旅順要塞 | 戦車のブログ

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旅順要塞とは、遼東半島先端部の旅順にあった要塞。

 

近代において旅順軍港は清帝国、ロシア帝国、大日本帝国、中華人民共和国に利用され、その軍港を防衛するための拠点として旅順要塞は建設・運用された。

 

 

清は19世紀後期に旅順に北洋艦隊の基地を置き、その防衛のために旅順の要塞化が始まった。

 

日清戦争では日本軍の攻撃を受け、1895年11月下旬に旅順口の戦いとなったが、清国軍の士気は低く短時間の戦闘で陥落した。

 

日本海軍は旅順軍港に旅順口根拠地を置いた。

 

 

日清戦争後の下関条約では遼東半島は日本に割譲されたが、三国干渉の結果、清に返還された。

 

代わってロシア帝国が清から遼東半島を租借すると、旅順はロシア帝国海軍の太平洋艦隊の基地として使用されることになった。

 

旅順要塞もロシア陸軍の手によって機関銃の導入など大規模な強化が行われ、二竜山堡塁、松樹山堡塁、東鶏冠山北堡塁など強力な陣地が設置された。

 

 

日露戦争では再び日本軍の攻撃を受けて激戦地となり、旅順攻囲戦が発生した。

 

なかでも203高地での戦闘が著名となった。4か月以上の戦闘の末に、1905年1月1日にロシア軍守備隊は降伏した。

 

日本陸軍は旅順要塞司令部を設置し、日本海軍は旅順港に旅順鎮守府を設置した。

 

 

日露戦争後のポーツマス条約の結果、遼東半島の関東州租借権はロシアから日本に譲渡され、旅順要塞も日本軍の管理下となった。

 

旅順港には引き続き日本海軍の旅順鎮守府が置かれ、1914年には旅順要港部となった。

 

 

 

日本陸軍は関東州駐屯の関東軍を編成し、満州事変までは司令部を旅順に置いた。

 

日本陸軍は旅順要塞の防衛部隊の主力として旅順重砲兵連隊を編成し、大東亜戦争前には旅順要塞重砲兵連隊(通称号:満64部隊)に改称したが、1944年に連隊を廃止した。

 

第一次世界大戦、第二次世界大戦を通じて旅順要塞自体は特段の戦闘を経験することはなかった。

 

ただし、ノモンハン事件に際して、旅順重砲兵連隊の1個中隊(八九式十五糎加農砲2門)を穆稜重砲兵連隊に配属して出動させている。

  • 旅順重砲兵連隊 - 旅順要塞重砲兵連隊に改称。
  • 旅順要塞重砲兵連隊(編成地:旅順)
    • 1941年(昭和16年)7月16日編成 - 1944年(昭和19年)10月11日廃止
    • 最終連隊長 - 瀬田善四郎

 

 

旅順要塞の構造は、要塞防衛線(第一防衛線、第二防衛線)、および前進陣地から構成される。

 

 

旅順は元々は清国の軍港で、露国が手中に収めた時点である程度の諸設備を持っていた。

 

しかし防御施設が旧式で地形も不利な点を持つことを認識し強化に着手した。

 

 

1901年より開始されたこの工事は、当初は下述する203高地や大孤山(標高約180 m)も含めた十分に広い範囲に要塞防御線を設置し守備兵2万5000を常駐させる計画だった。

 

しかし予算不足で防御線の規模は縮小され、常駐の守備兵も1万3000に変更された。

 

この要塞防衛線は港湾部に近すぎ、要塞を包囲した敵軍の重砲は、防衛線内の砲台から狙われない安全な位置より港湾部を射程距離内に収めることができた。

 

また地形上、防衛線外の大孤山や203高地、南山坡山(通称海鼠山、標高約200m、203高地の北)などから港湾部の一部もしくは全域の弾着観測ができた。

 

そのため開戦後にはそれら防衛線外も前進陣地や前哨陣地を設け防御に努めたが本質的に完全ではなかった。

 

 

また完成は1909年の予定だったので、1904年の日露開戦により未完成のまま(完工度は約40パーセント)戦争に突入することになった。

 

これら前哨陣地は第7師団長ロマン・コンドラチェンコ少将の精力的な強化工事が施された。

 

 

東正面

白銀山、東鶏冠山(北・南)、盤龍山(北、東、西)、松樹山各堡塁を中核とし、望台(標高185m)、永久砲台、旧囲壁(日清戦争時の要塞の構造物)、臨時築城陣地などで連接

北正面

椅子山、大案子山、龍眼北方、水師営南方各堡塁を中核とし、砲台、野戦築城陣地などで連接

西正面

西太陽溝などの各堡塁を中核とする。また203高地、化頭溝山、大頂子山などに野戦陣地を新設

装備火砲

要塞砲350門、野砲67門、海軍砲186門、捕獲砲43門の合計646門。これを海上正面に124門、陸上正面に514門、予備8門に分配。
 

 

機関砲

海上側に62門、陸上側に47門、予備10門の合計119門

兵力

総員42000名(従来の要塞兵力に東シベリア狙撃兵第4、7師団などが駐留)

となっている。

 

防衛線外の前進陣地は、西方に203高地近辺諸陣地、北方に水師営近辺諸陣地、東方に大小孤山諸陣地を整備したが、未完成だった。

 

 

要塞の主防御線はコンクリート(当時は仏語のベトンと呼ばれていた)で周囲を固めた半永久堡塁8個を中心に堡塁9個、永久砲台6個、角面堡4個とそれを繋ぐ塹壕からなりあらゆる方角からの攻撃に備え、第二防衛線内の最も高台である望台には砲台を造り支援砲撃を行った。

 

さらに突破された場合に備えて堡塁と塹壕と砲台を連ねた小規模な副郭が旅順旧市街を取り囲んでいた。

 

海上方面も220門の火砲を砲台に配備して艦船の接近を妨害するようになっていた。

 

 

開戦時、ロシア軍が満州に配備する戦力は6個師団であったが、その三分の一に当たる2個師団約3万名が旅順および大連地域に配備された。

 

これに要塞固有の守備兵力、工兵、要塞砲兵なども含め最終的に4万4千名(これに軍属他7千名、海軍将兵1万2千名)が立て籠った。

 

 

ロシア軍では、この要塞を含めた地域一帯を防衛するロシア関東軍が新設され軍司令としてアナトーリイ・ステッセリ中将、旅順要塞司令官にコンスタンチン・スミルノフ中将が就任。

 

 

守備部隊として東シベリア第7狙撃兵師団(師団長:ロマン・コンドラチェンコ少将)と同第4師団(師団長:アレクサンドル・フォーク少将)この他、東シベリア第5狙撃兵連隊や要塞砲兵隊、騎兵・工兵など総勢4万4千名、火砲436門(海岸砲は除く)が籠っていた。