M24軽戦車 | 戦車のブログ

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M24チャーフィー軽戦車は、第二次世界大戦においてアメリカ合衆国が使用した軽戦車である。

 

愛称はアメリカ軍戦車開発のパイオニアであったアドナ・R・チャーフィー・ジュニア将軍にちなみチャーフィー(Chaffee)と名付けられた。

 

 

M3/M5軽戦車シリーズの更新用として、機甲作戦においてより広範囲な任務を遂行できる新型戦車として設計・開発が行われた。

 

GMCキャデラック・モーターカー製造部とマスセイー・ハリス社により約4,700輌が生産され、アメリカ軍の他に戦後は西側諸国に広く供与されて長らく使われた。

 

 

アメリカ陸軍では1942年に北アフリカにおいてドイツ軍と戦闘を行なったイギリス軍所属のM3軽戦車の運用実績などの調査を行い、新に開発される軽戦車には「75mm程度の戦車砲を装備し、強力な装甲を持たせる」ことが要求された。

 

これは、従来の37mm砲では、徹甲弾による対戦車戦闘にも榴弾による対戦車砲の制圧にも、全くの威力不足であったことが理由となっている。

 

これを受けて75mm砲搭載の軽戦車としてT7が試作されたが、あまりにも多くの要求を盛り込んだ結果、T7は重量は最終的には25トンに増大、M7中戦車として採用されはしたものの、ひどく中途半端な車輌となってしまった。

 

 

そのため、M7中戦車の車体レイアウトと、M5軽戦車の操行装置とエンジンを用いた新たな軽戦車・T24の開発が決定された。

 

ツイン・キャデラック・シリーズ 44T24エンジン(グロス出力286馬力、ネット出力220馬力)は従来通りだが、変速機はキャデラック製ハイドラマチック自動変速機(前進4速後進1速)にハイ・ロー切替の副変速機を追加、サスペンションには垂直渦巻きスプリングのボギー式を止めトーションバー式を採用した。

 

これらの組み合わせは、後のM41軽戦車に採用された超信地旋回もできるクロスドライブ式ほどではないにせよ、路外機動性・操縦性に優れた機構となった。

 

また、副操縦士兼前方銃手の席にも操縦装置が備えられ、こちらの側でも同じように操作できた。

 

 

重量を抑えるため砲塔防盾を除く装甲主要部は25.4mmと、M3A3軽戦車やM5軽戦車同様だが、車体、砲塔共に格段に避弾経始が優れた物となっている(もっとも軽戦車の限界で、朝鮮戦争でT-34の85mm砲の榴弾に撃破されるレベルであった)。

 

また、M4中戦車用の75mm砲と同じ砲弾を使用しながら、同心駐退複座方式でコンパクトにまとまった軽量な75mm戦車砲 T13E1が試作され、試作型のT24ではM5、量産型のM24ではM6と命名して搭載された。

 

これは当時使用されていたB-25H爆撃機に搭載されていたAN/M9がベースとなっている。

 

T24の試作車は1943年10月に完成し、運用試験が行われた。

 

翌1944年3月より生産を開始、1944年4月-1945年8月までに4,731輌(GMCキャデラック・モーターカー製造部:3,961輌、マスセイー・ハリス社:770輌)が生産された。

 

 

 

1944年末よりヨーロッパに送られ、最初に部隊配備された20輌が「バルジの戦い」で初陣を飾った。

 

機甲師団戦車大隊と機械化騎兵偵察大隊の軽戦車中隊に配備され、ドイツ軍のIV号戦車を撃破している。

 

以降、配備された車輌の少数が実戦を経験し、1945年3月初め頃には、ドイツ国内のドマゲン近郊で、第4機甲偵察大隊F中隊のM24が、榴弾の爆発の衝撃での車内の即用弾薬を誘爆させる手段で、ティーガー戦車2輌を撃破したことが記録されている。

 

 

しかし、それまでのずんぐりしたアメリカ戦車と異なり、敵のパンター戦車のようなスマートな形状ゆえ味方から誤射されることもあり、「パンサー・パプス」(仔豹)などとも呼ばれた。

 

イギリス軍へも289輌が供与されたが、実戦投入前に終戦を迎えた。

 

またレンドリースの参考用としてソ連軍にも2輌が送られ、全体的に高い評価を得たものの、既に軽戦車というジャンルそのものが装甲も火力も力不足であるとして、それ以上の供与が求められることは無かった。

 

製造されたM24のうち、1946年から1950年にかけて1600輌ほどが、オーバーホールと近代化改修を受けている。

 

 

第二次世界大戦後もアメリカ陸軍は主力軽戦車としてM24軽戦車を使用していたが、朝鮮戦争においてT-34-85を相手に苦戦を強いられ、第二次大戦後に開発が始まった戦後型軽戦車のM41軽戦車にその座を譲ることになる。

 

 

また、フランス軍に供与された車輌は分解されてベトナムに空輸され、ディエンビエンフーの戦いでベトミンと戦った。

 

その後、南ベトナム軍もフランス(撤退時に残されたうちの残存車輌で43輌ほど)やアメリカ(追加供与で32輌)から得た戦車を装備して、北ベトナム軍や南ベトナム解放民族戦線と戦ったが、1965年から供与の始まったM41と交代して、空港や施設の防衛任務に回されていった。

 

 

前述の国以外にも、M24軽戦車はイタリア(50輌)、イラク(78輌)、イラン(180輌)、ウルグアイ(17輌)、エチオピア(34輌)、オーストリア(54輌)、オランダ(50輌)、カンボジア(36輌)、ギリシャ(170輌)、サウジアラビア(52輌)、スペイン(180輌)、タイ(20輌)、台湾(292輌)、トルコ(114輌)、ノルウェー(72輌)、パキスタン(282輌)、ベルギー(130輌)、ポルトガル(16輌)、ラオス(4輌)といった西側諸国他に供与され、1970年代から1980年代まで使用され続けた。

 

中華民国国軍(台湾軍)の車両は金門島及び馬祖島で2000年頃まで現役装備としてトーチカに収容されて配備されていた(現在は引き揚げられて博物館に展示されている)。

 

 

日本におけるM24

 

日本には警察予備隊の創設とともに重装備の一つとしてM24の供与が決定され、1952年3月から8月にかけて最初の引渡しが行われ、最終的な供与数は238輌だった。

 

ただし、同年10月の保安隊発足に伴い、実質的な訓練と部隊編成は保安隊発足以後に行われることとなった。

 

導入当初は憲法九条との兼ね合いから「戦車」ではなく「特車」と呼ばれた。

 

最初の40輌は相馬原で編成された特別教育隊と普通科連隊第14中隊に少数ずつ分散装備された。

 

後に各師団戦車大隊向けに375輌が供与され、同じく供与されていたM4A3E8と共に、初期の陸上自衛隊の機甲兵力を担った。

 

小柄な車体からM4に比べて日本人の体格に合い、操縦性、踏破性などテケ車に近いと高く評価された。

 

 

大型のM4が在北海道部隊などに優先配備されたのと異なり、小型軽量の本車は全国の部隊に広く配備され、創設間もない陸上自衛隊の代表的な「戦車」(装備当時の呼称は「特車」)となった。

 

1961年からはM41軽戦車及び61式戦車の導入が進められてM24との装備更新が進められ、1974年には最後の車両が退役している。

 

 

退役した車両は順次返還が行われたが、少数が現在も日本国内に残存しており、富士駐屯地を始めとして陸上自衛隊駐屯地の展示品として保存されている。

 

 

 

東宝特撮作品では、防衛隊の陸上兵力の中核として、初期の東宝特撮作品にも数多く登場している。

 

また、実際に自衛隊の車両を撮影したライブフィルムの他、特撮用の自走式のミニチュアも製作された。

 

これらは後に61式戦車のミニチュアに改造され、さらに74式戦車のミニチュアに再改造されている。

 

この他、1960年代から1970年代にかけて製作された日本の戦争映画、もしくは戦車が作中に登場する映画には自衛隊の装備車両が登場する作品が多数存在している。

 

『樺太1945年夏 氷雪の門』
陸上自衛隊の装備車両がソビエト戦車として登場。
 
『激動の昭和史 沖縄決戦』
撮影には木製の実物大模型のほか、自衛隊の中古車輌も併用された。
 
『ゴジラシリーズ』
『ゴジラ』
防衛隊所属車が、東京に襲来したゴジラを攻撃する。
映像は実写による昼間の出動シーンと、ラジコンによる攻撃シーンからなる。
『ゴジラの逆襲』
防衛隊所属車が、ゴジラの迎撃に出動する。
映像はラジコンによる走行と発砲シーンのみ。
『怪獣大戦争』
防衛隊所属車が、X星人に操られて市街地を破壊するゴジラとラドンを迎え撃つ。
映像は『空の大怪獣ラドン』からの流用。
『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』
防衛隊所属車が、東京を破壊するキングギドラとガイガンを迎え撃つ。
映像は『空の大怪獣ラドン』からの流用。
 
『五人の突撃隊』
ビルマ戦線を舞台にした戦争映画。敵軍戦車および鹵獲した戦車として実車が登場。このほか冒頭の戦闘シーンではM4中戦車も登場する。
 
『空の大怪獣ラドン』
福岡市内で暴れまわるラドンを攻撃するが、ラドンの暴風に伴い退避する。その後、阿蘇山攻撃にも参加する。
映像は実写による市街地の走行シーンとラジコンによる発砲シーンからなる。
 
『地球防衛軍』
ミステリアンドームを包囲するが、攻撃するシーンはない。