船が七分に、海が三分! | 戦車のブログ

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「米艦艇のため海の色が見えない」


「船が七分に、海が三分! 船が七分に海が三分だ! 」

 

 

映画「沖縄決戦」の岡本喜八監督作品の中の一シーンである。

 

日本陸軍第32軍高級参謀八原大佐の視点から描いた映画であった。

 

その映画の中に戦上手の賀谷興吉中佐(戦死後少将)の奮戦が描かれている。

 

賀谷支隊長役の高橋悦史

 

賀谷支隊長が昭和二十年四月一日に沖縄に米軍が上陸した時に軍司令部とのやりとりが「船が七分に、海が三分!」である。

 

第32軍の大方針はとにかく「戦略持久」であった。

 

米軍の上陸に対し、日本軍の目立った抵抗や発砲はなく、無血上陸であった。

 

イースター(復活祭)の朝、攻撃開始時刻に海岸から進軍する海兵隊の第1陣。

 

反撃がないのはエイプリルフールだからなのか、出来過ぎた話だ、と海兵隊員が語っていた。

 

従軍記者のアーニー・パイルは上陸の際の状況を「ピクニック気分であった」と記しているほどだ。

 

資料不足で詳しく書けないのが残念だが、公刊戦史等で米軍上陸時の賀谷支隊の奮戦を調べてみた。




昭和20年4月1日 早朝より米軍は嘉手納海岸に対して徹底的な砲爆撃を実施、0900頃一斉に上陸を開始した。

 

 アイスバーグ作戦の開始である。

 

 第32軍の防備配置は中部以南を主陣地としていたので、嘉手納海岸の兵力はきわめて僅少であった。


 主に現地召集者と後方勤務者で編成された特設第1聯隊と独立歩兵第12大隊基幹の賀谷支隊のみであった。

 

 臨時編成で砲兵も有しない特設第1聯隊は、4個師団の米軍に抗すべきもなくなすところなく壊滅した。


 一方賀谷支隊は、米軍の攻撃前進を遅滞することが主任務であった。


 支那大陸での歴戦を誇る賀谷部隊は、期待に応え多くの損害を米軍に与え、逐次後退して我が軍の主陣地まで敵を誘導させるのである。

 

 ともあれ、所詮は局地的な戦闘に過ぎず、ほとんど無血上陸に等しかった米軍は、上陸初日に、約6万人の将兵と砲兵の揚陸を成功させた上にその日の夕方までに北・中飛行場を整備してしまった。

 

 米軍の損害は、戦死28名、戦傷104名、行方不明27 にすぎなかった。



賀谷支隊長が戦闘開始前の中隊長への訓示は「通常は防御は3倍の敵に対すると言うが、今度の戦闘は何十倍という常識を越えた敵に対する戦闘で、既に常識外れの戦闘だ。だから勝つとか負けるとか考えるな。常識外れの戦闘だからといって、我々は今更戦を止めて帰るわけにはいかない。自分と自分の部下の命、そして国を護るため最善を尽くさなければならないのだ。大敵といえども恐れず、唯々最善を尽くすことのみを考えよ」であった。

沖縄戦で日本軍の名指揮官として知られる賀谷興吉中佐は歴戦の勇士であった。

賀谷支隊は、兵員の主体が3~5年の現役兵であり、北支(現中国)での治安戦などで大隊の独立戦闘、特に中・小隊ごと独立して少数兵力で敵に包囲される等苦しい戦闘を続けた経験を十分に積んでいた。昭和13年以来同じ釜の飯を食べながら戦闘をしてきた団結力と歴戦の自信が米軍に対する遅滞戦闘を戦い抜く大きな原動力となっている。
 
また沖縄戦開戦前に師団抽出などで各部隊が配備変更を受ける中、賀谷支隊は昭和19年8月に沖縄上陸以来、一貫して島袋地区周辺で陣地構築や警備にあたったことで周辺の地理に詳しく、これが遅滞戦闘時の軽快・靱強な戦闘に大きく貢献している。



賀谷支隊(独立歩兵第12大隊)は僅かな兵力をもって4月1日から4日までの4日間、敵2個師団の前進を正面6km、縦深10kmにわたって「遅滞戦闘」を実施した。

「遅滞戦闘」は 「部隊を予め数線に配置し、砲兵・戦車の支援下に機動力を発揮しつつ逐次抵抗する」 という 防御戦闘の一方策である。

 しかし賀谷支隊は砲兵の支援はなく、特別の機動力も持たず、最初から全力展開のまま戦闘を実施して20~50倍の敵に対してその進撃を遅滞した。

 




 

以下戦史叢書 「沖縄方面陸軍作戦」 より転載

 4月1日0700北、中飛行場地区及び西海岸地区に対し熾烈な艦砲射撃を開始。0830ころから米軍の上陸用舟艇が海岸に達着して上陸を開始。

 

海軍第11砲台(平安山海軍砲台)は30名全員が戦死し、桑江の連隊砲は小隊長以下11名中10名が戦死し1名が重傷となった。

 賀谷支隊長は機関銃中隊を桃原(喜舎場北西2キロ)北方の95高地付近に進出させて、主として第4中隊の戦闘に協力させ、第3中隊主力を呉屋西方高地に配置した。

 

また東海岸の具志川に配備さてていた第5中隊および海軍砲台に喜舎場の大隊本部集結を命じた。

 損害続出する現況を見て、賀谷支隊長は1500ころ第4中隊及び機関銃中隊を桃原山内の線に後退させた。

 

 このころ米軍は桃原西方及び95高地に進出してきた。 第4中隊は1日夕方までに平安山地区の第1小隊がほとんど戦死し、中隊長も重傷となった。

 夜、賀谷支隊長は、第4中隊に桃原及び屋宜付近の確保、機関銃中隊に第4中隊の戦闘協力、第3中隊に島袋北方高地の確保、歩兵砲中隊に101高地付近に陣地占領して第3中隊に戦闘協力するよう命じた。

 

 部署の変更は2日朝までに完了した。

 



4月2日
 
0600頃、第5中隊が喜舎場大隊本部に到着。直ちに同中隊は第3、第4中隊の中間地区桃原以東に陣地を占領させて間隙を閉塞した。防御配備完了は0830で敵の攻撃開始にかろうじて間に合った。 

0900ころから各隊は戦車を伴う米軍の攻撃を受け、戦闘は午後から特に熾烈になった。

夕刻には右翼第3中隊及び101高地の歩兵砲中隊は敵の包囲を受け、その中間を突破した米軍(32連隊)は、島袋南側高地に進出して、喜舎場北側高地の大隊本部陣地を攻撃した。 第3中隊は、この日の夜に歩兵砲中隊とともに敵中を突破し、仲順を経て中城城址に後退した。
 
 野嵩の第1中隊、新垣の第3中隊正面は米軍の激しい攻撃を受け、わが方の死傷者続出し苦戦したが、野嵩・新垣とも辛うじて保持した。

4日夜賀谷支隊長は大隊を161.8高地(ピナクル)付近に撤収集結するに決した。

5日天明までに各隊は161.8高地(ピナクル)に集結を完了した。

一部は4日夜、主力は5日夜幸地に後退し、前方部隊の任務を果たした。

 

賀谷支隊の損害は、戦死将校11名、下士官兵231名。負傷数不明。
(戦史叢書 「沖縄方面陸軍作戦」)

こうした遅滞戦闘をしつつ嘉数戦までにには戦力半減していった。

 

 

以下「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社)より転載

 

『中国大陸で歴戦した強豪。支隊長賀谷与吉中佐を中心に、団結の強い勇猛部隊で、「中頭域内の警戒に任ずるとともに、所在の直轄部隊と協同し、同方面の防備が厳重であるよう敵をあざむけ」という苦肉の命令を受けていた。

 

…支隊長は、中飛行場を東からとり囲むように、各中隊をそれぞれの位置につけた。

 

米軍上陸とともに、上陸海岸の南端にあった海軍第11砲台は、全弾を撃ちつくし、指揮官西川兵曹長以下30名全員戦死

 

桑江の連隊砲も、ほとんど全滅

 

中飛行場正面に上陸した米7師団、その南側の96師団の強引な進撃に、賀谷支隊の中隊単位の兵士たちが協力して頑強に抵抗、支隊長また機略縦横、活潑に命令を発し、部隊を機動させて奮戦した。

 

ことに南側の北谷地区では、第1中隊が米96師団を向こうに回し、厳しい戦闘を交えて退かず、猛然ぶりを発揮した。各中隊は2日朝までに第二陣地に就く。』(150頁)

 

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 150頁より》

 

 

以下「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫)より転載

 

八原高級参謀の回想

 

『アメリカ軍の上陸海岸に、直接配備してあった楚辺、平安山の海軍2砲台と、独立歩兵第12大隊の1中隊(1小隊欠)は、怒濤の如きアメリカ上陸軍に対しては、浜の真砂の一粒に過ぎぬ存在であった。』(173頁)

 

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 173頁より》