元号 | 戦車のブログ

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いよいよ令和へ元号が改元され、新しい令和の御代となりました。

 

元号とはそもそも何なのか?

 

元号とは、日本を含むアジア東部における紀年法の一種。

 

特定の年代に付けられる称号で、基本的に年を単位とするが、元号の変更(改元)は一年の途中でも行われ、一年未満で改元された元号もある。

 

日本においては年号とも呼ばれることもある。

 

公称としては、江戸時代まで「年号」が多く使われ、明治以降は一世一元の制が定着し、「元号」が法的用語となった。

 

現代では元号法が制度の裏付けとなっている。

 

 

紀年法のうち、西暦やイスラム紀元、皇紀(神武紀元)などが無限のシステム(紀元)であるのに対して、元号は有限のシステムである。

 

 

皇帝や王など君主の即位、また治世の途中にも行われる改元によって元年から再度数え直され(リセット)、名称も改められる。

 

元号の元年は「1年目」に当たる。

 

英訳すると、元号は「regnal era name」などとなる。

 

 

 

元号とは、古代中国の君主制下に生まれた皇帝の時空統治権を象徴する称号である。

 

『春秋公羊伝』隠元年では「元年者何。君之始年也」とあり、これは皇帝権力の集中統一を重視する「大一統」思想の国制化であった。

 

 

「正朔を奉ずる」(天子の定めた元号と暦法を用いる)ことがその王権への服従の要件となっていた。

 

 

元号が政治的支配の正統性を象徴するという観念は、元号を建てることにより、既存の王朝よりも自らの正統性が優越しているか、少なくとも対等であることを示すことができるという意識を生んだ。

 

そのため、時の王朝に対する反乱勢力はしばしば独自の元号を建てた。

 

また、時の政権に何らかの批判を持つ勢力が、密かに独自の元号を建てて使用することもあった。

 

このように、後世から公認されなかった元号を「私年号」と呼ぶ。

 

 

中国王朝の政治制度を受容した周囲の王権は元号制度もともに取り入れているが、これも同様の発想に由来する。

 

中国王朝から見れば、中国王朝を真似て、しかもこれと対等であることを示すために建てられた周辺諸国の元号は、やはり「私年号」であり、使用は許されないものであった。

 

一方で周辺諸国の王権は中国王朝から冊封を受け、周囲の競争勢力に対する自らの正統性の保障としたが、冊封の条件の一つが「正朔を奉ずる」ことであったため、独自元号の使用と冊封は両立しない要素であった。

 

 

 

元号は漢字2字で表される場合が多く、まれに3字、4字、6字の組み合わせを採ることもあった。

 

最初期には改元の理由にちなんだ具体的な字が選ばれることが多かったが、次第に抽象的な、縁起の良い意味を持つ字の組み合わせを、漢籍古典を典拠にして採用するようになった。

 

日本の場合、採用された字はわずか72字であり、そのうち21字は10回以上用いられている。

 

一番多く使われた文字は「永」で29回、二番目は「天」「元」のそれぞれ27回、4番目は「治」で21回、5番目は「応」で20回である。

 

「平成」の「平」は12回目であり、「成」は元号の漢字として初めて使われた。

 

「昭和」の「昭」は1回「和」は19回、「大正」の「大」は6回「正」は19回、「明治」の「明」は7回使われている。

 

 

独自の元号が建てられた国家には、以下の項目に挙げる他、柔然、高昌、南詔、大理、渤海がある。

 

また遼、西遼、西夏、金は中国史に入れる解釈もあるが、いずれも独自の文字を創製しており、元号も現在伝えられる漢字ではなく、対応する独自文字で書かれていた。

 

 

元号を用いた日本独自の紀年法は、西暦に対して和暦(あるいは邦暦や日本暦)と呼ばれることがある。

 

 

日本国内では今日においても西暦と共に広く使用されており、今年(西暦2019年)は令和元年に当たる。

 

 

『昭和大礼記録(第一冊)』によると、一木喜徳郎宮内大臣は、漢学者で宮内省図書寮の編修官であった吉田増蔵に「左記の五項の範囲内に於て」元号選定にあたるように命じた。

 

  • 元号は本邦はもとより言うを俟たず、支那、朝鮮、南詔、交趾(ベトナム)等の年号、その帝王、后妃、人臣の諡号、名字等及び宮殿、土地の名称等と重複せざるものなるべきこと。
  • 元号は、国家の一大理想を表徴するに足るものとなるべきこと。
  • 元号は、古典に出拠を有し、その字面は雅馴にして、その意義は深長なるべきこと。
  • 元号は、称呼上、音階調和を要すべきこと。
  • 元号は、その字面簡単平易なるべきこと。

なお歴史的には、「他国でかつて使われた元号等と同じものを用いてはならない」という条件はなかった。

 

異朝でかつて使われた元号を意図して採用した例すらある。

 

 

例えば、後醍醐天皇の定めた「建武」は、王莽を倒して漢朝を再興した光武帝の元号「建武」にあやかったものであった。

 

 

また、徳川家康の命によって用いられた「元和」は、唐の憲宗の年号を用いたものである。

 

近代の「明治」も大理国で用いられた例があり、「大正」もかつてベトナムの莫朝で用いられた(ただし、読みは「たいせい」)。

 

 

日本の元号は伝統的に二文字であるが、元号に用いることのできる文字数は明確に制限されていない。

 

この例外は聖武天皇・光明皇后の時代から約四半世紀、天平感宝、天平勝宝、天平宝字、天平神護、神護景雲の5つ(四文字)のみである。

 

 

難波宮で行われた大化の改新(645年)時に「大化」が用いられたのが最初であり、以降、日本という国号の使用が始まったとされる。

 

7世紀中後期には断続的に元号が用いられたことが『日本書紀』には書かれている。

 

しかし、当時使われた木簡の分析によると、元号の使用は確認されていない。

 

まだ7世紀後半は、元号よりも干支の使用が主流だったようである。

 

文武天皇5年(701年)に「大宝」と建元し、以降、継続的に元号が用いられることとなった。

 

 

広く庶民にも年号が伝わるようになったのは、江戸時代になってからのことである。

 

 

平安時代末期、源頼朝は、寿永二年十月宣旨によって朝敵認定を赦免され東国支配権を認められるまで、養和ついで寿永への改元をいずれも認めず、それ以前の治承の年号を使い続けるなど、元号は強い政治性を帯びていた。

 

 

南北朝時代には、持明院統(北朝)、大覚寺統(南朝)が独自に元号を制定したため、1331年から1392年まで2つの元号が並存した(建武元年、同2年は、南北共通)。

 

 

室町時代には、朝廷が元号を定めた新元号を、将軍が吉書として総覧して花押を据える「吉書始」と呼ばれる儀式で改元を宣言して、武家の間で使用されるようになった。

 

そのため元号選定には武家の影響力は強いものであった。

 

特に足利3代将軍の義満以降、改元に幕府の影響が強まった。

 

一方で京都の室町幕府と対立した鎌倉府が改元を認めずに反抗するという事態も生じた。

 

また応仁の乱などで朝廷と幕府が乱れると朝廷による改元と幕府の「吉書始」の間が開くようになり、新元号と旧元号が使用される混乱も見られた。

 

 

戦国時代末期、織田信長は元亀4年7月、将軍足利義昭を京都から追放した直後に元亀から天正への改元を主導し、織田政権の開始を象徴する出来事となった。

 

 

江戸時代に入ると幕府によって出された禁中並公家諸法度第8条により「漢朝年号の内、吉例を以て相定むべし。

 

但し重ねて習礼相熟むにおいては、本朝先規の作法たるべき事(中国の元号の中から良いものを選べ。ただし、今後習礼を重ねて相熟むようになれば、日本の先例によるべきである)」とされ、徳川幕府が元号決定に介入することになった。

 

 

また、改元後の新元号を実際に施行する権限は江戸幕府が有しており、朝廷から連絡を受けた幕府が大名・旗本を集めて改元の事実を告げた日(公達日)より施行されることになっていた。

 

これは朝廷のある京都においても同様であり、朝廷が江戸の幕府に改元の正式な通知をして、幕府が江戸城で諸大名らに公達を行い、江戸から派遣された幕府の使者が京都町奉行に改元の公達を行い、町奉行が改元の町触を行った後で初めて施行されるものとされた。

 

京都の役人や民衆はたとえ改元の事実を知っていても、町触が出される前に新元号を使うことは禁じられていた。

 

 

戊辰戦争前(慶応以前)には、天皇の交代時以外にも随意に改元(吉事の際の祥瑞改元、大災害や大規模戦乱が発生した時の災異改元など)していた。

 

しかし、戊辰戦争の結果として全国政府の座を奪取した明治政府は、明治に改元した時に一世一元の詔を発布し、明治以後は、現在に至る、新天皇の即位時に改元する「一世一元の制」に変更された。

 

これにより、辛酉改元や甲子改元も廃止された。

 

さらに、1872年(明治5年)には、西洋に合わせて太陽暦(グレゴリオ暦)へと移行することになり、「旧暦(太陰太陽暦)に代わる暦として永久にこれを採用する」との太政官布告により採用された。

 

 

それに伴い、元号や干支、神武天皇即位紀元(皇紀、神武暦)に加えて、キリスト紀元(西暦、西紀)の使用も始まったが、第二次世界大戦時には西暦はむしろ敵性語扱いされた節もあった。

 

その後、太陽暦に移行しても、1910年代までは旧来の太陰太陽暦(天保暦)での暦が併記されていたように、年数を数えるにおいて民衆には浸透しづらかった側面もある。

 

 

第二次世界大戦敗戦後に、日本国憲法制定に伴う皇室典範の改正をもって、元号の法的根拠は一時消失した。

 

しかし、官民を問わず「昭和」の元号が使用され続けた。

 

 

だが、第二次世界大戦終結の翌年に当たる1946年(昭和21年)1月には、尾崎行雄が衆議院議長に改元の意見書を提出した。

 

この意見書において、尾崎は、第二次世界大戦で敗れた1945年(昭和20年)限りで「昭和」の元号を廃止して、1946年(昭和21年)をもって「新日本」の元年として、1946年(昭和21年)以後は無限の「新日本N年」の表記を用いるべきだと主張した。

 

 

これに対して、石橋湛山は、『東洋経済新報』1946年(昭和21年)1月12日号のコラム「顕正義」において、元号の廃止と西暦の使用を主張した。

 

1950年(昭和25年)2月下旬になると、参議院で「元号の廃止」が議題に上がった。

 

ここで東京大学教授の坂本太郎は、元号の使用は「独立国の象徴」であり、「西暦の何世紀というような機械的な時代の区画などよりは、遙かに意義の深いものを持って」いる上、更に「大化の改新であるとか建武中興であるとか明治維新」という名称をなし、「日本歴史、日本文化と緊密に結合し」ていることは今後も同様であるため、便利な元号を「廃止する必要は全然認められない」一方で「存続しなければならん意義が沢山に存在する」と熱弁をふるった。

 

 

1950年(昭和25年)6月に朝鮮戦争が勃発すると、元号の議題は棚上げされた。

 

以来、元号の廃止や新たな元号に関する議論は低調にとどまり、現在に至るまで元号と西暦の双方が使用され続けている。

 

一方で、皇紀(神武天皇即位紀元)に関しては(文化的な場での使用を除き)公文書でも使用されなくなった。

 

 

その後、論争を経て1979年(昭和54年)に元号法が制定された。

 

これは昭和天皇の高齢化と、1976年(昭和51年)当時の世論調査で国民の87.5%が元号を使用している実態に鑑みたものである。

 

元号法では「元号は皇位の継承があった場合に限り改める」と定められ、明治以来の「一世一元の制」が維持された。

 

ここで再び元号の法的根拠が生まれ、現在に至っている。

 

 

 

 

日本の元号で最も期間の長い元号は昭和の62年と14日。

 

最も期間の短い元号は暦仁の2か月と14日である。

 

昭和は日本だけでなく、元号を用いていたすべての国の元号の中でも最も長い元号である。 

 

年数で最も長い元号も昭和で、64年まである。

 

逆に元年だけしか使われなかった元号は朱鳥と天平感宝がある。

 

暦仁は期間内に元日を挟んでいるため2年まである。