カラー映像で見る第二次世界大戦中のドイツ軍 | 戦車のブログ

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第二次世界大戦中のドイツ軍をカラー映像で観る。

 

総統アドルフ・ヒトラーはヴェルサイユ条約で失った旧ドイツ領土の回復と、東部における広大な生存圏を求める思想を持っていた(東方生存圏)。

 

ヒトラーは、1943年から1945年の開戦を想定し、政・軍部の反対派を粛清して軍備拡大と自給経済体制への変革をすすめた。

 

しかし、1939年9月にはヒトラーの冒険的外交によって英仏の宣戦を招き、ドイツは準備不足のまま世界大戦に突入した。

 

 

 

第二次世界大戦の冒頭では電撃戦戦術や装甲戦力の運用によってドイツ軍は快進撃をみせ、イタリア王国などの枢軸国とともにヨーロッパの大半を支配下に置くことに成功した。

 

しかしバトル・オブ・ブリテンにおいてはイギリス空軍を制圧できず、海軍力も限定的であったため、イギリスを屈服させることはできなかった。

 

 

ヒトラーは戦局の打開と東方生存圏獲得のためソビエト連邦への侵攻を開始した(独ソ戦)。

 

しかしロシアの気候と赤軍の反撃によって次第にドイツ軍は疲弊していった。

 

また西側連合国は北アフリカとフランス、そしてイタリア半島において逆襲を開始した。

 

資源・人的資源が枯渇する中でドイツはV1飛行爆弾等の新兵器や国民突撃隊編成などで抵抗するが、1945年5月に首都ベルリンは陥落、ドイツ軍は降伏に追い込まれた(欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦))。

 

 

ドイツはソ連との戦争の足場固めのため、東欧諸国にドイツの陣営、すなわち枢軸国に参加するよう圧力をかけていた。

 

ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアはこれに応じ、摂政パヴレ・カラジョルジェヴィチが統治するユーゴスラビア王国も1941年3月25日に同盟参加を受諾した。

 

しかし3月27日に摂政政府はクーデターで倒され、ユーゴスラビアの枢軸参加は不透明になった。

 

ヒトラーは激怒し、4月6日に他の枢軸国とともにユーゴスラビアへの侵攻を開始した。

 

ユーゴスラビアは4月17日に降伏した。さらにドイツ軍はルーマニア・ブルガリアを経由してギリシャ・イタリア戦争が続いていたギリシャ王国に侵攻した。

 

ギリシャ王国軍とイギリス軍は4月中にバルカン半島から駆逐され、6月1日にはクレタ島も陥落した。

 

 

6月22日、ドイツ軍はソ連侵攻作戦「バルバロッサ作戦」を発動した。

 

ヒトラーは独ソ戦を「イデオロギーの戦い」「絶滅戦争」と位置づけ、開戦直前にヒトラーが赤軍に配属された政治委員の即時処刑を命令する(コミッサール指令)など、他の地域の戦争と比べてもより過酷な占領統治と虐殺が続けられた。

 

赤軍(後のソビエト連邦軍)は侵攻を予期しておらず、2ヶ月の間ドイツ軍は各地で快進撃を続けたが、損害は大きく、1週間で1939年から1940年6月までの死傷者数を上回ることもあった。

 

しかし早い時期のモスクワ攻撃を主張する国防軍首脳に対し、ヒトラーはスモレンスクの敵軍殲滅を主張し、キエフ方面に装甲師団を振り向けたため、モスクワ攻略作戦(タイフーン作戦)は10月に延期された。

 

しかし例年より早い冬によって発生した泥濘と降雪がドイツ軍の足を止め、赤軍も猛抵抗したことにより失敗に終わった。

 

 

ドイツ軍は進撃を一旦停止して冬に備えようとしたが、11月27日からは赤軍の反抗が南方で始まり、ドイツ軍は80キロ押し返された。

 

ドイツ軍の損害はすでに投入兵力の35%、100万人におよび、この年だけで戦死者は20万人に達していた。

 

国防軍の各将軍はモスクワ前面からの撤退を唱えるようになったが、ヒトラーの厳命によって戦線は維持された。

 

しかしこのために陸軍総司令官ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュら多くの将軍が更迭されたが、ヒトラーは自ら陸軍総司令官に就任することで、さらに陸軍、独ソ戦の戦争指導にのめりこむこととなった。

 

日本軍の真珠湾攻撃が起こったのはこの冬の危機のさなか12月8日であった。

 

ヒトラーはアメリカとはすでに紛争状態にあると認識しており、日本の宣戦をかえって天佑と捉えた。

 

12月11日にはアメリカに対して宣戦布告し、日本・イタリアと単独不講和協定を結んだ。

 

 

一方北アフリカでは、エジプト攻略を目指すイタリア軍の支援のため、ドイツアフリカ軍団が編成され、エルヴィン・ロンメル将軍が指揮官となった。

ロンメルはイギリス軍相手に華々しい戦果を上げ、「砂漠の狐」と呼ばれて両国から畏敬・畏怖された。

 

厳しい冬を越え、ヒトラーは新たな戦略目標をカフカースの油田地帯に絞った。

 

ヒトラーはアメリカが本格的に行動を起こすのは1943年以降になると考えており、二正面作戦を回避するため、ソ連側に一大打撃を与える必要があると考えていた。

 

さらに石油備蓄も減少しており、油田地帯の確保は戦争継続のために必要であり、ヒトラーは「マイコープとグロズヌイの石油が手に入らなければ、余はこの戦争を終わらせなければならない」と述べている。

 

しかし前年と冬に被った損害は大きく、ドイツ軍の戦力が前年同時期よりも弱体化していることが確認されている。

 

6月28日から開始された大攻勢「ブラウ作戦(青作戦)」は、252個師団(うち機械化歩兵16師団、装甲師団25師団、後方警備26師団)を動員し、攻撃を予期していなかった赤軍を大混乱に陥れた。

 

ソ連はこの攻撃でドネツ盆地を喪失し、7月23日にはヒトラーが「(ブラウ作戦の目標は)大部分が達成された」と明言するほどであった。

 

しかし7月28日にはソ連最高指導者ヨシフ・スターリンが死守命令「227号命令」を発し、赤軍の頑強な抵抗が始まった。