航空自衛隊・支援戦闘機F1 /Japan Air Self Defense Force Mits | 戦車のブログ

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支援戦闘機F1。

 

私は航空自衛隊との共同訓練でこの支援戦闘機F1に攻撃を受けたことがある。

 

当時、装填手として戦車の乗り上空を警戒していた。

 

戦闘機の場合、音が聞こえて発見した場合はもう攻撃後で遅い。

 

なので音がする前に発見しなければならないのだ、それは青い空をひたすら睨みつけて警戒するしかない。

 

視力には自信のあった私は豆粒のような戦闘機を発見し「敵機直上この方向」と車長に方向を示した。

 

キャリバー50を構えて待機していた車長はドドドドと重機関銃の空包を空に向けて射撃した。

 

豆粒がこっちに向けて突っ込んでくる、実弾でも当たらないな・・・・そう思ったのを覚えている。

 

そして・・・・戦闘機からの無線で・・・これ以上はアメンバー限定でいつか書きます。

 

 

 

 

F-1(エフワン/エフいち)は、日本の三菱重工業が開発した第3世代ジェット戦闘機。

 

同社のT-2高等練習機の発展型であり、航空自衛隊で支援戦闘機(戦闘爆撃機)として運用された。

 

量産1号機の初飛行は1977年(昭和52年)で、同年より部隊配備を開始した。

 

その後、後継機であるF-2の配備が進み、2006年(平成18年)3月9日に全機が退役した。

 

 

三菱重工業が製造したT-2高等練習機を発展させた第3世代ジェット戦闘機であり、第二次世界大戦終結後に日本が初めて独自開発した戦闘機でもあった。

 

航空自衛隊では支援戦闘機としているが、その性能や運用目的から、攻撃機ないし戦闘爆撃機と分類される場合もある。

 

また日本という四方を海に囲まれた島国の防衛のため、初期段階から空対艦ミサイルとの組み合わせによる対艦攻撃が想定され、国産の80式空対艦誘導弾(ASM-1)の搭載能力を有していた。

 

 

T-2をもとにした試作機である特別仕様機(FS-T2改)が1975年6月3日、量産型1号機が1977年6月16日にそれぞれ初飛行を行った。

 

総計77機が製造され、三沢基地の第3飛行隊と第8飛行隊、築城基地の第6飛行隊に配備された。

 

空対艦ミサイルによる対艦攻撃や高精度の爆撃による対地支援では期待されていた一方、機動性の低さから、要撃任務など空中戦闘機動での不安も抱えていた。

 

後継となるF-2の開発遅延もあって長く現役にとどまったが、2006年(平成18年)に築城基地の第6飛行隊に配備されていた最後の機体が退役し、運用を終了した。

 

 

1971年12月15日にXT-2一号機が納入され、開発が一段落すると、T-2を元に支援戦闘機の試作機に改造する設計作業が開始された。

 

この支援戦闘機型はFS-T2改と呼称されており、1972年6月に航空幕僚長から要求性能が上申され、7月24日の装備審議会で基本要目を決定、10月9日の国防会議で装備方針が正式に決定された。

 

なお、T-2の開発にあたっては、もともとアメリカ製のT-38を採用する予定であったものを、技術研究本部の守屋富次郎本部長の運動もあって、松野防衛庁長官の指示により、航空自衛隊の反対を排して国産開発に変更されたという経緯があったが、その後も、F-1の量産決定に至るまで、国産機ではなくT-38/F-5を採用するべきであるという圧力を受け続けた。

 

 

 

 

1972年10月の第4次防衛力整備計画決定直前の国防会議議員懇談会でも、F-5Eへの変更を主張する意見が出た。

 

これに対し、政府側は、既に購入が開始されているT-2練習機との相互運用性や日本の国土への適合性に優れ、またレーダーや爆撃照準装置を備えており性能面でも優れることを説明して理解を得た。

 

その後、F-4EJで削除された爆撃照準機能を本機が備えていることが問題視されたが、こちらは航続距離の短さのために周辺諸国への脅威とはならないことを説明して理解を得た。

 

 

1973年3月末、三菱重工業にシステム設計、三菱電機に火器管制装置(FCS)が発注されて、年度明け早々から作業が始まった。

 

設計にあたっては、極力、T-2との共通化が配慮されており、モックアップはコクピットや外部搭載物周りの最小限に留めて、1973年5月には細部設計に入った。

 

同年3月に契約されたT-2の第1次契約のうち、T-2量産2号機(#106)および3号機(#107)はFS-T2の飛行試験用テストベッド機とされており、このシステム設計で作成された図面による特別仕様機として製作された。

 

1975年6月3日に107号機、6月7日には106号機が初飛行して、1975年7月末より航空実験団による飛行試験が開始された。

 

1976年3月までに213ソーティのフライトが実施され、その成果は「FS-T2改技術的試験・実用試験報告書」としてまとめられた。

 

装備審議会を経て、1976年11月12日に防衛庁長官の部隊使用承認が下され、名称も「F-1」と改められた。

 

 

第4次防衛力整備計画(4次防)の原案では4個飛行隊126機を予定していたが、1972年8月の修正で3個飛行隊分96機に圧縮され、更に最終段階で1個飛行隊分は次期防に持ち越しとされたため、1972年10月の閣議決定では68機の購入となった。

 

また当初は昭和48年度でのスタートを予定していた量産第1次計画は、オイルショックを受けた自主削減で先送りとなり、やっと昭和50年度より着手された。

 

量産1号機 (#70-8201) は1977年(昭和52年)2月25日にロールアウト、6月16日に初飛行し、9月16日に納入され、三沢基地の第3飛行隊に配備された。

 

1979年3月30日からはアラート任務を開始し、4月4日には初のスクランブルを実施している。

 

続いて1979年6月から1980年2月にかけて第8飛行隊、1980年3月から1981年2月にかけて築城基地の第6飛行隊が機種転換を完了したが、4個目の飛行隊は財務当局の反対で実現しなかった。

 

昭和54年度以降も予備機の生産が継続されたのち、1987年(昭和62年)3月9日に最終77号機が納入され、生産が終了した。

 

 

最初期計画では平成2年度より最初の飛行隊の更新が必要と見積もられていたが、これでは次期支援戦闘機 (FS-X) の国産化に間に合わないことから、再検討が実施された。この結果、強度再検討による疲労耐用時間の延長と、オイルショックによる年間飛行時間の短縮の影響により、更新は平成9年度からでよいことになり、FS-X国産開発のための時間が得られることになった。

 

これによって開発されたのがF-2であり、1995年10月7日に試作1号機が初飛行した。

 

しかしF-2の開発難航によって部隊配備は2年以上遅延しており、本機の老朽化に伴って機材のやりくりがつかなくなっていったため、F-1飛行隊のうち第8飛行隊には代替機としてF-4EJ改が割り当てられることになり、1997年3月に機種改変した。

 

その後、2000年9月よりF-2量産機の引き渡しが開始され、逐次納入されていった。

 

2001年3月14日には第3飛行隊のF-1がラストフライトを実施、第6飛行隊にも2004年8月よりF-2の配備が開始され、2005年10月頃にはF-1よりもF-2のほうが多くなった。

 

そして2006年3月9日、6機によるラストフライトが行われたが、このとき編隊の先頭を務めた飛行隊長髙部2佐は、この飛行によって、F-1単一機種としては最大の3,733飛行時間を達成した。

 

そして3月18日にF-1任務完了式が行われた。