メス攻囲戦 | 戦車のブログ

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1870年9月3日、普仏戦争でメス攻囲戦が始まった日。

 

普仏戦争は、フランス第二帝政期の1870年7月19日に起こり、1871年5月10日まで続いたフランス帝国とプロイセン王国の間で行われた戦争である。

 

普仏戦争は明治の日本陸軍に大きな影響を与えた戦争であり、日本はフランス式からドイツ式の軍隊へ変換させた戦争である。

 

 

プロイセンは北ドイツ連邦のみならず、南ドイツのバーデン大公国・ヴュルテンベルク王国・バイエルン王国と同盟を結び、フランスに圧勝した。

 

この戦争を契機に、すでに旧ドイツ連邦の解体で除外が濃厚となっていた議長国オーストリア帝国を除いたドイツ統一が達成され、フランス第二帝政は崩壊した。

 

ドイツ諸邦もプロイセン側に立って参戦したため独仏戦争とも呼ぶ他、フランス側では1870年戦争と呼称する。

 

なお、日本の世界史の教科書ではプロイセン=フランス戦争と呼称する例もある。

 

 

メス攻囲戦は、普仏戦争における戦いの一つで、セダンの戦いを引き起こして戦争の趨勢を決定付けた。

 

グラヴェレットの戦いの後、バゼーヌ元帥率いるフランス第三軍団はさらなる攻撃を見越して要塞があるメスへ退いた。

 

兵力の不足が懸念されたため、マクマオン公爵のアルザス軍が救援として送られるが、9月1日にプロイセン軍主力部隊によって全軍が捕虜となってしまった。

 

 

フランス軍は救援を得ることができず、しかも戦意をほとんど喪失してしまう。

 

そのため、しばらくは持ちこたえたもののほとんど戦うことなく10月23日には降伏勧告を受け入れた。

 

メス攻囲戦とセダンの戦いでの損害を合わせると30万となり、戦争の勝利はほとんど不可能となった。

 

バゼーヌ元帥

 

 

バゼーヌ元帥のライン軍がグラヴロットで敗北し、メスへの退却を余儀なくされた。

 

プロイセン第1軍および第2軍の15万人はメス要塞を包囲した。

 

 

グラヴロットでの敗北後、バゼーヌ元帥がメスに籠城した事を受け、ナポレオン3世は、メスのバゼーヌ軍と分断される形で、シャロン入りし、アルザス方面から敗走したマクマオン軍や、南方の第7軍団も同地に集結した。

 

新たにシャロン軍としてマクマオンを指揮官としたが、仏軍の士気も装備も著しく悪い状況だった。

 

しかし、皇帝もマクマオンも、バゼーヌを見捨てることによるフランス世論への悪影響を考慮し、パリ防衛に注力することを躊躇した。

 

 

マクマオンは、北部のランスへ移動し、そこから南へ転進してプロイセン軍の左側面から攻撃する計画を立て、8月21日に実行に移した。

 

ところが、メスのバゼーヌは、ドイツ包囲網を西北方面に破りスダン(セダン)経由でシャロン軍と合流すると報告したため、マクマオンは東方への転進を決断した。

 

フランスの両軍は、ムーズ川付近まで進出した。

 

 

モルトケ元帥

 

モルトケ元帥が指揮するプロイセン軍は、フランス軍のこの動きに付け込み、フランス軍を挟撃する策に出た。

 

ここで第1・2軍を再編成し、フリードリヒ・カール王子麾下の17万5千の兵力をメス攻囲の主力とし、そこから3個軍団を割いて、ザクセンのアルベルト王太子の下にムーズ軍を編成した。

 

ムーズ軍はヴェルダンを経て、ナンシーに至り、プロイセン第3軍と連携してパリを目指した。

 

 

8月28日になって、ドイツはフランスの動向を知り、ムーズ軍及び第3軍を北方に進軍させた。

 

8月30日、独ムーズ軍及び第3軍は、フランス軍を捕捉した。

 

激しい戦いののち、ドイツ軍は兵5,000人と砲40門を失い、フランス軍はセダンに退却した。

 

9月1日、仏シャロン軍(202個歩兵大隊、80個騎兵大隊、砲564門)は、包囲しているプロイセン第3軍およびムーズ軍(222個歩兵大隊、186個騎兵大隊、砲774門)に攻撃を開始し、戦闘が始まった。

 

エマニュエル・フェリックス・ド・ウィンフェン将軍

 

 

予備として待機していたフランス軍第5軍団司令官エマニュエル・フェリックス・ド・ウィンフェン将軍はプロイセン11軍団に対して歩兵・騎兵共同攻撃を行いたいと考えた。

 

しかし11時までにはプロイセン砲兵がフランス軍に打撃を与えた一方、戦場には更に多くのプロイセン兵が到着した。

 

Marguerite将軍が率いるフランス軍騎兵は、プロイセン11軍団が集まっている近在のフロアン(Floing)村に対して3度にわたり決死攻撃を掛けた。

 

Marguerite将軍は最初の突撃のごく初めごろに戦死し、その後2回の突撃は大損害を受けただけで得るところはなかった。

 

 

その日の終わりになっても脱出できる望みはなく、ナポレオン3世は攻撃をやめさせた。フランス軍は戦死傷者1万7,000名を失い、2万1,000名が捕虜となった。

 

プロイセン軍は2,320名戦死、5,980名戦傷、700名が捕虜または行方不明と報告している。

 

翌日9月2日までに、ナポレオン3世は降伏し、10万4,000名の将兵と共に捕虜となった。

 

これはプロイセン側の圧倒的勝利であった。

 

 

プロイセン軍はシャロン軍全部を捕虜にしたばかりでなく、フランス皇帝までも捕虜にしたのである。

 

スダンでのフランス敗北は、この戦争におけるプロイセン有利を決定づけた。

 

フランス軍はバゼーヌ軍がメス市にて包囲されて動けなくなっており、それ以外にドイツの進撃を阻む軍隊はもはやフランスにはいなくなったのである。

 

その後、メスのバゼーヌ軍18万人は大した抵抗もできず10月27日に降伏した。

 

これはフランスにとって大きな痛手となった。にもかかわらず、戦争は更に3ヶ月も続いていくこととなる。

 

 

ドイツがフランスに対して短期間で勝利を収めたことに、他の国々は度肝を抜かれた。

 

多くの国がフランスの勝利を予測しており、殆どの国は少なくとも長期戦になるだろうと予測していた。

 

ドイツ側の有していた戦略的優位性は、戦争が終結するまでその真価がドイツ以外では認識されていなかったのである。

 

他の国々はドイツがその軍事制度によって優位に立ったことをすぐに認識し、ドイツの革新的な軍事制度、中でも特に参謀幕僚制、国民皆兵、そして高度に精緻化した動員システムなど多くを採用した。

 

 

モルトケが作り出したプロイセン参謀本部は、伝統的なフランス式軍制と比べて非常に有効であることが証明された。

 

これは主に、プロイセン参謀本部は以前のプロイセン軍の作戦を研究し、過去の失敗から学ぶために作られたためである。

 

また、広大な範囲に広がった大きな陣形を統御するモルトケの能力によって組織機構は大いに強化された。

 

 

参謀総長は事実上のプロイセン陸軍総司令官であり、国防大臣から独立し、国王の命令のみに服した。

 

フランスの参謀本部は、他の欧州諸国の軍と同様に、部隊指揮官の補佐役の集団より若干ましという程度のものであった。

 

こうした無秩序な状態は、フランス軍指揮官が自らの部隊を制御する能力を阻害していた。

 

また、戦時に師団や軍団を編成していたフランス軍では、高級士官達は自身が指揮する部隊やそれを支える幕僚のことが一切わからず、戦いながら把握していかなければならなかった。

 

それに加えて、プロイセンの軍事教育制度はフランス式よりも優れていた。

 

 

プロイセンの参謀将校は、自ら率先し、独立して考えるよう訓練されていた。それこそが正にモルトケの求める参謀であった。

 

一方、フランス軍では、教育制度と昇進制度において、知性の発達を窒息させるような欠点を持っていた。

 

軍事史家Dallas Irvineによれば、その制度は「陸軍の頭脳能力を参謀や高級将校から排除する上で、ほぼ完璧な有効性を持っていた。フランスの軍事政策における数々の弁解不能な欠陥は、すべてその制度の結果として生じたトップの思考力の欠如に帰する事が出来る。」

 

 

普仏戦争での出来事はその後の40年間の軍事思想に多大な影響を与えた。

 

この戦争から引き出された戦訓としては、参謀幕僚制の必要性、将来の戦争の規模や期間の見通し、砲兵や騎兵の戦術的使用などがあげられる。

 

国民皆兵制を採ったプロイセンが圧勝したことにより、他国も国民皆兵に追従することとなる。

 

日本やロシアも普仏戦争の結果を見て国民皆兵制を採用した。

 

プロイセン軍は、遠距離でまずフランス軍砲兵を沈黙させ、その上で近距離でも歩兵攻撃を直接支援するため、砲兵を積極的に使用した。

 

この用兵はフランス軍砲兵が採用していた防御的な用兵に比べて優れていたことが結果的に証明された。

 

 

プロイセン軍の戦術は(第一次世界大戦の勃発した)1914年までにはヨーロッパ各国の陸軍で採用された。

 

たとえばフランスのM1897 75mm野砲は前進する歩兵を直接火力支援するために最適化された大砲である。

 

1904〜1905年の日露戦争において、新しい無煙火薬を採用した小銃を装備した歩兵は砲兵に対して有効に戦えるという証拠があったが、多くのヨーロッパ諸国の陸軍はそれを無視していた。

 

小銃の射程距離が伸びたことにより、砲兵はより遠距離から間接射撃を行わざるをえず、隠れた地点から間接射撃を行うのが普通になっていった。

 

 

マルス・ラ・トゥールの戦いにおいて、フォン・ブレドウ将軍が指揮するプロイセン軍第12騎兵旅団は、フランス軍砲列に対して突撃を行った。

 

この攻撃は大損害を出しつつも成功したため、「フォン・ブレドウの決死の騎行」として知られるようになり、戦場で騎兵突撃がなお優勢であることを示す事例とされた。

 

しかし、第一次大戦の1914年の戦場では、伝統的な騎兵の使用は大損害を受けるだけであることが証明された。

 

これは、小銃・機関銃・大砲の射撃が正確になり、なおかつ射程距離も伸びたためである。

 

フォン・ブレドウの攻撃は、突撃の直前に非常に有効な味方の砲撃があり、なおかつ、地形のおかげで敵に気付かれずに接近できたために成功しただけであった。