映画で観る米海兵隊の迫撃砲 | 戦車のブログ

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映画で観ると題しているがテレビドラマであった『ザ・パシフィック』。

 

大東亜戦争、アメリカで呼ぶ「太平洋戦争」を題材にした戦争ドラマである。

 

アメリカ海兵隊を舞台にしている。

 

当然敵役は日本軍である。

 

 

ザ・パシフィック』は、実話を基に太平洋戦争における米海兵隊員達と日本軍の死闘を描くテレビドラマシリーズ。

 

バンド・オブ・ブラザース制作委員会が第1海兵師団の海兵隊員達を主人公に太平洋戦争の戦いを描く、実話を基にしたテレビドラマシリーズである。

 

脚本は元海兵隊員ユージーン・スレッジのノンフィクション作品『ペリリュー・沖縄戦記』と、同じく元海兵隊員ロバート・レッキーの回想記『南太平洋戦記―ガダルカナルからペリリューへ』に加え、議会名誉勲章受章者である海兵隊員ジョン・バジロン一等軍曹のエピソードを基にしており、物語はこの3人を中心にして描かれている。

 

 

ペリリューの戦いのシーンでは、迫撃砲を操砲するシーンが描かれている。

 

ペリリューの戦闘は、米海兵隊にとってトラウマになるくらいの激戦であった。

 

ペリリューの戦いは、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)9月15日から11月27日にかけペリリュー島(現在のパラオ共和国)で行われた、日本軍守備隊とアメリカ軍の陸上戦闘である。

 

アメリカ側の作戦名はステールメイトII作戦(Operation Stalemate II)。

 

要塞化した洞窟陣地などを利用しゲリラ戦法を用いるという、日本軍が見せた組織的な抵抗戦術はアメリカ軍を苦しめ、後の硫黄島の戦いへと引き継がれていくことになる。

 

 

実質的に日本軍の兵力はアメリカ軍の6分の1以下だったと言える。

 

また戦力差については航空機による爆撃、軍艦からの艦砲射撃等を考慮するとアメリカ側が少なくとも数十から数百倍の火力で日本軍を圧倒している。

 

アメリカ軍は、日本側の暗号電報や海軍乙事件で入手した機密書類、偵察機からの空撮、潜水艦で沖合からの海岸撮影などで得た情報を総合的に分析し、日本軍守備隊兵力を10,320〜10,720名、内戦闘員を陸軍5,300名、海軍800〜1,000名と、かなり正確に推定していた。

 

 

この推定された日本軍守備隊兵力と自軍の参加兵力との差に、第1海兵師団長のウィリアム・リュパータス海兵少将は上陸作戦にあたり海兵隊兵士の前で訓示した際「こんな小さい島(南北9km、東西3km)の戦闘は2、3日で片付く。諸君に頼みがある、私への土産に日本軍守備隊指揮官のサムライ・サーベルを持ち帰ってもらいたい。」と豪語していた。

 

リュパータス師団長は第1海兵連隊連隊長ルイス・ブラー大佐にも「今回は君の昇進のためのような作戦だ、海軍十字章と准将の階級章が同時にもらえるぞ」と楽観的な話をしていたが、ブラー大佐は上陸前1週間に渡って入念に地図や偵察写真を確認した結果、日本軍は一年かけて島全体を要塞化しており、師団長は楽観的すぎると危惧していた。

 

 

また、第一海兵師団の予備兵力として陸軍第81歩兵師団の1個連隊が待機する計画であったが、リュパータス師団長は陸軍をなるべく排除したいと考えており、第81歩兵師団の予備部隊を断り、海兵隊よりわずか1個ライフル大隊を準備することとした。

 

これは遠征軍司令ジュリアン・スミス少将の意思にも反したが、リュパータス師団長はアレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵隊総司令と個人的に懇意で、リュパータス師団長の案で決定されたが予備部隊の不足は後に大きな影響をおよぼすこととなった。

 

上陸当日もリュパータス師団長は従軍記者らに戦闘は激しいが4日で終わるという楽観論を述べたが、それを真に受けた従軍記者が多く、ペリリューに帯同した36名の内で上陸当日に軍と行動を共にしたのはわずか6名だった。

 

そのため、アメリカのマスコミはペリリューの上陸戦でどのような戦闘が行われたかほとんど目にすることができなかった。

 

 

アメリカ軍は上陸地点の南北3km弱の西浜を北からホワイト1, 2、オレンジ1, 2, 3というコードネームで5つに区分していた。

 

「海岸が流血で染まったためにオレンジ海岸と呼ばれるようになった」という説は誤りである。

 

ホワイトには第1海兵連隊、オレンジには第5、第7海兵連隊が向かっていたが、各連隊が向かっている海岸には日本軍の構築していた各陣地が待ち構えていた。

 

 

 

日本軍は中川大佐の命令により、敵を徹底的に海岸に引き付けることとしており、兵が逸るのを抑えて射撃を自重させていた。

 

「イシマツ」「イワマツ」「クロマツ」を守る中島正中尉率いる第5中隊を基幹とする主力部隊は、アムトラックが目前に迫ると軍用犬で砲兵陣地に砲撃要請を行った。

 

1匹目の軍用犬は途中で死んだが、2匹目で野砲陣地に連絡成功し、上陸部隊が100m〜150mの至近距離まで接近したところで、射撃開始の命令が下された。

 

特に中川大佐直轄であった野砲大隊と九一式十糎榴弾砲は、山腹の洞窟陣地に配置されており砲爆撃にもほとんど損害はなく、眼下に群がる敵に「この時こそ天がわが砲と我々に与えし好機なり」と自信をもって砲門を開き、上陸用舟艇に一斉射撃を加えた。

 

日本軍の激しい砲撃で、珊瑚礁は大小の穴だらけとなり、上陸用舟艇やアムトラックは次々に炎上し、海兵隊の兵士が吹き飛ばされた。

 

 

スコールのような砲撃による砂塵が収まると、アメリカ兵の殆どが死傷して倒れており、そこで中島中隊は射撃を開始、上陸部隊はさらに大損害を被って煙幕を焚きながら一時退却するという場面すらあった。

 

それにもかかわらず第1波の上陸から1時間後には、アメリカ軍の第2波上陸部隊が西浜に殺到した。