中越戦争の戦闘シーン | 戦車のブログ

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支那の映画『芳華』を見た。

 

残念ながら日本語翻訳じゃないので全ての内容を理解したとは言えないのかも知れないが英語字幕と支那語字幕があってなんとなく理解はした。

 

戦争映画ではないのだが、中越戦争のシーン動画が全てだ。

 

映画は軍の文化大革命末期の文芸工作団と呼ばれる歌劇団が舞台で踊りも多い。

 

支那共産党軍は軍の階級が無く階級章がなく役職で指揮官がいるのだが映画を観ても誰が指揮官であるか判らない。

 

正直面白かったよ。

 

 

支那の映画『芳華』の戦闘シーン。

 

中越戦争では、中国は「懲罰」の大旗を片手に振り上げながら、ベトナムの奥深くまで攻め込んだものの、実際は対米戦争の経験豊富なベトナムの兵士たちに縦深作戦によってハノイ近くの大部隊集結地まで戦力を削り落とされながら引き摺り込まれた。

 

 

いざ決戦という局面で体力の尽きかけていた中国軍は「所期の目的が達成された」として全面撤退を決めた。

 

 

しかしながら、中越戦争の引き金になったベトナム軍によるカンボジア侵入を解消することはできず、一人芝居で終わってしまったような戦争であった。

 

一方で、復権したばかりの鄧小平が軍内基盤を固めるにあたっては中越戦争発動の効果は大きかったと見る向きもある。

 

 

 

 

 いずれによせ、戦場に駆り出された若者が肉体的・精神的に受けたダメージは深刻なものがあった。

 

 

主人公の一人である文工団の出身で野戦病院の看護を務めた何小萍(ミャオ・ミャオ演)が、戦争後に心を病んでしまったこと、そして、もう一人の主人公で文工団の模範生でありながら恋愛問題で団を追われた劉峰(黄軒演)が前線の先頭で片腕を失ってしまって障害者として生きていかざるを得なくなったことなどのエピソードは中越戦争のダメージの深さを示唆している。

 

 

中越戦争は、中華人民共和国とベトナム社会主義共和国の間で、1979年に行われた戦争である。

 

原因となったベトナム・カンボジア戦争とそれに伴うカンボジア内戦とあわせ、第一次インドシナ戦争とベトナム戦争に続く「第三次インドシナ戦争」とも呼ばれている。

 

当時のベトナム政府にとっては、カンボジアとの未確定の国境問題、ポル・ポト政権が、カンボジア領内のベトナム系住民への迫害を含む恐怖政治を行い、小規模だが繰り返されるベトナムへの侵攻・挑発は看過できないことであった。

 

ポル・ポト政権はソ連ではなく、中国から支援を受けていた。

 

当時、3つの世界論からソ連を敵視した中国は、中ソ国境紛争ではソ連軍と交戦するなど対立関係にあった。

 

 

中国にしてみれば、第一次インドシナ戦争とベトナム戦争で毛沢東時代の中国から支援を受けたベトナム政府が中国から援助された武器も使って、中国の友好国であるカンボジアのポル・ポト政権を崩壊させたことは、「恩を忘れた裏切り行為」であった。

 

また、統一ベトナム成立後の社会主義化政策は旧南ベトナム地域の経済で力を持っていた中国系住民(華僑、華人)を追放したことも中国を戦争に駆り立てた。

 

さらに1978年11月3日にベトナムがソ連とソ越友好協力条約を結んだことも中国を刺激し、中国にとってソ連の同盟国支援を試す狙いも中越戦争にあった。

 

中国はソ連との直接戦争にも備えてソ連との国境から警報で民間人を避難させ、大部隊を駐留させて開戦の準備も着々と進めていた。

 

 

1979年1月1日以降、中国は56万人の兵隊をベトナム国境に集結させ威圧を開始。

 

2月15日、中国共産党最高機関の中央委員会副主席の鄧小平は「同盟国カンボジアへの侵攻と同国内の中国系華人の追放(ベトナム側はこれを否定)」を理由とし、「ベトナムに対する懲罰的軍事行動」を正式発表することをもって宣戦布告を行う。

 

次いで2月17日、中越国境地帯全域から1500門の重砲による砲撃を行った後、ラオカイ、カオバン、ランソン各市街の占拠を第一目標として、10個軍30万名からなる軍勢をもって西部・北部・東北部の三方面からベトナム国境を侵犯した。

 

中国ではこの戦争と80年代の国境紛争とを併せて「対越自衛反撃戦」と呼び、ソ連・ベトナム連合の侵攻を恐れての行動と主張している。

 

 

 

中国人民解放軍は、国産の62式軽戦車とT-54中戦車をライセンス生産した59式中戦車を主力にベトナム各地に侵攻したが、ソ連から供与されたRPG-7対戦車ロケット砲や9M14対戦車ミサイルといったベトナム軍の対戦車兵器により多数が撃破され、またベトナム国境付近は地雷原になっていたために、人海戦術を用いてさえ歩兵を進めるのは困難だった。

 

そのため中国軍は軽戦車から69式戦車といったMBTまでを投入し、地域によっては山越えをしてベトナムの側面に回りこむ策に出、さらにゲリラ戦に遭うのを防ぐため徹底的に山やジャングルを70式130mm30連装自走ロケット砲や火炎放射器で攻撃した。

 

文化大革命の悪影響や兵站等の準備不足に加え、初期の戦闘で中国軍の損害を大きくした原因の一つにベトナム軍の長距離砲(例えば第3歩兵師団ではソ連製の122mm長距離榴弾砲(M-30かD-30と思われる)を使用していたことが確認されている)があり、加えてベトナム軍の砲兵陣地は強固で、それを潰さない限りベトナム軍の防衛線を突破できない事が明白であったため、中国軍は対砲兵レーダーをも使用した。

 

対するベトナム軍は、兵力において圧倒的に勝る中国軍の背後機動を防ぐため、複数の陣地を構築し、敵に損害を与えつつ後退する縦深陣地戦を多用した。

 

中国軍はその後、主力を欠くベトナム軍の後退に合わせて進軍し、2月25日にカオバン、2月26日にラオカイを、3月5日にはベトナム北東部の要所ランソンを占領することに成功し、ベトナム北部の五つの省を制圧したが、野戦軍はその過程で大きな被害を受けており、支払った代償は多大であった。

 

 

当時の装備の面ではベトナム軍は、ソ連からの支援を受けて陸上戦力・航空戦力ともに高い水準を開戦直後より維持していた。

 

中国では中ソ対立以前のソ連製の兵器をもとに装備の自主開発をおこなってきた。例えば、当時中国軍の最新型戦闘機は 殲撃七型であったが、ベトナム軍ではMiG-21の完成型であるMiG-21bisやMiG-21MFが運用されていた。

 

中国軍の主力機は殲撃七型、レーダーを積んだ殲撃六型、レーダーを搭載せず武装搭載量も貧弱な殲撃五型で、爆撃機は轟炸五型や轟炸六型であった。

 

地上では、中国軍はT-54のデッドコピーである59式戦車や、それをスケールダウンした62式軽戦車が多く、ベトナム陸軍も関係悪化以前に供与されていた59式戦車と、そのオリジナルであるT-54やT-55が主力であり、旧式なT-34-85さえも使用されていた。

 

両国の戦果/被害報告が一致しないこともあり、世界各国では現在も中越戦争の結果についての分析が続いているが、中越戦争は、中国人民解放軍によるベトナム北部の一時的な制圧という軍事的成果があったものの、最終的に中国人民解放軍が突然、撤退をして戦争が終わり、双方が勝利を主張する形となった。

 

中国人民解放軍の突然の撤退の背景にはベトナムによる抵抗の強さ、中国軍の指揮命令系統に問題があることがある。

 

戦争を取材した欧米の記者達は、中国軍がベトナム軍の縦深防御陣地に自殺的な突撃を行い大量の死者を出していると発信した。

 

 

また、当時の人民解放軍はプロレタリア文化大革命の影響で階級を廃止しており、複数の部隊が合流したり共同して戦闘を行う際にそれぞれの指揮官の序列が曖昧になり、混乱をきたした。

 

また、指揮官が戦死、あるいは戦傷で指揮が不能になった時に、代わって指揮をとる次級者の序列が存在せず、指揮命令系統が崩壊する例が多かったと言われる。

 

この戦争の後、中国において軍の近代化が最優先の国家目標とされることとなる。

 

中国は短期間でベトナムを制圧できると考えていたにもかかわらず、自国の指揮系統が内部崩壊することを全く想定していなかった。

 

この戦争の犠牲者に関しては、中国人民解放軍の昆明軍区の報告書である「対越自衛反撃戦総結」では2月17日から2月27日までにベトナム軍1万5000人を殲滅し、2月28日から3月16日までに3万7000人を殲滅したと主張し、自軍の戦死者は6954人戦傷者は1万4800人ほどだと報告している。

 

一方ベトナム国防省の軍事歴史院が編集した「ベトナム人民軍50年 (1944-1994)」では60万人の中国軍の内2万人が戦死し、4万人が負傷し、合わせて1割の死傷者が出たと記している。

 

 

映画の舞台となった文芸工作団とは、この語句は人民解放軍の前身たる中国工農紅軍(紅軍)まで遡る。


 歌舞や演劇等々を通じて宣伝を行う部隊である。

 

支那的風に言うのならば「音楽を通じて愛国主義、共産主義、革命的英雄の精神、士気を鼓舞する」的なものだろう。

 

 

 

 

現代の文工団員には二通りの団員が存在し、ひとつは生粋の軍人であり軍人としての階級を持つ団員。

 

もうひとつは、既に歌手等としてデビューしてから入団し、文職幹部という技術職や事務職としての階級を持つ団員。

 

一部異なる徽章を用いるため、それが判別手段となります。


 徽章以外は同じ制服、同じ部隊章を着用し、一般部隊と同じ制服のほか、袖とズボンに金線が入った文工団及び軍楽団専用の舞台服を着用している。