バルジの戦い 2 | 戦車のブログ

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1944年12月16日、ドイツ軍はベルギーのアルデンヌの森を通って進撃を開始した。

 

折からのひどい悪天候により連合軍は航空機を飛ばすことができず、大いにドイツ軍の助けとなった。

 

 

突然の反撃に不意を突かれたトロイ・H・ミドルトン将軍の第8軍団は、クレルヴォー、ホージンゲンなど一部拠点で頑強に抵抗したが、旅団、連隊、大隊など高級部隊長の戦死や負傷が続出し、壊滅するか、捕虜となるか、包囲されるかという窮状となった。

 

 

しかしながら、その驚きと混乱に乗じたドイツ軍の快進撃は最初の数日間しか続かなかった。12月下旬に差し掛かると、ドイツ軍の主力部隊はあちこちの地域で各地から急行してきたアメリカ軍による強力な抵抗に会い、前進は非常に遅くなった。

 

また各戦線の進撃速度にも大きなバラつきが生じ、速攻に成功した部隊に包囲反撃が集中する事態が続出した。

 

トロイ・H・ミドルトン将軍

 

 

ヒトラーは、どうやら連合軍がこの事態に対応するのに時間がかかると考えていた節がうかがわれる。

 

ドイツ軍の大規模な攻勢だと認識するのに数日、アイゼンハワーが各国首脳に相談して部隊の配置転換を命令するのに数日、そして配置転換するよう命令された部隊が現地に到着するのに数日。

 

 

それだけ時間があれば作戦は間違いなく成功すると思ったのだろう。

 

 

しかし実際は連合軍の反応はヒトラーの予想を遥かに上回るほど早く、またアイゼンハワーの決断も早かった。

 

 

彼はどの首脳と相談することもなく部隊の配置転換を断行し、当時フランスで再建中だった第101空挺師団をバストーニュに急派した。

 

 

ヒトラーの思惑は初日から砕かれてしまった。

 

 

 

連合国占領地域後方への空挺降下による本作戦の支援、連合軍の攪乱を狙いとするシュテッサー作戦が計画された。

 

シュテッサー作戦では作戦開始が12月16日の午前早くに予定されたが悪天候と燃料不足のため、結局一日遅れの12月17日の03:00に降下時間が設定された。

 

降下部隊の目標地点はマルメディから11km北の「バラク・ミシェル」十字路であった。

 

フリードリッヒ・フォン・デア・ハイテ中佐と部下は同地点を確保、第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」が到着するまでの24時間を防衛し、同地点への連合軍の増援と補給を妨害する予定であった。

 

 

12月17日の午前零時直後、112機のJu 52輸送機が約1,300名の降下兵を搭載し、多くの雲と強い風雪の中離陸した。

 

 

その結果多くの機が予定コースを外れ、また降下地点に接近していた強風のため多くの兵士が降下予定地点から遠く離れた地点に着陸した。

 

 

 

17日の正午に約150名(300名の説もある)が目的地点に集合したがこの人数では戦力的に不十分なため、フォン・デア・ハイテ中佐は十字路を確保する計画を放棄し、付近に隠れて味方の到着を待つことにした。

 

 

しかし、5日待っても味方が現れないため、部隊は小グループに分かれて自軍の方向に戻ることにしたが、戻る途上でフリードリッヒ・フォン・デア・ハイテ中佐は疲労のためアメリカ軍に降伏した。

 

 

何の戦果も上げなかった降下であったが、降下が広範囲に分散したため、各地からの報告で連合軍司令部は大規模な降下作戦が実施されたと誤認した。

 

多くの混乱が生じ後方の安全を確保するための人員配置を行ったため、前線への増援が遅れ結果としてドイツ軍の攻勢を許すこととなった。

 

 

 

 

オットー・スコルツェニー親衛隊中佐の率いる第150SS装甲旅団がアメリカ軍の軍服を着用、英語を話す兵士達が鹵獲したジープで敵の後方地域に侵入した。

 

 

またM-10駆逐戦車に似せて改造したパンター戦車、アメリカ軍塗装を施したIII号突撃砲などの偽装車両も第150戦車旅団として編成され投入されたが、これらは進軍の渋滞に捕まって出遅れ、マルメディに対する強襲に使われるなどしている。

 

 

 

実際に完璧な英語を話すことができ、それを生かして後方地域に浸透したのはせいぜい20名程度であったといわれているが、部隊の存在はその行動以上に混乱を生み出した(「本隊」の方はムーズ川に架かる橋の確保に失敗している)。

 

 

米兵の軍服を着たドイツ兵の噂は野火のように広がり、ジョージ・パットン将軍さえその噂に驚き、12月17日にドワイト・D・アイゼンハワー将軍に対して、「完璧な英語を話すクラウツどもがあちらこちらに出没して電話線を切断し、道路標識を逆方向に向け我が軍の防衛拠点に押し込んだ」と報告した。

 

 

ドイツ兵はアメリカ軍の軍服を着用したまま捕らえられたため、多くはその場でスパイと見なされて銃殺となった。

 

 

ジュネーブ条約の下での軍服着用に関する項目と戦時捕虜の扱いで矛盾するものであったが、銃殺はその時点では一般的な行為であった。スコルツェニーとその部下達はそのような処置を覚悟しており、彼らはアメリカ軍の軍服の真下にドイツ軍の軍服を着用していた。

 

 

また一般のドイツ兵の中には捕獲したアメリカ軍の服を防寒のために重ね着していた者もいたが、彼らもまた捕虜となった際、特殊部隊と誤解され銃殺された。

 

 

 

後方地域での妨害工作中に数名の兵士が連合軍によって捕らえられたが、すでに覚悟を決めていた彼らのでたらめな自白のせいでかえって混乱は広がった。

 

 

彼らは任務について尋ねられた時、パリに滞在しているアイゼンハワーの誘拐と殺害が目的であると答えたため、アイゼンハワーの護衛は大幅に増加され、彼は司令部に閉じ込められることとなった。

 

その反面、彼らは正直に「部隊の指揮官はスコルツェニーである」と自白している。

 

 

 

その結果、後方区域の至る所に検問所が設置され、兵員や装備の移動を停滞させることとなった。

 

 

野戦憲兵は、アメリカ人なら誰でもが知っていると思われる質問(ミッキーマウスのガールフレンドの名前、有名な野球の試合のスコア、イリノイ州の州都など)を全ての兵士に厳しく質問した。

 

憲兵の質問を受けたオマル・ブラッドリー将軍はイリノイ州の州都をスプリングフィールドであると正しく答えたが、憲兵が州都をシカゴと思い込んでいたため、彼は短時間の拘留を受けることとなった(イリノイ州最大の都市はシカゴであるため、多くのアメリカ人が誤解している)。

 

 

 

皮肉なことにこの事件のせいで、「ヨーロッパで最も危険な人物」と綽名されるようになったスコルツェニーだが、自身はこの作戦は失敗だったとしている。

 

結局初日で達成するはずだった目的はどれも達成されず、部隊の存在が明らかになった以上、作戦に固執しても意味がないと思ったためか、スコルツェニーは作戦に見切りをつけ、第150装甲旅団の兵士達を通常の軍服に着替えさせた上で、普通の装甲旅団として戦闘に投入している。

 

 

 

12月17日12:30にパイパー戦闘団はマルメディとリヌーヴィルの間の高地、ボーネズ村の近くでアメリカ第285砲兵観測大隊に遭遇した。

 

小戦闘の後にアメリカ軍部隊は降伏し、捕虜の約150人が武装解除され後方に送られるため十字路の近くの野原に8列横隊で立たされた。

 

後の裁判における検察側記録によると、装甲車輌の一隊を率いてやってきた将校の命令により、まず一人の戦車兵が捕虜をピストルで撃ち、続いて他の兵士が機関銃で銃撃したということになっている(ただし、この『公式見解』には様々な矛盾や疑問が寄せられている)。

 

 

真実は未だに不明であるが、実際は逃亡を図った捕虜に対しての威嚇発砲によりパニックが発生し、ついには逃げ回る捕虜たちを撃ちまくることになったのではないかという説が有力である。

 

最後にまだ息のある者にとどめをさして回った者もいたが、彼らはこの前にデューレンの町でアメリカ軍の爆撃の巻き添えで犠牲になったベルギー民間人の無残な遺体を処理しており、また戦場経験の浅い者も多く、アメリカ兵に対する憎悪による私的な報復の可能性もある。

 

またドイツ側の捕虜射殺命令の記録は存在しないが、捕虜の即時射殺は東部戦線では一般的な出来事だった。

 

虐殺の知らせは連合軍内に急速に広まり、報復のため連合軍内には武装親衛隊員と降下兵は捕虜とせず即時射殺するよう指令が下った。

 

戦後パイパーSS中佐は捕らえられマルメディ事件の責任を問う裁判が行われたが、中佐が虐殺命令を出した事実は無く、逆に連合軍側が捕虜虐殺を命じた不名誉な事実が明らかになっただけで、この件に関しての責任を問われることは無かった。

 

 

アイゼンハワーから急遽、増援を命じられたアメリカ陸軍第101空挺師団は最初の部隊が12月18日の夜にバストーニュに到着し、直ちに防衛配置についた。 

 

12月19日に連合軍上級指揮官達はヴェルダンで作戦計画の協議を行ったが、このときアイゼンハワーは第3軍司令官のパットンにバストーニュの南にいる第3軍を北部への反撃に向けるのにどのくらいかかるかを尋ねた。

 

パットンは48時間で出来ると答えた。既にパットンは協議に出席する前に部下に対して北部に反撃する準備を行うように命じており、第3軍はバストーニュの救援に向かうことが決定した。

 

 

 

12月21日、ハインツ・ココット少将の第26国民擲弾兵師団を主力とするドイツ軍はアメリカ軍の防衛線を突破して、アメリカ軍第101空挺師団と第10装甲師団の一部が守備するバストーニュを完全に包囲した。

 

第101空挺師団長代理アンソニー・マコーリフ准将

 

 

 

12月22日の正午前、ドイツ軍は軍使を出して降伏勧告を行ったが、守備隊の責任者である第101空挺師団長代理アンソニー・マコーリフ准将は降伏勧告に対して、「NUTS!(ふざけるな!)」と答え、副官が同じ言葉を書いた紙を公式の回答としてドイツ軍に送ったことは有名な話である(当時、師団長マクスウェル・テイラー将軍は会議で部隊を離れており、師団長代理のマコーリフ准将が指揮を執っていた)。

 

 

 

バストーニュの攻撃に時間がかかり進撃のスケジュールに大きな遅れを出していたドイツ軍は、包囲したバストーニュの攻撃を軍の一部に任せ、主力は西のムーズ川に向かった。

 

バストーニュに残ったドイツ軍は12月23日からバストーニュの幾つかの地点に対し順に攻撃を集中し両軍の間で激戦が行われたが、最後までアメリカ軍の防衛線を突破することができなかった。

 

 

12月23日には天候が回復し、連合軍は空爆と空輸を開始した。航空爆撃はドイツ軍の補給基地に壊滅的な打撃を与え、P-47 サンダーボルト戦闘機は路上のドイツ軍を攻撃した。

 

さらにバストーニュへの空輸で医薬品、食料、毛布、弾薬が補給された。

 

ボランティアの外科医チームがグライダーで現地に入り、負傷者の救援を行った。

 

 

バストーニュを後に残して西に向かったドイツ軍(第5装甲軍の第2SS装甲師団)はムーズ川の手前のセルまで達したが、燃料と弾薬の枯渇が致命的であった。

 

12月24日にここでアメリカ軍と衝突し、ドイツ軍の進撃は停止した。

 

 

バルジの戦いでドイツ軍が最も西へ進出できた地点はセルとなり、ついに目的としていたムーズ川には到達できなかった。

 

また、作戦が開始されるとドイツ軍は無線封鎖を解除したため、連合軍の情報部は容易にドイツ軍の位置を割り出して、的確に反撃することができた。

 

この時点までドイツ軍の損失はパイパー戦闘団の消耗を別として軽微なものであった。

 

24日の夜にハッソ・フォン・マントイフェルは作戦の停止と撤退を進言したが、ヒトラーはそれを拒絶した。

 

セルのドイツ軍はアメリカ軍との3日間の戦闘により壊滅した。

 

 

12月26日 - バストーニュの南35kmにあったパットンの第3軍の第4装甲師団は12月22日にバストーニュに向けて進撃を開始したが、ドイツ軍の抵抗のため進撃は簡単ではなかった。

 

 

5日間の激戦の末、この日の16:50に師団の1個大隊(エイブラムス中佐が指揮)がバストーニュに達し、バストーニュの包囲は破られた。

 

 

1945年1月1日 - 天候の回復により、連合軍機による対地攻撃が開始されるようになると、侵攻したドイツ軍は大きな損害を受けた。

 

 

このため、連合国軍の飛行場に対して大規模空襲を行うボーデンプラッテ(大鉄槌)作戦が計画され、1月1日、アドルフ・ガーランドをはじめとする多くの現場指揮官の反対を押し切って開始された。

 

 

この空襲は連合軍機465機を破壊または損傷させる一応の成功をおさめたが、そのほとんどが地上撃破でパイロットの損失は少なかった。

 

対してドイツ軍は304機と優秀なパイロットを多く失った。連合軍は後方から航空機の補給が可能であったのに対し、ドイツ空軍にもはや余力はなく、以後ドイツ本土および各戦場での空軍の戦闘能力は極端に低下した。

 

 

1月13日 - ドイツ軍がバストーニュから退却した。

 

 

1月16日 - ドイツ軍の進出部(バルジ)を南北から攻撃していた連合軍はバストーニュの北東のウーファリズで両部隊が連結した。

 

 

ただし、ドイツ軍の残存部隊の大半はこの包囲網が完成する前にその東側(ドイツ本土側)に撤退を成功させていた。

 

 

1月23日 - アメリカ軍がザンクト・フィートを奪還。

 

この日、ドイツ軍司令部により、作戦の停止が決定された。戦闘は公式には1945年1月27日に終了した。

 

 

この戦いにおけるアメリカ軍の戦死者・負傷者・行方不明・捕虜は合わせて75,522人ないし76,000人、イギリス軍の戦死者は1,408人、ドイツ軍の戦死者・負傷者・行方不明・捕虜は合わせて67,675人もしくは10万人以上であった。

 

この他、連合軍の砲爆撃に巻き込まれ、少なくともラ・ロッシュで120人、サン・ヴィトで250人、マルメディで300人、ウーファリズで200人の民間人が死亡している。

 

 

ドイツの初期の攻勢は連合国を驚かせ、いくつかは成功したが西部戦線での主導権を奪還するに至らなかった。

 

当初予定していたドイツの目標は達成出来ず、アルデンヌ攻勢は多くの損害を生み出し、連合国の反撃により、押し戻される結果になった。

 

 

この作戦によって連合軍は、より多くの戦力を割かねばならなくなり、進攻計画に数ヶ月の遅れを生じさせたが、ドイツ軍が決定的な敗退と損失を被ったことで、戦争の終結は早まった。

 

また、防御を固めるのではなく攻勢に出てきたドイツ軍の中核を補給が続かなくなった時に壊滅させたことで、進攻による連合軍の被害は最小限に抑えられたと考えることもできる。

 

さらにドイツは東部戦線に軍を回す余力もなくしたため、ソ連の進撃速度を速めるという結果も生んだ。

 

 

この戦いによるドイツ軍の損害は致命的なものであり、最後の予備兵力を失うことになった。

 

ドイツ空軍は壊滅し、残存戦力はジークフリート線まで押し返された。

 

 

初期のドイツの成功により、イギリス首相のチャーチルは1月6日にスターリンに連絡し、東部戦線からドイツに圧力をかけてもらう様要請し、1月12日には、ソ連赤軍はヴィスワ=オーデル攻勢を開始した。

 

当初の予定ではこの作戦は1月20日に攻勢を開始する予定であったが、チャーチルの要請と月末の天候が悪化が予想された事から作戦を早めた。