晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

「阪俗研便り」希望者受付
大阪民俗学研究会では、講演、マチ歩き情報満載の「阪俗研便り」配信の登録を受け付けています。
ご希望の方は、氏名、電話番号をお書き添えの上、tano@folklore-osaka.org
まで、直接メールいただきますようお願いします。毎週無料でメール配信します。 田野 登

2026年2月4日(水)、立春の朝を迎えました。

昨夕は「宝船」を戴きに大阪市大正区を歩きました。

その前に東大阪市稲田桃ゆかりの場所を訪ねた折、

念願の幸福堂で「おかげもなか」を年寄夫婦二人のお茶うけにと買い求めたのを

朝食後、口にすることにしました。

写真図1 幸福堂「おかげもなか」

まぁ餡で丸々太った最中です。

甘さは適度です。

昔、伊勢参宮の道筋だったとかで、

稲田桃ゆかりの店舗の銘菓であります。

道端に咲く桃の花に元気を貰って東に旅したのでしょう。

 

今回、2度目の「稲田桃行脚」は、2月1日(日)午後、

荒本の図書館で調べ物をしての後、

旧楠根川跡を辿って楠根・稲田に入ることにしました。

図書館を出て、楠根リージョンセンターに電話しますと

稲田桃に関する資料を預かっていますとのこと。

まぁ天気も良いことですし、遠回りして行きますとお返事をしました。

 

図書館前のフランス系の大型スーパー・カルフール跡は、

モノレール駅になるとかで、広大な空地のままです。

写真図2 旧楠根川跡

この跡地を南東から北西にかけての斜めに走る土地が旧楠根川跡です。

図書館を北に歩き北西に向きますとモノレールの橋脚だけが出来ています。

開通すれば、南北の移動に不便な東大阪市にとっては少しは助かります。

機嫌よう道なりに行き交差点まで来て、北側のコースを取りました。

楠根東歩道橋を遠く南に見た時、これは川跡から外れたと思いました。

致し方なく、どんどん西に向けて歩きました。

気が付けば、楠根を過ぎて稲田です。

道を訊ねましたところ、ほんそこは観音寺さんとのこと。

観音禅寺なら、種が交雑しているもの、稲田桃の名所と聴きました。

今回は、アポなしですので網越しに楼門を撮りました。

写真図3 観音禅寺楼門

どっしりとしていて禅寺の風格があります。

まるで浦島が潜った異界への門です。

通用門と思しき門には「桃源門」の扁額が掛かっています

石柱には「大阪府文化財指定 桃霞の鐘」とも刻まれています。

 

アポをとっておればの思いを残しつつ、南に行きますと

大銀杏で有名な稲田八幡社まで出ていました。

こうなれば、桃の若木が植わっている旧楠根川跡までと思い、

楠根小学校前まで出ました。

写真図4 東大阪市立楠根小学校前

旧楠根川跡の袂にピンク色の花が咲いています。

色は濃く花弁がぼってりしていて、それは梅の花でした。

梅の花なら稲田のお屋敷にも見えました。

前回1月6日の腰痛に苦しみながら、まさに艱難辛苦の行脚から

ひと月ばかりの間に季節は確実に進んでいるようです。

 

道なりに東に向けて行きますと中学校があり、

楠根、稲田、徳庵を繋ぐ「二車線道路」に出ました。

「二車線道路」は、このあたりでは「大きな道路」と何人から聞いた道路です。

前方(南)に、あのアールの掛ったユニークな

「桃の広場」の建物らしきものが見えています。

やっぱりそうでした。

写真図5 楠根リージョンセンター

バスで帰るつもりでいたものですから

言付物を受け取り、礼を申し、あたふたとセンターを出ました。

停留所でダイヤを見直してみて、日曜日には便がないことを知りました。

「勿怪の幸い」とはこのことです。

一本しかない二車線道路を北に、JR徳庵駅方面に歩けば、

きっと桃の銘菓のお店、この辺りでは「餅屋さん」に行ける。

腰は、前回と違って、コルセット無しでも大丈夫です。

先ほど歩いた道を逆に歩きました。

ボクは逆戻りすることを厭いません。

それまでと違うモノを見て、違うことに気づくからです。

大阪バスの一駅北は「稲田楠根」でした。

西側の学校は「東大阪市立楠根中学校」でした。

それにしましても近鉄バスの時代の「桃江橋」やら「鷺島橋」や如何?

地形が変わっても残されていた停留所の名が異なるバス会社の路線となって、

消えて行ったのでしょうか?

「桃江橋」の「桃」が消えて寂しいと思うのは、

偶さかのよそ者の意識であって、

生活者にとっては、そのような情報は役に立たないものなのでしょう。

 

そうこうしているうちに桃の銘菓のお店「幸福堂」を見つけました。

今では「福のもゝ」「おかげもなか」を看板に挙げています。

写真図6 「福のもゝ」幸福堂

ボクは、何処に行っても旅人気分です。

かつての名産「桃」を知り、かつての「伊勢参り」を知ります。

ご主人から、暫く聴き込んで店を発ちました。

銘菓「福のもゝ」については、原稿を書く段になって電話で訊ねました。

金のホイルに包んで300度で焼き、白餡が入っているとのこと。

桃の実の形をした焼き菓子です。

名産の桃に幸福を託した「金ピカ」の銘菓を口にし、

縁起を担ぎたいものです。

「稲田桃行脚」の続篇は以上です。

また発見でもあれば稿を重ねます。

 

究会代表 田野 登

今回≪暮らしの古典≫163話のタイトルは「紫雲斜聳」です。

前回は「紫雲」にまつわる話を取り上げると予告して結びました。

紫色の雲を見たことありますか?

吉凶いずれの兆しでしょうか?

今回は維範「ゆいはん」なる高僧の臨終の時の奇異なる物語です。

「維範」を*『日本人名大辞典』に当りました。

 *『日本人名大辞典』2001年、講談社、2005頁「維範」

◆ゆいはん[維範](1011―96)平安時代中期‐後期の僧。

 寛弘8年生まれ。真言宗。紀伊相賀(和歌山県)の人とも京都の人ともいう。

 大和(奈良県)壷坂寺の太念に灌頂をうけ、子島流南院方をひらく。

 高野山にのぼって南院を中興。承保2年(1075)高野山検校となる。

 嘉保3年2月3日死去。86歳。俗姓は紀。通称は南院阿闍梨。

 

「嘉保3年2月3日死去」につきましては、

寛和年間(985~987)成立*『日本往生極楽記』に載っています。

 *『日本往生極楽記』:『日本往生極楽記』

(『往生伝集』(『善福寺善本叢刊』第7巻)2004年、臨川書店)

今回も『善福寺善本叢刊』をテキストとして引きます。

ただし元の本文の文字を他の伝本によって補った箇所は、元の文字を記しません。

また訂正した誤字も元の文字を示さず、( )内の片仮名はテキストにあるルビです。

*=は、筆者補筆です。

◆11 阿闍梨維範ハ、京師ノ人ナリ。顕密性ヲ稟ケ「瑩*=磨」イテ、

 山林ニ心ヲ摂(ヲサ)ム。遂ニ平城ノ月ヲ辞シテ、長ク高野ノ雲ニ入レリ。

 俗呼ヒテ南院ノ阿闍梨ト曰フ。

 

後世の『紀伊国名所図会』は元亨2(1322)年になる『元亨釈書』を引いていますが、

「顕密に性をみがき」から「世に南院の阿闍梨と称す云々」までは、

『日本往生極楽記』と一部に用字の違いはあっても凡そ一致します。

「平城ノ月ヲ辞シテ、長ク高野ノ雲ニ入レリ」についての書き加えはありません。

以下、テキストの『日本往生極楽記』は、

「嘉保三年*(1091)正月廿八日、俄ニ小労有リキ」と続きます。

「小労」とあって、多少の疲れでもあったのでしょう。

それが、三日後の記事や如何?

◆二月朔日ニ至リ、法花経一部、不動尊一万体、摺摸供養セリ。

 第三日ノ早旦、沐浴浄服シテ、円尊上人ヲ令テ尊勝護摩ヲ修セ≪令≫ム。

 蓋シ臨終正念ノ為ナリ。是ノ日、闍梨護摩壇ニ詣リテ、

 西ヲ敬礼シテ言ハク、一期ノ命、今夕極マレリ。

 

三日目早朝の「沐浴浄服」「修護摩」を、編者は「臨終正念」と推測しています。

さらに維範は西方に敬礼して「一期ノ命、今夕極マレリ」と口にし、

「曼荼羅」も此れを見納めとばかり決意して本房に帰ります。

◆本房ニ帰リテ、端坐シテ西ニ向ヘリ。手ニ妙観察智ノ定印ヲ結ヒ、

 口ニ弥陀如来ノ宝号ヲ唱フ。兼ネテ五色ノ糸ヲ以チテ、

 仏ノ手ニ繋ケテ、定印ト相ヒ接フ。

 漸クニ子ノ剋ニ及ヒテ、眠ルカ如クニシテ気絶エヌ。

 

高齢ゆえか僅か数日間で「眠ルカ如クニシテ気絶エヌ」と相成ります。

五日目にして門人によって廟室に安置されます。

その一月後の五七日に至っての記事を引きます。

◆五七日ニ至リテ、門弟相ヒ議リテ、廟ノ戸ヲ開キ見レハ、

 定印容色、猶*(ホ)故(モト)ノ如シ。

 此ノ奇異ヲ畏レテ、廟ヲ鎖シテ開カ*(ス=不)。

 

門弟は、廟を開けて定印容色が元のままであることに「奇異ヲ畏レテ」廟室を閉鎖します。

本ブログは、以下の記事を、適宜区切りながら、全文を引きます。

相次ぐ「奇瑞」の何処に「紫雲」が 見えるやら?

◆凡ソ闍梨臨終ノ間、瑞相太タ多シ、

 其ノ院ノ内ノ禅僧信明、〈字ハ北筑紫ノ聖ナリ。〉

 久シク庵室ヲ閉サシテ、門戸ヲ出テ不。    

 此ノ時ニ当リテ、空中ニ声有リテ曰ハク、南院只今滅ストイヘリ。

 

南院の阿闍梨・維範臨終の間の瑞相記事は

「北筑紫ノ聖」が空中に聞いた「南院只今滅ス」の声でした。

続く奇瑞は「慶念上人」の夢です。

以下、多数の聖が登場する壮大なスペクタルが展開します。

◆[又慶]念上人、同シ時ニ夢ミラク、

 一ノ大ナル城有リ。

 衆僧此ノ中ニ集会ス。

 南院ノ闍梨、日想観ヲ修シテ居レリ。

 此ノ時音楽西ニ聞エ、聖衆東ヨリ来ル。

 先ツ伽陵頻六人、舞衣ヲ翻シテ下ル。

 

「大ナル城」に大勢の僧侶が集会していて、

その中に維範が日想観を修して居たというのです。

西に音楽が聞こえ、「聖衆」が東からやって来たというのです。

「聖衆」は『角川新字源 改訂』1994年、角川書店に次の記述があります。

◆聖衆(読み:しよう(しやう)じゆ)極楽浄土にいる菩薩たち。

 

極楽浄土からの来迎なのです。

「伽陵頻六人」とありますが、『日本佛教語辞典』1988年、平凡社

「迦陵頻伽」(かりょうびんが)に次の記述があります。

◆①カラヴィンカの写音。

 カラヴィンカは、「雀」あるいは「インド郭公」を意味するが、

 仏典では極楽に住む鳥とされ、鳴声がことのほか美しく妙であるといわれる。

 「妙音鳥」「好声鳥」と訳される。

 ②仏の声を喩えていう。…③美人の声を喩えていう。

 

ここでは「伽陵頻六人」とありますので、極楽に居る歌姫です。

「慶念上人」の夢の続きには、雲に乗ってきた上人の話が載せられています。

◆次ニ小田原ノ教懐上人、雲ニ乗リテ来ル。〈件ノ上人ハ先年往生ノ人ナリ[也]。〉

 慶念其ノ故ヲ問フニ、傍ノ人答ヘテ云ハク、南院ノ闍梨往生ノ儀ナリトイヘリ。

 

何故、駆け付けたのかを訊ねたところ傍の人曰く「南院ノ闍梨往生ノ儀ナリ」とのこと。

次に登場します定禅上人の夢や如何?漸く「紫雲」が見えます。

◆又定禅上人ハ、山中ノ旧住ナリ。数月他行シテ、此ノ日帰リ来リヌ。

 闍梨ノ入滅ヲ聞キテ、啼泣テ臥ス。其ノ夜夢ミラク、

 西天高ク晴レテ、紫雲斜ニ聳キ、無量ノ聖衆其ノ中ニ集会ス。

 亦腰鼓菩薩独リ雲外ニ出ツトミタリ。

写真図 紫雲に乗る仏たちのイメージ

「紫雲斜ニ聳キ、無量ノ聖衆其ノ中ニ集会ス」とあります。

「無量ノ聖衆其ノ中ニ集会ス」とある「其ノ中」は紫雲の中です。

問題は「紫雲斜ニ聳キ」の訓みであります。

*『日本往生全伝3』所収「拾遺往生伝」は漢文を翻刻したものでありますが、

「紫雲斜聳」の「斜」に「メニ」と送り、「聳」には「ヘ」を送っています。

 *『日本往生全伝3』:著者 慶滋保胤等著、赤松皆恩訂 永田文昌堂

出版年月日 明15.1

赤松皆恩訂1882年本なら「聳へ」を「そびへ」と容易く訓むことができます。

「斜」を諸橋轍次『大漢和辞典』巻5、1957年初版、大修館書店に邦訳として

「斜ならずと打ち消して、大方でない。ひととほりでないの意に用ひる」とあります。

「紫雲斜聳」は、紫雲が一際、湧き立ち、その中に聖衆が参集する

奇瑞、吉兆であり、これもまた特筆すべき奇異であります。

◆又維照上人先年ニ如法経ヲ書写シ、闍梨ヲ以チテ供養シテ、大師ノ廟院ニ埋メタリ。

 此ノ日[於]彼ノ処ニ、理趣三昧ヲ行ヘリ。夢ニモ非ス、覚(ウツツ)ニモ非ス、

 空中ニ声有リテ曰ハク、千載一出ノ沙門、只今滅度ストイヘリ。

 是クノ如キ奇異、万ヲ省キ一ヲ記スノミ。

 

維範臨終の奇瑞記事は、これまでですが、

次回は天王寺の記事に「臨終」を読むことから始めます。

はたして日想観に至るやら?

 

究会代表 田野 登

家からマンションまでの道すがら、今朝も寒い中、

児童の登校を見守っておられる方がおられます。

ボクより学年は一つ上の方です。

「昔、さぶかったら、『とんど』で火ぃにあたってましたねぇ」と訊ねましたところ、

「このあたりでは『とんどび』と言うて、

焼き芋にして食べたりもしましたよ」とのこと。

今なら、カドでお盆に苧殻に火をいこして(熾して)

火を焚くぐらいですが、

昭和30年代、大阪市内の長屋に育ったボクにとって

「とんど」は、家の前などで、要らなくなったモノをくべる

「燃やす」、焚火でした。

シュレッダーなど無い時代、

要らなくなった書付などに交じって

書初めの失敗作も火にくべては、

上達を誓ったこともありました。

とんどの火のぬくさをご近所さんと一緒に感じた時代でした。

この「とんど」は池田鉢塚といった旧農村の民俗を調査した時、

別の意味を聞きました。

「ヨーネンコー言うて「夜寝ん講」の字があてられる

小正月に子供たちが行うトンド行事です」とのこと。

年越しのサエノカミ(賽の神)祭りらしいのです。

喜田川守貞『近世風俗志』で「とんど」を確かめました。

「大坂は、門松・注連縄の類を諸所川岸等に集め積みて、

 十六日の暁前にこれを焚きて 左義長の義を表す。

 これを焚くのを坂俗は、とんどと云ふなり」とあります。

大坂市中では「諸所川岸」で焚き上げていたのです。

今年の小正月は、塞がっていて、

実家に近い浦江聖天(福島聖天)さんの

「とんど焚」に向けて11日に注連縄を預けて来ました。

写真図 浦江聖天(福島聖天)「とんど焚」看板

このところ、話題と云えば時ならぬ総選挙の風が吹くばかりで、

嘘々しい空っ風ばかりの味気ない日々です。

朝の寒さから、半月前の小正月の風習に託けて

今回の「日々寸感」は、

「とんど」という言葉の「焚火」という

忘れかけている意味を拾い上げました。

浦江でのとんどの火のぬくもりを思い出して

名ばかりの田夫野人これを記す

今週の≪暮らしの古典≫は162話≪隣里随喜≫です。

「随喜」(ずいき)とは、単に人を喜ばせるという意味ではなかったようです。

「随喜の涙」が房時にまつわるモノにあしらわれたりもしますが、

その元は、仏教に因む言葉のようで、各宗派はブログに挙げています。

はたして、今回は、如何なる場面に「隣里随喜」が見えるのでしょうか?

 

前回「四天王寺「日想観勤行行儀」創成に至るまでの過程を

「日想」「日想観」という言葉を軸に論究することにします」と予告しました。

今日、大勢の老若男女が詰めかける中、

極楽門前で導師による「日想観文」が唱えられています。

それ以前の「日想」や如何?

「日想」という言葉は、夙に『日本往生極楽記』に見えます。

この書は『世界百科大辞典』21、平凡社2007年に次の記述があります。

◆慶滋保胤選。寛和年間(985~987)の成立。

唐の≪浄土論≫≪随応伝≫にならって日本の往生者の伝を集め、

42項目45人を(以下401頁)僧尼・俗人男女の順に漢文体で記す。

 

以下*『善福寺善本叢刊』本をテキストして引きます。

 *『善福寺善本叢刊』:*『日本往生極楽記』(『往生伝集』(『善福寺善本叢刊』第7巻)               2004年、臨川書店)

読む煩を厭い、元の本文の文字を他の伝本によって補った箇所は、元の文字を記しません。

また訂正した誤字も元の文字を示しません。

( )内の片仮名はテキストにあるルビです。

以下、本文を適宜、区切り注記を添えます。

◆38 女弟子ノ小野氏ハ、山城ノ守喬木(タカキ)カ女、右代弁ノ佐世カ妾(メ)なり。

   少年ノトキ自リ始メ、心ハ仏法ニ在リ。

 

話の主人公の女性は、少女の頃から信仰心が篤かったようです。

引用を続けます。

兄ノ僧延教ニ語リテ曰ハク、我レ菩提ノ道ヲ覚知セムト欲ス。

   幸ハクハ開示ヲ垂レタマヘトイフ。

   延教無量寿経及ヒ諸ノ経論ノ中ノ要文ヲ抄キ出シテ、此ノ女ニ与ヘケリ。

昼夜兼ネ学ヒテ、歩歩トシテ倦ムコト无シ。

 

無量寿経」には語頭に「観」が補われております。

兄の僧・延教から「観無量寿経」などの抄出を与えられ日夜、彼女は学びます。

引用を続けます。

月ノ十五日ノ黄昏ニ至ル毎ニ、五体ヲ地ニ投ケ、

   西ニ向ヒテ礼拝シテ唱へて曰ハク、「南無西方日想安養浄土。」トイフ。

写真図 黄昏時の太陽のイメージ

「月ノ十五日ノ黄昏ニ至ル毎ニ」とあります。

「日想」を観じるのは年に二度の彼岸の中日ではありません。

テキストには「南無西方日想安養浄土」と「日想」とはあっても

「日想観」とはありません。

在家の一女のことです。

このように毎月、日没に自宅で礼拝を続ける彼女に、

父母から「精神ヲ労シ、定メテ形容ヲ減ハム」と心身を気遣っての謗りもあったようです。

そのような彼女にも転機が訪れます。

◆女、年廿五ニシテ、初メテ一女ヲ生メリ。

 

ところが一転。

◆産ノ後月余リ、脳気自ラニ発ル。病ニ臥スコト旬ニ渉リ、遂ニ早世セリ。

 

女児を出産したのも束の間、一月と十日余りで亡くなります。

引用を続けます。

◆瞑目ノ夕ヘ、音楽空ニ満ツ隣里随喜セリ

 

安らかに逝った夕べ、「音楽空ニ満ツ」とあります。

タイトルの「隣里随喜」が出ました。

隣里随喜セリ」とあって、この不思議な音楽に隣村の里人は瑞祥として

涙を流したのであります。

満月の黄昏時に「日想」を拝した一女の奇跡でしょうか?

 

『日本往生極楽記』に後れて、1120年(保安1)以降に成立した

『今昔物語集』は、この話に材を取った

「右大弁藤原佐世妻往生語第四十九」を載せています。

『今昔物語集』の話は、内容が重複し、諄く感じられますので抄出します。

冒頭は以下のとおりです。

ルビは適宜、( )内に振ります。

◆今昔、右大弁藤原ノ佐世(すけよ)ト云フ人有ケリ。

   其ノ妻(め)ハ山城守小野喬木(たかき)ト云ケル人ノ娘也。

 

唱え言に「日想」の見える記事は、以下のとおりです。

◆亦、毎月ノ十五日ノ黄眠(ゆふぐれ)ノ時ニ至リテハ、

   必ズ五体ヲ地ニ投テ、西ニ向テ礼拝シテ、

  「南無西方日想安養浄土弥陀仏」ト唱フ。

 

唱え言は『日本往生極楽記』が「南無西方日想安養浄土」であったのに

「弥陀仏」が添えられているだけで寸分も変わらず書き写されています。

出産、続く死去の記事は割愛します。

来迎の場面を挙げます。

◆其の時ニ、微妙(みめう)ノ音楽ノ音(こゑ)空ニ聞ユ。

   此レヲ聞ク隣ノ里ノ人、皆、

「此ノ女ノ極楽ノ往生ゼル相(さう)ゾ」ト知テ、

不悲貴(かなしびたふとば)ズト云フ事無カリケリ。

 

『日本往生極楽記』にあって「音楽空ニ満ツ。隣里随喜セリ」が

このように詳細に記されています。

「音楽」が「微妙ノ音楽ノ音」に、「随喜セリ」は、

「「此ノ女ノ極楽ノ往生ゼル相(さう)ゾ」ト知テ、

不悲貴(かなしびたふとば)ズト云フ事無カリケリ」が

対応します。

「隣ノ里ノ人」によって、空に聞こえた音楽を

「此ノ女ノ極楽ノ往生ゼル相」と知覚され、

更に「不悲貴ズト云フ事無カリケリ」と

里人が此の奇瑞を「悲しくも貴ばないことは無い」と、

その心意を推量しております。

まさに、此の奇瑞に随喜するのであります。

『今昔物語集』の編者による結語が添えられています。

◆不出家ズシテ、女也ト云ヘドモ、

   此ク往生スル也、ト語リ伝ヘタルトヤ。

 

語り伝えとして、原話というべき『日本往生極楽記』における

唱え言に「日想」を観じた在俗の女の極楽往生を讃えて

一話が結ばれます。

随分、現行の四天王寺「日想観勤行行儀」から物語世界に出てしまいました。

次回は、「紫雲」にまつわる話を取り上げます。

 

究会代表 田野 登

お昼、ラジオをかけていたら、

懐かしい歌声が聞こえてきました。

天地真理「ひとりじゃないの」、小柳ルミ子「瀬戸の花嫁」、

ちあきなおみ「喝采」でしたかなぁ。

当時、ボクは22歳、1972年のヒット曲でした。

「瀬戸の花嫁」からは、その情景を空想したものです。

写真図 瀬戸の黄昏

 

4年前の18歳、1968年の3月、

受験の失敗で失意の中、

旅行鞄に文庫本の「新古今和歌集」を詰めての

3泊4日の一人旅に出ました。

この旅の途次、

今治から尾道まで船に乗り瀬戸の島々を眺めたものです。

川端康成がノーベル文学賞を授与されたのは、

その年、1968年秋のことです。

記念講演のタイトルが「美しい日本の私」でした。

2年後の1970年10月、大阪万博終了後、

国鉄は個人旅行拡大キャンペーン

「ディスカバー・ジャパン」を開始しました。

サブタイトルは「美しい日本と私」でした。

川端のタイトルの「美しい日本」をいただいたのでしょうが、

今思えば、高度経済成長により国土が汚染される中での

自文化を見つめなおすキャンペーンでした。

「美しい日本の再発見」を商品化したものでした。

「モーレツからビューティフルへ」の

キャンペーンが張られたのもこの時代です。

二十歳のむさ苦しい青春時代を潜り抜けて、

半世紀あまり経ち今では、後期高齢者の一人です。

それであってなお、

此の国にあっての「伝統文化」に心寄せる学徒の一人です。

民が減った此の国にあっての「国土」や如何?

此の国は少子高齢社会の道を歩み、

まさに「内憂外患」のときを迎えています。

力を誇示するより、

しなやかに穏やかな日々を過ごしたいものです。

流行歌に事寄せて、「美しい日本」に向けての寸感は以上です。

 

浦江のお寺に初参りを先週済ませた

名ばかりの田夫野人、之を記す