バルバロッサ作戦発動 | 戦車のブログ

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1941年6月22日、第二次世界大戦の独ソ戦でドイツ軍のソビエト連邦への侵攻作戦であるバルバロッサ作戦が開始した日。

 

バルバロッサ作戦は、第二次世界大戦中の1941年6月22日に開始された、ドイツ国によるソビエト連邦奇襲攻撃作戦の秘匿名称である。

 

今日では独ソ戦序盤の戦闘の総称とされる場合もある。

 

バルバロッサ作戦の第一段階まで紹介する。

 

 

作戦名は神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世のあだ名「Barbarossa」(「赤ひげ」、イタリア語のbarba「あごひげ」+rossa「赤い」 )に由来する。

 

フリードリヒ1世は伝説的な人物で、民間伝承によると現在も眠り続けており、ドイツに危機が訪れた時に再び目覚めて帝国に繁栄と平和をもたらすとされた。

 

それにあやかっての命名、また第3回十字軍総司令官として戦果を残し、ボヘミア王国とハンガリー王国に神聖ローマ帝国の影響を拡大した実績から、対ソ戦にふさわしいと判断されたと考えられている。

 

 

ドイツ陸軍はポーランド侵攻の「白作戦」、フランス侵攻の「黄作戦」「赤作戦」など、攻勢作戦名に色名を付ける伝統があり、それの発展形とも考えられる。

 

バルバロッサ作戦が頓挫した影響か、翌年の攻勢作戦はまた「青作戦」と純粋な色名に戻された。

 

 

アドルフ・ヒトラーは自著『我が闘争』の中で、膨張するドイツ民族はより広い生存圏(レーベンスラウム)を必要としており、それを東方に求めることを明らかにしていた。

 

ヒトラーはスラブ人を劣等人種と見なしており、スラブ人が住む東ヨーロッパの広大な土地から彼らを放逐して、そこにドイツ人の植民地を設けることを企図していた。

 

1939年、ドイツはポーランド侵攻の直前にソ連と独ソ不可侵条約を締結。

 

互いを敵視していたはずの独ソの条約締結は世界を驚かせた。

 

しかし、ヒトラーにとってこの条約は一時的な保険に過ぎなかった。

 

ヒトラーはフランス侵攻を成功させると、軍に対してソ連への攻撃を命令した。

 

 

1940年、ドイツ軍は西方でフランスを瓦解させたが、バトル・オブ・ブリテンには敗北し、イギリスを屈服させることはできなかった。

 

ドイツ軍首脳部はイギリスを背面にしてソ連を攻撃する二正面作戦に懸念を表明したが、ヒトラーは側近の助言をしりぞけ、「土台の腐った納屋は入り口を一蹴りするだけで倒壊する」と豪語した。

 

ヒトラーはポーランドとフランスでの成功経験や、赤軍は冬戦争において自軍よりはるかに弱小なはずのフィンランド国防軍相手に3か月以上の時間と多大な犠牲を払ってようやく勝利したという事実から、ソ連との戦いにも容易に勝利できると確信していた。

 

また、赤軍に対する迅速な勝利がイギリスとの和平を促進すると期待していた。

 

 

ドイツ軍はソ連国境に3個軍集団300万の兵力を集結させた。

 

ヒトラーとドイツ軍指導部は、攻撃・占拠目標としてソ連の特定の地方および大都市を割り当てた。

 

北方軍集団は、バルト海沿岸に沿い旧バルト三国を経由して北ロシアへ侵入し、レーニングラード(現サンクトペテルブルク)の占領もしくは破壊を目標とした。中央軍集団は、現在のベラルーシを通りロシアの中西部を進軍し、モスクワへの直接攻撃が目標となった。

 

南方軍集団はソ連最大の穀倉地帯であり、一大工業地帯でもある人口密度の高いウクライナ地域を攻撃、キエフを攻略し、南ロシアの草原を抜け東方のヴォルガ川まで進軍するように計画を整えた。

 

 

ソ連は、主要軍備の保有量と工業生産力においてドイツを上回っていた。

 

ソ連の工業生産は資本主義国が世界大恐慌で苦しんでいた1930年代に急速に発展し、米国に次いでいた。

 

重点は重工業、特に軍需産業に置かれていた。

 

戦車も航空機も最新鋭のものはドイツの兵器に匹敵、もしくはそれを凌駕する性能を誇った。

 

特に中戦車・重戦車はそれに類するものを持たないドイツ戦車を圧倒した。

 

しかしながら、最新鋭の装備は全体からすると比率は低く、特に航空機は枢軸軍の兵器と比較するとはるかに時代遅れになっていた。

 

 

ヨシフ・スターリンは、1930年代後半に党や軍における反対派の大粛清を強行しており、経験豊富で有能な陸軍指導部を含む何百万もの人々を処刑していたため、軍は弱体化し、指揮官不足さえ引き起こしていた。

 

また、ドイツ軍がフランスを電撃戦で破った後も、赤軍はドイツ軍の進軍速度を侮っていた。

 

赤軍は、前衛がドイツ軍を国境沿いの要塞線で阻止している間に主力が後方に集結し、やがて前進して反撃するという展開を想定していた。

 

しかし、1939年までの国境線に構築された要塞であるスターリン・ラインは、同年にソ連がポーランドの東半分を併合すると廃棄された。

 

新しい国境沿いの要塞は構築中で、途切れ途切れの点として存在しているに過ぎなかった。

 

新要塞線の構築完了までソ連側の防備は脆弱であったが、国境付近に兵力を張り付ける配備に変更はなかった。

 

また、精鋭部隊の多くはウクライナに置かれ、工業生産の中心はドイツ国境に近いヨーロッパ・ロシアやウクライナに集中していた。

 

 

スターリンは独ソ不可侵条約の有効性を信じ、ドイツの攻撃意図を看過ごした。

 

条約締結までソ連ではファシズムの脅威が宣伝され、国内の粛清の口実になっていたが、条約締結後は一転して反ドイツ的論調が抑圧された。

 

ソ連情報部がドイツ軍の国境集結を報じ、ドイツ軍がソ連領に対して数多くの航空偵察を行ったにもかかわらず、ソ連政府も軍も目立った行動を起さず、前線部隊への警告も行われなかった。

 

ハンス・フォン・グライフェンベルク大佐

 

 

1940年7月3日フランツ・ハルダー参謀総長は参謀本部作戦部長ハンス・フォン・グライフェンベルク大佐にソ連攻撃計画の予備研究を命じた。

 

その後もドイツ軍の各チームが作戦計画を研究し8月5日にドイツ第18軍参謀長エーリヒ・マルクス少将が「東方作戦の草案」を参謀本部に提出した(マルクス案)。

 

マルクス案ではスモレンスク - モスクワ間とキエフを攻勢軸とし首都モスクワの奪取が「ソ連邦の経済的・政治的・精神的中核であるがゆえに、国家としての統合機能・調整機能を喪失させる」と結論付けられた。

 

グライフェンベルク大佐と参謀本部次長パウルス中将協力のもと参謀本部のハルダ―も陸軍総司令部案(オットー)を立案した。

 

陸軍総司令部案(オットー)では特定地域や特定都市の占領は重視されず、赤軍野戦部隊の殲滅に重点が置かれた。ミンスク、スモレンスク、モスクワなどソ連の主要都市は敵兵力を誘引するための囮として位置付けられた。

 

1940年12月5日ハルダ―は「オットー」を陸軍総司令部案としてヒトラーに提出し、ヒトラーは計画に合意を与え訓令起案をヨードルに命じた。

 

ドイツ軍最高司令部のベルンハルト・フォン・ロスベルク中佐が立案した「フリッツ」とウクライナとレニングラードの奪取を優先したいヒトラーの意向を考慮し最終計画案をヒトラーに提出、ヒトラーは12月18日に総統訓令第21号「バルバロッサの場合」を発令した。

 

 

北欧の鉱物資源に依存しているドイツにとって運搬路であるバルト海は生命線であり、レニングラードを電撃的に占領しソ連バルト艦隊を無力化する必要があった。

 

また農産物と鉱物資源の宝庫であるウクライナは「東方生存圏」構想実現のためには欠かせない地域だった。

 

経済的理由からヒトラーはレニングラードとウクライナの奪取にこだわり、ヒトラーの意向を重視した陸軍総司令部はレニングラードとウクライナを第1目標に位置付けた。

 

しかし各目標の優先度は曖昧なままだった。

 

 

 

中央軍集団は白ロシアの赤軍殲滅後モスクワに進撃すべきなのか、それともウクライナやレニングラードにむかうべきなのか作戦案では明らかにされなかった。

 

中央軍集団司令官ボック元帥と第3装甲軍集団司令官ホト上級大将は明確な回答を求めたが、参謀総長ハルダ―は回答をはぐらかした。

 

戦略目標の不明瞭さは開戦まで解消されることはなく、ドイツ軍はモスクワを目前に控えて見解が割れることになる。

 

作戦目標だけでなく戦争目標も不明瞭だった。

 

1940年7月には戦争目標はロシアの生命力を断つことだと明記されたが、12月にソ連邦を屈服させることに変更された。

 

開戦後の1941年8月にはイギリスの同盟国であるロシアの無力化に変更され、戦争目標がソビエト体制の打倒なのかロシアという国家を消滅させることなのかはっきりしなかった。

 

 

1941年6月22日(奇しくもナポレオンのロシア侵入は6月24日に始まり、ほぼ同じ時期である)にドイツ軍は攻撃を開始した。

 

作戦には合計300万人の兵員が動員され、それまでの歴史で最大の陸上作戦だった。

 

赤軍は何の対策もしておらず、一方的な奇襲を受けることになった。

 

2個装甲集団が配備され最強の戦力を持つ中央軍集団は、ミンスク、スモレンスクなどでソ連の大軍を包囲撃破してモスクワ目指して進撃を続けていた。

 

しかしヒトラーは、南方軍集団のウクライナ攻撃を支援するために中央軍集団から第二装甲集団を引き抜き、南方へ進撃してキエフを守る赤軍を背後から包囲するよう命じた。

 

それは開戦後ウーマニ包囲戦などの限定的な成功はあったものの、赤軍が主力を配置していたため苦戦を強いられていた南方軍集団にキエフで赤軍主力を包囲撃破する機会を与えたが、この動きはモスクワに対する攻撃を遅らせた(ドイツ軍がモスクワをその攻撃の視野に入れ始めたとき、秋の雨季による泥濘と、続く冬の寒さがその進軍を停止させた)。

 

ただし、陸軍総司令部などが考えていたモスクワ直進作戦を行った場合、補給が追いついていなかったこと、さらにソビエト連邦の大都市や資源が存在する南方での進撃が史実よりも困難になることから、南方への転進は正当な判断ではないかともいわれている。

 

10月中旬に南方軍集団はキエフを占領し、650,000人を超える捕虜を連行した。

 

その多くはナチの強制収容所で死んだ。キエフはその防衛戦闘により、のちソ連政府から英雄都市の称号を与えられた。

 

 

祖国を防衛するための大祖国戦争を宣言したソ連による抵抗は、ドイツ側が予想したよりはるかに激しかった。

 

ベラルーシ、ブレストの国境要塞での戦いはその一例である。

 

ドイツ侵入の初日、要塞は数時間以内に占領できると計画された。

 

しかし実際には、ソ連の守備隊は包囲された要塞で一か月間戦い続けた。

 

同時に主要な正面戦線においては、多くのソビエト徴集兵の自殺行為にも似た突攻が行われた。

 

補給線が伸びてパルチザンの攻撃に脆弱になったので、ドイツの兵站補給はさらに問題になった。

 

赤軍は、ドイツ軍に占領地の食物、燃料および建造物の使用を行わせないために、放棄せざるを得なかったすべての土地で焦土戦術を実行した。

 

ソビエトからの独立志向があったウクライナ地方においては、ウクライナ人をドイツ軍に協力させる案があったが、苛烈な占領政策によって結局のところ敵に回してしまっている。

 

 

 

赤軍のKV-1重戦車とT-34中戦車は、ドイツのいかなる戦車よりも強力であり、戦車戦術のエキスパートと自他共に認めていたドイツ軍に大きな衝撃を与えた。

 

この対策として、ドイツ軍は急いで新型戦車(ティーガーI及びパンター)の配備と、既存戦車の改良を進めることになる。

 

 

バルト海地域とレニングラードの占領が目的だった北方軍集団は1941年8月までにレニングラードの南部周辺へ進軍したが、猛烈な赤軍の抵抗に阻まれた。

 

 

ドイツ軍は装甲部隊がレニングラードで市街戦に巻き込まれることを恐れ、第四装甲集団をモスクワ攻撃のため中央軍集団に転属させ、レニングラードでは包囲と封鎖によって補給を絶つことを決定した。

 

しかし1944年前半のドイツ軍の撤退までレニングラードは持ちこたえた。

 

レニングラードは英雄都市の称号を受け取った最初のソ連の都市となった。

 

 

キエフ攻略後、第二装甲軍(装甲集団から改称)は中央軍集団に復帰し、最後にして最大の目標であるモスクワ攻略のタイフーン作戦が開始された。

 

ヴャジマ、ブリャンスクの二重包囲戦で赤軍は再び50万の兵を失った。

 

しかし、その後秋の長雨が到来し、路面は泥濘と化してドイツ軍の前進は停止し、その間に赤軍はモスクワ前面の防衛体制を再構築した。寒気の到来と共に地面が凍って再びドイツ軍は前進を開始したが、寒さが厳しくなるにつれてドイツ軍の前進速度は鈍り、温存していた砲兵予備を投入した赤軍の抵抗もあって、12月初旬についに停止した。

 

また制空権を失ったことにより装甲部隊は航空支援を欠いた状態での前進を余儀なくされ、ソ連砲兵によって次々と撃破された。

 

満足な冬季戦用の装備もなく、補給も不十分なままに各戦線で停止したドイツ軍に対して赤軍の冬季反抗が開始され、反撃の大部分は、モスクワに接近していた中央軍集団に向けられた。

 

モスクワはその後英雄都市の称号を受け取った。

 

 

 

開戦の一日前である6月21日、赤軍の兵士や将校たちは、非番の日曜日をくつろいでいた。

 

西部特別軍管区司令官ドミトリー・パヴロフ上級大将は、ミンスクの将校クラブで演劇を楽しんでいた。

 

クラブは満席で、喜劇「マリノフカの婚礼」を上演中だった。

 

そこへ情報官のブローヒン大佐が訪れ、国境地帯のドイツ軍が準備中だと告げた。

 

パヴロフは、「それはあり得ない」と言うと、舞台を指差し、観劇の邪魔をするなと促した。

 

午後9時、アルフレッド・リスコウというドイツ軍工兵が、国境を越え、赤軍に駆け込んだ。

 

彼はドイツ軍の攻撃は明日にも始まり、砲撃準備中だと告げた。

 

この手の脱走兵は全戦線で相次ぎ、モスクワの指導部も把握していたが、国境部隊に警戒の命令が下ることはなかった。

 

GRU、NKVDなど国内のあらゆる諜報機関が、何週間も前から警告していたが、全て黙殺された。

 

午前1時に観劇が終わると、パヴロフは司令部に呼ばれ、国防人民委員セミョーン・チモシェンコ元帥からの電話を受けた。

 

パヴロフはドイツ軍の機甲部隊が集結中だと報告し、チモシェンコは慌てず落ち着いて対応するように促した。

 

パヴロフは幕僚達を集めて、傘下の部隊の状況を確認した。

 

 

演習中で配置から外れた部隊もいれば、武器弾薬が足りない部隊もあり、定数が割れてる部隊も多かった。

 

午前3時、再びチモシェンコからの電話がかかり、パヴロフは異常なしと答えたが、すでにドイツ軍の総攻撃は始まっていた。

 

1941年6月22日午前3時、ドイツ軍はバルト海~黒海におよぶ3000kmの戦線で攻勢を開始した。

 

司令部、港湾、集積地、鉄道、航空基地など主要な軍事施設への爆撃が開始され、初日の奇襲で赤色空軍は飛び立つ間もなく1200機を失う壊滅的な打撃を受けた。

 

西部軍管区だけで、528機が破壊された。

 

しかし劣勢にも関わらず赤色空軍は奮戦、指揮系統が混乱する中、初日に6000回以上出撃し、ドイツ軍の航空機200機以上を撃墜している。

 

ヴャリストク、ブレスト、キエフ、グロドノ、ロヴノ、タリン、リガなど主要都市が次々と空爆された。

 

 

ドイツ軍侵攻の報告は次々とモスクワに届いた。

 

黒海艦隊司令部、西部軍管区司令部、キエフ軍管区司令部、沿バルト軍管区司令部からドイツ軍の航空機が空爆を開始したとの報告が届き、国防人民委員チモシェンコや参謀総長ジューコフが対応に追われた。

 

 午前4時ジューコフはスターリンに前線の状況を報告し、各軍区にドイツ軍侵攻の事実が伝達された。

 

スターリンは最高軍事会議を開き、国防人民委員部が午前7時15分に二つの指令を作成した。

 

 

 

1侵入した敵軍はソ連領内で迎撃・殲滅し、ドイツへの越境攻撃は禁止する

 

2航空機の偵察により敵空軍と敵地上軍の位置を把握し、爆撃を開始する

 

すでにドイツ軍の攻撃により、赤軍の地上部隊は撃破されつつあり、この時点でスターリンも参謀本部も前線の実状を把握していなかった。

 

西部国境の各軍管区では部隊間の通信網がドイツ軍の破壊工作で切断されており、軍管区参謀部と部隊との間には迅速に指令を伝える方法はなかったのである。

 

 

各部隊は孤立したままドイツ軍との戦闘に突入し、モスクワの参謀本部も情報不足で新たな命令すらだせない状況だった。

 

午前8時頃になると前線の状況が参謀本部に届きはじめ、航空戦力の壊滅が伝わった。

 

中央アジア、極東、ザバイカルを除く全ての軍管区で予備役の動員が開始され、ヨーロッパロシアでは戒厳令が実施された。

 

国家の全機能は軍隊に移り戦争に備えた産業計画が立案され、工場群の疎開が開始された。

 

西部の軍管区戦力を基幹に北西・西部・南西の3正面軍が設立され、6月23日には戦争指導の最高司令部であるスタフカが設立された。

 

アメリカ政府とイギリス政府は6月23日にソ連への全面的な支援を表明。

 

一方ドイツ政府は東部での戦争は共産主義の脅威から欧州文明を守る聖戦だと宣伝した。

 

 

 

国境線での戦いはドイツ軍の圧倒的勝利に終わった。

 

赤軍は全戦線で制空権を失い、虎の子の機械化戦力も含め地上部隊は大きな被害を受けた。

 

7月3日ドイツ軍参謀総長のフランツ・ハルダーは日記に、ロシアとの戦争は2週間で決着したと記している。

 

ヒトラーも戦勝を盛んに宣伝し、ロシア人は立ち直れない打撃を受けたと豪語した。

 

開戦後三週間でドイツ軍はバルト、白ロシア、ウクライナの過半を占領し、500Km進撃した。赤軍の被害は甚大であり、7月30日までに兵士65万人、航空機3468機、砲12000門、物資集積所200箇所を喪失した。

 

軍需物資を前線に集中していた影響で国内に蓄えられた物資のうち52%が失われ、前線の将兵は弾薬や燃料の欠乏に苦しむことになる。

 

 

一方でドイツ軍の被害も甚大だった。

 

7月中旬までに兵士10万人、航空機1000機、戦車1500両を失い、わずか3週間で過去2年全ての戦争の被害に匹敵するダメージを受けた。

 

侵攻の主力である機甲部隊も車両の損失や故障が相次ぎ稼働率は大幅に低下。

 

7月中旬の時点で第2装甲軍の稼働率は29%に、第3装甲軍の稼働率は42%に低下していた。

 

第3装甲軍司令官ヘルマン・ホトは「ロシア人は強力な巨人だ。戦力の消耗は得られた成果より大きい」と嘆いている。

 

 

 

バルバロッサ作戦は人類史上最大の軍事作戦であった。東部戦線は第二次世界大戦最大の犠牲者を出し、戦場となったソビエトでは1700の都市と7万の村が完全に破壊された。

 

バルバロッサ作戦の失敗により欧州で覇権的地位を占めていたドイツは没落、欧州は東西に分断されることになる。

 

ドイツと関係の深かった東欧諸国はソ連の手に落ち、ソビエトはドイツに変わって東欧・南欧での覇権国家へと変貌する。

 

また最大の犠牲者を出してナチスの軍事機構を粉砕したソビエトは戦後の国際秩序で主導権を掌握、アメリカと世界を二分する超大国へ成長をとげた。