【WarThunder映画】キスカ島撤退作戦 ~太平洋戦争の奇跡~
キスカ島の無血撤退作戦の動画。
アッツ島への救援が出来ない代わりにせめて隣の島キスカの将兵は撤退させたい。
そんな中で行われた霧に紛れて撤退作戦を敢行した。
本当に奇跡であり、しかも様々な偶然というより奇跡のような話が幾つもある。
キスカから撤退した将兵は終戦直後の占守島戦で戦うこととなるのは別の話である。
戦後、キスカ島から生還した将兵は、アッツの英霊の御加護があったから生きて還れたとして札幌護国神社境内に慰霊碑を建立した。
そんなキスカ島の話です。
キスカ島撤退作戦でのアメリカ軍の動き
アメリカ軍は1943年8月15日に予定したキスカ島上陸作戦に向けて着々と準備を進めており、戦艦「ミシシッピー」「アイダホ」を中心とした艦隊で海上封鎖及びキスカ島砲撃を行っていた。
7月23日、アメリカ軍のカタリナ飛行艇がアッツ島南西200海里の地点で7隻の船をレーダー捕捉し、艦隊司令長官トーマス・C・キンケイド中将は日本艦隊とみて直ちに迎撃作戦に移った。
しかし、当時、この海域には日本艦船は存在しておらず、これは全くの事実誤認であった。
トーマス・C・キンケイド中将
7月26日、濃霧の中「ミシシッピー」のレーダーが15海里の地点にエコーを捕捉。艦隊各艦からも同様の報告を得たキンケイドは直ちにレーダー射撃を開始させ、約40分後に反応は消失。
しかし、不思議なことに重巡「サンフランシスコ」のレーダーにはこの戦いの最初から最後まで全く反応がなかった。
これは現在ではレーダーの虚像による誤反応を日本艦隊と見間違えたという説が一般的であり、勿論日本軍にも全く損害は出ておらず、一方的にアメリカ軍が無駄弾をばら撒いただけであった。
この際米軍が消費した砲弾は36センチ砲弾118発、20センチ砲弾487発に上ると言われている。
なお、この攻撃の際に米艦隊が砲撃データとして発信していた電文は全て日本艦隊に傍受されており、これが平文だったために「米軍は同士討ちをやっている」と日本軍は思ったという。
日本軍の士気を下げるために米軍機により投下された伝単
7月28日(ケ号作戦実行日)、敵艦隊を撃滅したと確信したキンケイドは弾薬補給のため一時、艦隊を後退させる。
この時、キンケイドはキスカ島に張り付けてあった哨戒用の駆逐艦まで率いて後退してしまった。
7月29日、周辺海域からアメリカ艦隊がいなくなっているとは知らずに、日本艦隊は突入し撤退を完了した形になる。
7月30日、日本軍守備隊が撤退したとは知らず、補給が終わったアメリカ軍は封鎖を再開した。
艦砲射撃と空襲により攻撃再開したアメリカ軍は、キスカ島を飛んできたパイロットより「航空部隊への対空砲撃、通信所の移転、小兵力移動」との報告を受け、更なる空襲を実施した。
しかしこれら報告は、のちに「対空砲撃は空襲による煙幕を誤認、通信所は視界錯覚、小兵力はキツネ」であったと判明した。
8月15日、アメリカ軍は艦艇100隻余りを動員、兵力約34,000名をもってキスカ島に上陸する。
艦隊による十分な艦砲射撃を行った後で濃霧の中一斉に上陸を開始したアメリカ軍は、最早、存在しない日本軍兵士との戦闘に備えて極度に緊張した状態で進軍した為、各所で同士討ちが発生。
死者約100名、負傷者数十名を出してキスカ島攻略を完了した。
上陸したアメリカ軍の見たものは、遺棄された数少ない軍需品と数匹の犬だけだった。
ドナルド・キーン
また日本軍は軍医の悪戯で『ペスト患者収容所』と書かれた立て看板を兵舎前に残して行った。
通訳官として従軍していたドナルド・キーンがこれを翻訳すると上陸部隊は一時パニック状態に陥り、緊急に本国に大量のペスト用ワクチンを発注した。
また、感染を疑われたキーンは検査のため後方に送られそのまま終戦を迎えた(自伝小説『私と20世紀のクロニクル』にもこのエピソードが登場する)。
アメリカの戦史家サミュエル・エリオット・モリソンは『アメリカ海軍作戦史』で「史上最大の最も実戦的な上陸演習であった」と皮肉っている。
この作戦は、玉砕を強いて無慈悲に兵を見捨てる軍上層部が、例外的に救援を優先したかのように取り上げられる事が多い。
たとえば、同時期より少し以前に行われたガダルカナル撤収作戦(作戦名は同じくケ号作戦であるが「捲土重来」のケ)等に関しても海軍は非常に消極的であった。
実際、この作戦自体が5月20日の大本営におけるアリューシャン方面の対策会議(この会議でアリューシャン方面の放棄が決定)で、陸軍が求めていたアッツ島の救援を断念する代わりに海軍はキスカ島だけは何としても救援する、という陸海軍間での妥協の産物であり、この取引がなければキスカ島も見捨てられていた可能性が高い。
ただニューギニア方面での艦船損失が激しくなる中において、北方方面でのアメリカ軍の侵攻を防ごうとすれば、確実にガダルカナルで見られた激しい消耗戦になっていた可能性が高い。
兵力の余裕が段々と薄らいでいた時期にもあって、非常に厳しい判断状況に置かれていた。
結果としては成功に終わった作戦だったが、北方艦隊が戦力に余裕をもっていたからこそ可能であった作戦でもあった。
木村 昌福少将
救出艦隊の指揮を執った木村少将の戦術指揮には高い評価が与えられている。
特に1度目の出撃で天候に利が無いと見て、各艦長の突入要請を蹴って反転帰投を決断したことが焦点となる。
当時の海軍の状況は切迫しており、戦力として貴重な艦艇を無駄に動かす結果になることや、欠乏していた燃料を浪費してしまうこと、またそれによる上層部や各所からの批判なども当然予想されることであった。
木村 昌福少将はキスカ島撤退作戦で、隠密作戦に都合の良い濃霧が発生している天候を待ち続け、作戦を強行する事はしなかった。
1回目の出撃では突入を目前に霧が晴れた為断念、強行突入を主張する部下たちに「帰ろう、(無事に)帰ればまた来られるから」と諭して途中で撤退し、状況をよく判断した指揮を行った。
痺れを切らした軍令部や連合艦隊司令部からの催促や弱腰との非難にも意に介さず、旗艦で釣りをしたり、司令室で参謀と碁を打つなどして平気な顔をしていたという逸話がある。
また、百神の加護を願う漢詩を詠んでいる。
上層部の批判に心動かされること無く慎重に慎重を重ねた指揮を行い、アメリカ軍に作戦を悟られず、味方に全く犠牲を出さずにキスカ島の守備隊5,200人を短時間で救出する。
この作戦成功により昭和天皇に拝謁する栄誉を受けた。
海軍が解体される直前に、帝国海軍最後となる中将に昇進。
これは海軍大臣米内光政の推薦であったとされる。
太平洋戦争中の数々の武勲や戦歴についても寡黙であり、1957年に元海軍中佐で戦史家の千早正隆が木村らに取材してキスカ撤退作戦の経緯を雑誌に発表するまでは、家族すら木村の事績を知らなかったという。
樋口季一郎
また、近年の研究で木村少将が総合的な判断から収容時間が1時間が限界で、兵士収容作戦を迅速に完了させるべく、陸軍側に全ての兵器の海中投棄を求めた際、アッツ・キスカ方面の陸軍北部軍司令官を務めていた樋口季一郎が大本営並びに陸軍省上層部に決裁を仰がず独断を以て承認した。
キスカ撤収作戦後、この一件を知った陸軍上層部から海軍に対する抗議がなされることになったが、樋口は欧州に大使付き駐在武官として赴任していた経験から、人命第一だと抗弁していたことが判っており、木村、樋口というふたりの陸海軍現地司令官の決断力も作戦遂行に際して重要な鍵を持つこととなった。
また、活発化しつつある米軍の動きから、反転してしまえば二度と撤退のチャンスがなくなる恐れも充分に考えられた。
それでも、作戦成功の可能性が無いと見て反転するという一貫性のある決断力は評価されている。
実際、このとき突入を強行していれば、米軍に捕捉・撃滅されていたであろうことは、当時の米軍の展開状況から見ても容易に推察できる。
結果として二度目の出撃で、たまたま米軍が島の包囲を解いた隙を突くことになる。
日本に都合のよい偶然が重なったことも事実であるが、木村少将の、霧に身を隠して一気に救出するという一貫した戦術指揮も大きく作用したのである。
戦後この作戦に参加した将兵やキスカ島から撤退した将兵たちは「この作戦の成功はアッツ島の英霊の加護があったと思った」、「(生還出来たのは)天佑神助としか思えなかった」等と述べている。
この作戦が成功したのは、偶然とはいえ、作戦遂行中に日本軍に都合の良い状況がいくつも展開され、日本軍側の判断がその状況を上手く利用できたからと言えるだろう。
こういったことも、この作戦が「奇跡の作戦」と言われる所以である。
ただ、純粋に戦術的な問題はさておき、根元としては、敵に降伏して捕虜になる事を認めないという、当時の日本軍の体質に問題があった事は否めない。
敵に降伏する事を認めれば、そもそも成功の可能性の低い救出作戦を行う事、それ自体が不要になるからである。
キスカ島から撤退した多くの将兵はその後、終戦直後に占守島でソ連軍と戦い生き残った者はシベリアへと抑留された。