの時」のことを憶えていて

電話してきたのでした。
写真図2 長女の描いた在りし日のポール 1412XX


以下、「阪俗研便り 第159号(通号282号)」 
2018年5月24日配信の冒頭を引用し、

「あの時」のことを振り返ります。
◆いきなりの私事ですが、
 愛猫ポールが先週金曜日18日の朝、死にました。
 10歳7ヶ月の命で、
 2年10ヶ月前、繊維肉腫を発症し
 最後は食欲こそあるものの起き上がることもできず、
 死ぬ30分前、
 「ポール、お父ちゃん仕事に行くよ」と言ったのに対し
 微かな声でニャンと鳴いたのがボクとの最後でした。
*(6日後の)今は毎朝、

 骨壺に納まったポールに「舎利禮文」を挙げています。
 最期を看取った妻や長男の
 ペットロスを案じています。…
妻は、あの朝以来、おかしくなりました。
生きとし生けるもの、その時々のことが、
縁ある者に細々と語り継がれるもののようです。
愛猫が死んで、わが家の日常生活は確かに変化しました。
今もボクのマイ年表には、

「あの時」の前と後で区切られています。
「大阪府北部地震」をポールは体験していません。
今、スマホを開いて見ますと

「2018年6月18日7時58分」発生
「最大深度6弱を…大阪市北区…」とあります。
生きて居ればポールも狼狽えたことと想像しています。
ポールの死後1カ月の自然災害です。
ボクにとっては「ポスト・ポール」での出来事です。
生きとし生けるもの死してなお生き続けるものなのです。
180618の地震の時、
浦江の破屋を案じたものでした。
 

今回のタイトルは「ほこら」です。

はたして何処に出るやら?
前回は
「次回は、祭祀地がマチバ、神社仏閣にあった事例を取り上げるとから始めます」と
予告しました。

 

此処まで単独に祀られている「野神」を祭祀場所から捉えてきました。
最後に挙げますのは集落です。
当然、野神は集落にも祀られているわけで、その一例を挙げます。
㊲野神[江見ノツコ]無社松ニ本有 祭礼七月七日:第10之1「香美郡上」「赤岡村」
此の「野神」には社が無くて松2本を「ノツコ」として祀っているというのです。
此処では地名「江見」に注目します。
「江見町」という町名は*『高知県の地名』の「赤岡村」に見えます。
 *『高知県の地名』:日本歴史地名大系第40巻、1979年、平凡社「香美郡」
◆赤岡村 現行行政地名:赤岡町 江見町・寿町(中略)栄町
 北と西を香宗川、南を土佐湾に囲まれた浜堤(砂丘)上の村で、
 東西1.65キロ、南北0.5キロ。東のみ陸続きで岸本浦(現香我美町)がある。

「浜堤(砂丘)上の村」とあります。
此れまた微高地であって、其処の集落であります。
同書「香美郡」に「江見町」には古墳時代中葉の遺物包蔵地があり、
4世紀末から5世紀前半とみられる集落遺跡の可能性があるともあります。
太古の昔から開かれた集落にも近世当時、野神が祀られていたことになります。

此処までは野神だけを取り上げ、他の神仏諸霊と祀られている記述の無い
事例だけを撰んで祭祀の場所を推論してきました。
此処からは野神が他の社寺境内および付近に祀られている事例を挙げます。
其のような事例は、たくさんあります。
㉑野神[右*(蔵王権現)境内]神体[トウモチノ木]ホノキヤタ谷と云
 :第9之3「安芸郡下」「川北村」
㉒野神 同*(杉尾大明神境内)三月三日/五月五日/九月九日
 :第9之3「安芸郡下」「川北村」
㉗野神[右*(八幡)境内]祭礼五月五日:第9之3「安芸郡下」「大井村」
㉑㉒㉗の野神3件は、社寺の「境内」に祀られていると明記れた事例です。
次に「境内」と明記されていない事例を挙げます。
⑫野神[同*(大神宮)]:第9之3「安芸郡下」「井口村」
㉝野神[天王][社地六間ニ四間別当常楽寺]同*(祭礼)九月九日
 :第10之1「香美郡上」「王子村」
㊶同*(野神)[十禅師]:第10之1「香美郡上」「深淵村」
3件のうち㊶野神の「十禅師」につきましては
『広辞苑 第七版』 ©2018 株式会社岩波書店「十禅師」の項に
 「②山王七社の一つ。
 地蔵菩薩の垂迹(すいじゃく)で、法華経守護の神」とありますので、
野神の祀られている場所は「山王七社」たる神社の一隅と考えられます。
よって⑫野神の「大神宮」、㉝野神の「天王」、㊶野神の「十禅師」は、
⑰㉝㊶の野神も社寺の敷地内に祀られている野神とみなされます。
此れらの事例は謂わば「軒先を借りて」の野神祭祀でした。

此処からは一転して野神を祭祀する建屋を考えることにします。
祭祀場所が「-坊」とある事例を挙げます。
㉔野神[天神坊 神体石/祭神 土居村耕作牛馬]祭日[三月三日/五月五日/九月九日]
 :第9之3「安芸郡下」「江川村」
㉔野神は「天神坊」なる建物の中に奉祀されているのです。
如何なる建物なのでしょうか?
㉞野神を取り上げます。
㉞野神[カリマ][小キ瓦ほこら也]同*(祭礼)九月九日
 :第10之1「香美郡上」「王子村」
今回のタイトル「ほこら」が出ました。

写真図 「ほこら」イラスト

久々に大槻文彦・大槻清彦著『新編 大言海』1982年、冨山房を繰りました。
「ホコラ」は「ホクラ(秀庫)」の転訛であって「神庫」とあります。
「神ヲ祀ル社。ジンジャ。多クハ小サキモノニ云フ」とあります。
「秀」は「高く秀でる」とあっては折口民俗学の神学にあったかな?
高い所となれば神を祀る場所ではあります。


次には「野神」ならぬ関連語彙として挙げた「野宮」を取り上げます。
㊻野宮[住吉南]社床廿二代:第6之2「長岡郡夏」「大埇村」
「社床」の「床」は掛け軸や生け花を飾る「床の間」の「床」でもあります。
『広辞苑 第七版』2018年、岩波書店の≪とこ【床】≫の
第一義は「一段高く設けた平らな所。ゆか」とあります。
神さまが祀られる場所でもあります。
「野宮」は他に㉙㊴にも見えます。
㉙野宮 同*[八幡宮]:第9之3「安芸郡下」「和食村」
㊴野宮八幡[野宮]祭日六九月十八日
 社記云社地十八代
 [久敷退転無社里人松を野宮と祭来ル](以下略)
 :第10之1「香美郡上」「深淵村」
此の「野宮」2件は「八幡社」との関連が考えられます。
「野神」と「野宮」の関係性は①野ノ神の記述から読み解かれます。
①野ノ神[岡山]同/社記云野宮共云少之林を牛馬神と奉崇
 :第9之2「安芸郡中」「元村」野神[高田]
野神関連語彙の「①野ノ神」は「野宮共云」とあります。
此処では「野神」と「野宮」の区別は曖昧で連続性が認められるようです。

*櫻井徳太郎の著書を引きます。
 *櫻井徳太郎:櫻井徳太郎『民間信仰の研究 下』「第二節 ノツゴ神と野神」
(『櫻井徳太郎著作集 第四巻』1990年、吉川弘文館)
◆(『南路志』記事を引いて)ところで、野神、野ノ神、野宮、野々宮などと称される
 一連の小祠は、名称にこそ若干異なる点が見られるけれど、
 その祭神の性格、祭事儀礼、祭日・信仰対象などについてこれを検討してみると、
 まったく同一系統のものであると断定して差しつかえない。

野神と野宮を「同一系統のもの」と述べています。
さらに「畿内の野神信仰」の冒頭では、多くの野神の祭祀場所を記述しています。
◆近畿の村々では、路傍とか田の畦道など、
 あまり目立たないところに自然石を立てたり、
 かんたんな木宮を建ててそれを「ノ神」と称して祀っている。
 なかには野宮神社とか野神神社などといわれ、
 ひとかどの社祠社殿を持ち、村社などの社格を与えられたものもあるが、
 それはむしろ例外で、多くは社殿を有しない小祠である。

今回、『南路志』記事から「野神」を虱潰しで当ってみても、
この櫻井記事は首肯されます。
京都はいざ知らず、大阪近辺では伊丹市の猪名野神社は
『摂津名所図会』では「野宮牛頭天王社」でした。
「野宮神社」「野神神社」とは言え、
独立しての神社ではなく、浦江八坂神社の「野宮社」は、
境内に末社として祀られているものです。
次回は、『南路志』を一旦離れて
大阪市城東区鴫野の野塚・野神について探索して見て
浦江に戻る機会を窺います。

究会代表 田野 登

2026年5月10日(日)は「第7回 東大阪市民ふれあい祭り」の日でした。
朝からパレード沿道の町は準備に忙しなく動いているようでした。
今年は喧騒を避けて、
荒本の図書館(大阪府立中央図書館)に調べ物に行くことにしました。
小阪駅前まで出ますと、
近鉄バスは八戸ノ里止まりで小阪駅前からは乗れませんでした。
致し方なく、会場のテントを見回し、まずプログラムを入手し、
河内小阪―八戸ノ里間振替輸送の近鉄電車の切符を入手しました。
これも記念なんなりとプログラムに切符を重ねてワンショット。

写真図1 「ふれあい祭り」プログラムと振替輸送の切符

此の日は歩けば10分ほどを一駅乗車することにしました。
八戸ノ里駅到着、雑踏の中でパレードしんがりに曳行するのか、
ダンジリの験し弾きの音が聞こえてきます。
10時になって、主催者、市長の挨拶があり、オープニングのようです。

写真図2 八戸ノ里駅前

此処からは2時間待ちのバスを待つよりはと
東大阪市の中央部、市役所のある荒本にある
大阪府立中央図書館まで歩くことにしました。
日頃、1967(昭和42)年に
近鉄奈良線沿線三市の枚岡・河内・布施が生駒山麓から大阪市隣接まで
「串刺しして出来た都市」と揶揄していた私ですが、
この際、「東大阪市の臍」をめざして歩くことにしました。
オヘソは身体にとって大事なところです。
ただ体のド真ん中にあるだけではあるまい。
今、その臍が変わりつつあります。

まず「旧大阪中央環状線」を御厨橋に向けて北進します。
やがて文化創造館、此処は市立中央病院のあった場所。
子どもたちが小さい頃、何度かお世話になった病院です。
1986(昭和61)年3月、四条畷高校に赴任しての最初の卒業式に
長男の看病に当って欠席し卒業生に悪い事をしたと今も悔いています。
次に目に止まったのは「Y.D.S」の文字、八戸ノ里ドライビングスクール。
此処は以前「商大-」と称していました。
大阪商業大学が南に隣接していたからでしょうが、「大商大」とは関係がなさそうです。
右折して東進しますと地元では「産業道路」
斜め斜交いに河道跡緑地が右手(南東)に見えます。
楠根川緑地です。
楠根川緑地といえば今春、稲田桃探索の時に歩いた第二寝屋川開鑿前の河道址です。
それは下流・北東部に当ります。

写真図3 楠根川緑地

東進しますと第二寝屋川に架る新御厨橋に差しかかります。

写真図4 新御厨橋 

此の橋を初めて渡ったのは1985(昭和60)年8月16日です。
日航機墜落事故のあった翌日、今は亡き友に誘われて、
暗(くらがり)峠越え奈良街道を初めて行った時の生駒山が、
此の日も正面前方(東)に峠の鞍部「くら」が僅かに見えます。
「御厨」は「み‐くりや」と読みます。

写真図5 「御厨」町名表示板 

「御厨」の「厨」は厨房を意味します。
此の辺りは、むかし大きな湖でした。
古代の「難波潟」は、いわゆる「河内湖」で近世に「深野池」「新開池」と称された
池沼地帯で平安時代には皇室の領地の「御厨」であった場所です。
此の「御厨」の人たちは漁業に従事して魚類などを朝廷に貢納していました。
更に東進しますと「意岐部小学校南」の信号に出ます。
「意岐部」を「Okibe」と標示しています。

写真図6 「意岐部小学校南」の信号

古来、大きな湖面に沿った村であってみれば「おきべ」は
「沖辺」という場所を指す地名であり、
其処に住む人々「部民」漁撈者と重重なったとも考えます。

その沖べから遥か東方に暗峠の鞍部の凹みがハッキリ見えます。
産業道路が其の鞍に股がる奈良街道と交わる所を東進し、

「意岐部小学校前歩道橋」を更に東進して
大阪中央環状線と交叉する所で左折・北進しました。

写真図7 意岐部歩道橋

歩道橋の手前に、矢印があって「東大阪市役所」と示されています。
行政の中心地まで真っ直ぐ、すぐです。
歩道橋を渡り切った所には法要・法宴会館があります。
直ぐ北に大阪府立布施北高校が見えます。
やがて荒本西公園に前に出ます。

写真図8 荒本西公園 

道路に沿って歩いていただけに、公園の緑が目映く輝いていました。
枚岡・河内・布施の三市が合併して成立した「東大阪市」です。
地理的にも行政的にも東大阪市の中央部まで北進すればすぐ其処です。

写真図9 東大阪市役所の南 

何やら工事中です。
大阪空港から門真を経て、八戸ノ里の東・瓜生堂まで繋がる、
大阪モノレールが延伸される工事の最中です。
北進して中央大通りの高架、近鉄けいはんな線と交叉する場所に、
これまた歩道橋がありました。
その名は春宮歩道橋です。

写真図10 春宮歩道橋

府立中央図書館に「野宮」を調べに歩いている者にとって
「宮」の発見です。
「春宮」は、他に「春宮公園」「春宮住宅」がヒットしますが、
「春宮」という神社は今のところ見当たりません。
歩道橋を渡れば、其処には地上22階の東大阪市役所庁舎が聳え立っています。
所在地は大阪府東大阪市荒本北一丁目1番1号。
一度、最上階に上がったことがありますが、展望は絶景です。
此の日は荒本の図書館で調べ物がありましたので、
折角の日本晴れの好日ですが、展望を諦めて図書館に急ぎました。

写真図11 東大阪市役所から見た大阪府立中央図書館

春宮公園の緑の奥に積み重なった本の意匠の建物が図書館です。

市民祭りの喧騒を他所に
「40万人超都市の臍」に向けてのマチ歩きは再発見の1時間でした。
これにて「東大阪市の臍をめざして」をお開きにします。

究会代表 田野 登

 

毎週日曜の朝、NHK「さわやか自然百景」を
妻と一緒に観ることにしています。
「滋養」になると考えているからです。
体力がついて元気盛々を期待するものではありません。
自然の中に生きる生き物たちの生きざまを見て、
生き物の摂理を束の間、感じ取るためです。
今週は宮崎県の枇榔島が舞台に繰り広げられている
鳥たちの世代を越えたドラマでした。
柱状節理で出来た岩が剝き出しの崖に生きる鳥たちでした。
成鳥が小枝を咥えて岩間に降り立ちます。
そこには巣が営まれていました。
雌雄の鳥は交尾をし抱卵し、やがて雛鳥が誕生します。
その雛鳥たちも間もなく親鳥の鳴き声に従って海に旅立ちます。
不図、我が身を顧みます。
母が亡くなってからのことで、私には3人の子どもがいました。
父も弱ってきて老人ホームに入所し、
毎週土曜日には父を連れて実家を帰りました。
そんなひと時、何の弾みか父から私に発せられた言葉が
「イッチョマエのことを言うな」でした。
「イッチョマエ」は「一丁前」で「一人前」です。
小学校を終え鉄工所に丁稚に出された父のことです。
人を「一丁」と数えるのは当たり前の時代です。
一人前の人とは、一体どんな人を指したのでしょうか?
改めて今の我が身を振り返ります。
子ども三人育て、孫は一人です。
さまざまな生き方があります。
「家」に奉じる生き方などあり得ません。
結婚し子どもを育て「家」を継ぐなど考えられません。
浦江のお寺の合祀墓に両親の戒名が刻まれています。
写真図 浦江の妙寿寺の檀信徒合同墓壇



妻も元気なうちに両親の傍らに「先祖代々」を刻んで戴こうかと
思ったりもしています。
「先祖代々」とは何方なのでしょうか?
祀り手のいない係累をも「先祖代々」に交ぜて一緒にして、
「先祖代々之霊」と祀り上げることが出来るのでしょうか?
お盆には「先祖代々之霊」とは別に夭逝し、
私自身、会ったこともない「伯父」「伯母」の「童子」「童女」の
戒名の経木にしたため盆棚に立て、
平等にお供えをし、読経する私です。

浦江の「人」を嘯く吾輩です。
 

今回のタイトル「謡坂」は東海道の諸国にある「ウタウ坂」であります。

前回、「「南国土佐」の近世は、

拙著『水都大阪の民俗誌』2007年、和泉書院において

取り上げた世界と糊代がありそうです。

次回は『南路志』の書誌紹介から始めます」と予告しました。

 

櫻井徳太郎『民間信仰の研究 下』に取り上げた『南路志』とは如何なる書物でしょう。

フィールドの『南路志』について*『南路志』「解説」の冒頭に次の記述があります。

 *『南路志』:『南路志上巻』闔国之部、横川末吉「解説」

高知県文教協会、1959年、国立国会図書館所蔵

◆序/文化10年(1813)武藤致和父子*(子・平道)の編纂した南路志120巻のうち、

 闔国之部(内土佐国七部の事蹟)はこのたび高知県文教協会によって、

 南路志上下2巻として出版されることとなった。

 

此の書は文化10(1813)年武藤致和父子が編纂した土佐国七部の事蹟の記録で、

「闔国」の「闔」の字音は「コウ」で、土佐国じゅう残らず載せた書となります。

「凡例」には次の記述があります。

写真図1 南路志凡例 巻1巻2 国立公文書館所蔵デジタルアーカイブ

◆(上略)闔国にハ凡古書に出せる本国にかゝる事蹟をさくりて各門をわかち抄出す。

 四国南海道・土佐或ハ国造・国司・配流の類也。

 又七部の村々を記して神社・仏閣・名所・旧蹟をはじめ、

 或ハ古人の由縁又は古文書其他産物・奇談・詩歌・人物等に至る。

 

本ブログでは「野神」関連の語彙を探索しますので、「旧蹟」を浚えることになります。

このような体裁の『南路志』について横川末吉「解説」に次のとおり記述しています。

◆憶測を許されるなれば事実の尊重からきたのではあるまいか。

 たしかに武藤氏の学問には前述のように

 厖大な古実の蒐集のなかに埋没した封建的知識人の成果の一面はある。

 しかしながら他の一面には

 近世的合理主義より成長した実証主義的見解を強く表している。

 

「近世的合理主義より成長した実証主義的見解」と

時代による制約を認めつつも「実証主義的見解」を高く評価しております。

以下、*『南路志』より「野神」および関連語彙を含む記事47項目を対象に推論します。

本ブログでは「野神関連語彙」として『南路志』見出し語のうち、

「野」を冠する語であって、民俗宗教との関連が認められる語彙とします。

 *『南路志』:『南路志上巻』闔国之部、高知県文教協会、1959年、国立国会図書館所蔵

「野の神」「野々神」「野宮」「野々宮」「野守」が「野神関連語彙」です。

以下、「野神類」と表記します。

今回は「野神類」の祭祀場所を探りました。

小字名𦳝を糸口に地形を推測し、まず微高地を探ります。

「-山」は以下の3件に見えます。

①    野ノ神[岡山]同/社記云野宮共云少之林を牛馬神と奉崇

 :第9之2「安芸郡中」「元村」野神[高田]:第9之2「安芸郡中」「田野村」

③野神[大野山赤井]社地四歩:第9之2「安芸郡中」「田野村」

㊳野神[茶山牛馬率先掛祭来]祭礼七月七日:第10之1「香美郡上」「須留田村」

㊸野々神[野塚]当村窪氏扣山ニ五輪有之牛馬を祭:第6之1「長岡郡春」「片山村」

≪㊸野々神≫は山に塚が築かれ、五輪塔が信仰の対象として祀られていました。

「-岡」は以下の3件です。

④同*(野神)[土生岡]:第9之2「安芸郡中」「田野村」

⑩同*(野神)[安田岡]同*(祭礼)五月五日/九月九日

 :第9之3「安芸郡下」「伊尾木村」

⑮野神 同[*(井口ノ岡)耕作牛馬祭神]同(*祭礼)九月九日

「-野」は以下の2件です。

⑭野神 同上津野:第9之3「安芸郡下」「井口村」

㊺野神[小野]十六屋敷:第6之2「長岡郡夏」「大埇村」

「林」も見えます。         

㊽野神[野神]十間四方:第6之3「長岡郡」「久礼田村」

「-ホキ」が見えます。

⑦野神[東ホキ]牛馬守護神 同*(祭礼)五月五日/九月九日

:第9之2「安芸郡中」「馬路村」

此の「ホキ」は『広辞苑 第七版』2018年、岩波書店に、

「山腹のけわしい所」とあります。

此処の「野神」が祀られているのは崖っ淵でした。

「-谷」がみえます。

⑥野神[市カ谷]同*(祭礼)九月九日:第9之2「安芸郡中」「西嶋村」

この「市カ谷」は『高知県の地名』「布村」によりますと、

布村の中心は河口海浜に形成された集落であって、

「市が谷」は自然堤防上に位置していたと読み取られます。

此の地名「-谷」も微高地でありました。

「ウト-」が見えます。

㉛㉜野神[ウトノ口無神体大松一本を祭]同*(祭礼)九月十五日

:第10之1「香美郡上」「夜須村」

「ウト」につきましては*柳田国男に記述があります。

*柳田国男:『定本柳田國男集』第4巻、1963年、筑摩書房、

初出1910年6月『遠野物語』聚精堂、九三

◆ウトとは両側高く切込みたる路のことなり。

 東海道の諸国にてウタウ坂謡坂などいふは

 すべて此の如き小さき切通しのことならん。

 

タイトルの「謡坂」が出ました。

「ウタウ坂」というのは「ウト」「切り通し」の洒落言葉であって、これまた山間です。

 

低湿地や如何?水辺に目を転じます。

「-島」「-川ノ上」「淵ノ本」「-井」が見えます。

⑲同*(野神)[西ノ島]無社:第9之3「安芸郡下」「川北村」

⑧同*(野神)同*[穴川ノ上]御神躰石 同*(祭礼)五月五日/九月九日

 :第9之3「安芸郡下」「伊尾木村」

㉖野神[淵ノ本]祭日ナシ:第9之3「安芸郡下」「入河内村」

㊵野神[下井]:第10之1「香美郡上」「深淵村」

≪⑲同*(野神)[西ノ島]のある「川北村」について『高知県の地名』「安芸市」に

次の記述があります。

◆川北村 現行行政地名 安芸市川北

 安芸川と伊尾木川に挟まれた沖積平野北部に位置する。

写真図2 沖積平野イメージ画像

     河川の両側に見えるのは自然堤防

次に「-田」「-畝」に目を凝らします。

②野神[高田]:第9之2「安芸郡中」「田野村」

㊼野々神[西野田]祭礼五月十五日別当瑞松寺社床拾代四歩社地九代弐歩

 地分牛馬祭場此所ニ而野々神祭候由:第6之2「長岡郡夏」「野田村

⑰同*(野神)クホタ神体石社地ハ昔ハ弐丁斗艮ノ方ニ有

 :第9之3「安芸郡下」「川北村」

㉟野神[中竹ノ上畝]同*(祭礼)五九月九日:第10之1「香美郡上」「中西川村」

≪⑰同*(野神)クホタ…昔ハ弐丁斗艮ノ方ニ有≫の「昔」は

『高知県の地名』「安芸市」から読み解くことができます。

◆旧安芸郡の西部を占め、南は土佐湾に面し、

 安芸川・伊尾木川二河川によって形成された安芸平野を中心に、

 その周辺部の広い山地からなる。

 宝永4年(1707)10月4日、大地震による津波で安喜浜村の半分がつぶれまた流れ、

 川北村久保田・松田島村まで津波が押し寄せた。

 

「川北村久保田・松田島村まで津波が押し寄せた」とありますので、

往時、上流の北東に位置していた社地の移動は宝永津波によるものと推測されます。

次回は、祭祀地がマチバ、神社仏閣にあった事例を取り上げることから始めます。

 

究会代表 田野 登