小野田寛郎の三十年戦争 | 戦車のブログ

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1974年3月10日、ルバング島に残留していた陸軍少尉の小野田寛郎が救出された日。

 

 

 

小野田 寛郎(おのだ ひろお、大正11年(1922年)3月19日 - 平成26年(2014年)1月16日)は、日本の陸軍軍人、実業家。

 

最終階級は予備陸軍少尉。

 

 

旧制海南中学校・久留米第一陸軍予備士官学校・陸軍中野学校二俣分校卒。

 

 

情報将校として大東亜戦争に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、第二次世界大戦終結から29年の時を経て、フィリピン・ルバング島から日本へ帰還を果たした。

 

 

上海の商事会社で働いていた1942年12月、満20歳のため徴兵検査(徴募)を受け本籍のある和歌山歩兵第61連隊(当時同連隊は戦地に動員中のため、その留守部隊)に現役兵たる陸軍二等兵として入営。

 

 

同時に留守部隊をもとに編成された歩兵第218連隊に転属、同連隊にて在営中に甲種幹部候補生(予備役将校を養成)を志願しこれに合格、1944年1月に久留米第一陸軍予備士官学校へ入校する。

 

 

卒業後、中国語や英語が堪能だった事から選抜され、同年9月に陸軍中野学校二俣分校入校。

 

 

二俣分校は主に遊撃戦の教育を行っており、当時の教科書には隠密行動や潜伏の要領、夜襲動作などの方法が記され、後に小野田はそれを忠実に実行することになる。

 

 

また、「生きて虜囚の辱めを受けず」とする戦陣訓の教えとは異なり、中野学校の一番の目的とするところは、最後の一人になっても戦え、玉砕してはならず捕虜になっても死んではいけないとするもので、主力の撤退後も任務を全うするよう教え込まれ、反撃に備え敵陣内で諜報を行う残置諜者となるよう叩き込まれた。

 

 

約3か月間特訓を受け、退校命令を受領(中野学校は軍歴を残さないため卒業ではなく退校を使用)。

 

11月に事実上の卒業後、見習士官(陸軍曹長)を経て予備陸軍少尉に任官。

 

 

 

同年12月、フィリピン防衛戦を担当する第14方面軍情報部付となり、残置諜者および遊撃指揮の任務を与えられフィリピンに派遣。

 

 

当地では第14方面軍隷下の第8師団参謀部付(配属)となっており、その師団長横山静雄陸軍中将から「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」と日本軍の戦陣訓を全否定する訓示を受けている。

 

 

派遣にあたり、高級司令部が持っている情報は全て教えられ、日本が占領された後も連合国軍と戦い続けるとの計画であった。

 

 

なお派遣前、母親からは「敵の捕虜となる恐れがあるときには、この短刀で立派な最後を遂げてください」と言われ、短刀を渡された(この短刀は日本帰国後、実家に帰った際に母親に返している)。

 

 

同月31日、フィリピンのルバング島に着任。

 

秘密飛行場の警備に当たった。

 

 

日本兵は住民の家を拠点にしていた。

 

 

着任後は長期持久体制の準備に努めるが、島内の日本軍の一部の隊には「引き上げ命令」が出ていたため戦意が低いことと、小野田には指揮権がないため相手にされず、1945年2月28日のアメリカ軍約1個大隊上陸後、日本陸軍の各隊は、アメリカ海軍艦艇の艦砲射撃の大火力に撃破され、小野田はルバング島の山間部に逃げ込んだ。

 

 

小野田は、友軍来援時の情報提供を行うため、部下と共に遊撃戦を展開した。

 

ルバング島は、フィリピンの首都であるマニラに位置するマニラ湾の出入口にあり、この付近からマニラを母港とする連合国軍艦船、航空機の状況が一目で分かるため、戦略的に極めて重要な島であった。

 

 

 

 

1945年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかったため、赤津勇一陸軍一等兵(1949年9月逃亡1950年6月投降)、島田庄一陸軍伍長(1954年5月7日射殺され戦死)、小塚金七陸軍上等兵(1972年10月19日同じく射殺され戦死)と共に戦闘を継続し、ルバング島が再び日本軍の制圧下に戻った時のために密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をする。

 

日本では1945年9月に戦死公報を出されたが、1950年に赤津が投降したことで、小野田ら3人の残留日本兵が存在することが判明する。

 

 

 

フィリピンは戦後間もなくアメリカの植民地支配からの独立を果たしたものの、両国の協定によりアメリカ軍はフィリピン国内にとどまることとなった。

 

これを「アメリカ軍によるフィリピン支配の継続」、またフィリピン政府を「アメリカの傀儡政権」と解釈した小野田はその後も持久戦により在比アメリカ軍に挑み続け、島内にあったアメリカ軍レーダーサイトへの襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、合計百数十回もの戦闘を展開した。

 

 

広島市立大学永井均教授により発掘された資料によると、1974年5月に厚生省援護局職員が行った帰国直後の小野田への秘密裏の聞き取り調査で、小野田が戦争がまだ継続しており、ルバング島全島が日本軍の占領地だという認識を持っていたため、侵入してくるものに対しては個人であろうと住民らの連帯責任であるとの考えに基づき報復のため部落への攻撃を加えていたことが明らかになった。

 

 

小野田らが潜伏していたジャングルの近隣のブロール部落の住民が何回となく捜索に来ることがあったので、夜襲をかけ銃撃や放火などを行った。

 

小野田らは山賊と呼ばれ住民らにおそれられ、住民らはヤシの実をとりに行くこともできなくなった。

 

 

占領は日本軍の再上陸に備えるためであった。

 

1949年(昭和24年)頃には皆、野生の食事にも慣れ海岸の岩間にできた塩を年に1、2升採集し、自生するヤシの実を拾い、肉類は牛を月に2頭くらい屠殺した。

 

 

牛は島内の住民の大切な財産である農耕牛であったが、小野田の主張では野生牛で、乾燥肉にもした。

 

これにより、良質の動物性タンパク質とビタミン、ミネラルを効率良く摂取していたとされる。

 

 

使用した武器は九九式短小銃、三八式歩兵銃、軍刀等であり、その他放火戦術も用いた。

 

この際、弾薬の不足分は、島内に遺棄された戦闘機用の7.7x58SR機関銃弾(薬莢がセミリムド型で交換の必要あり)を九九式実包の薬莢に移し替えて使用していた。

 

 

30年間継続した戦闘行為によって、フィリピン警察軍、民間人、在比アメリカ軍の兵士を30人以上殺傷したとされる。

 

 

ただし、アメリカ軍司令官や兵士の殺傷に関して、アメリカ側にはそのような出来事は記録されておらず、実際に殺傷したのは武器を持たない現地住民が大半であった。

 

このことは後に日本とフィリピン政府との間で補償問題へと発展した。

 

 

手に入れたトランジスタラジオを改造して短波受信機を作り、アメリカ軍基地の倉庫から奪取した金属製ワイヤーをアンテナに使って、独自で世界情勢を判断しつつ、友軍来援に備えた。

 

 

また、後述する捜索隊が残した日本の新聞や雑誌で、当時の日本の情勢についても、かなりの情報を得ていた。

 

 

捜索隊はおそらく現在の情勢を知らずに小野田が戦闘を継続していると考え、あえて新聞や雑誌を残していったのだが、皇太子成婚の様子を伝える新聞のカラー写真や、1964年の東京オリンピック、東海道新幹線開業等の記事によって、小野田は日本が繁栄している事は知っていた。

 

士官教育を受けた小野田は、その日本はアメリカの傀儡政権であり、満州国に亡命政権があると考えていた。

 

 

また小野田は投降を呼びかけられていても、二俣分校での教育を思い出し、終戦を欺瞞であり、敵対放送に過ぎないと思っていた。

 

また朝鮮戦争へ向かうアメリカ軍機を見掛けると、当初の予定通り亡命政権の反撃が開始され、フィリピン国内のアメリカ軍基地からベトナム戦争へ向かうアメリカ軍機を見かけると、いよいよアメリカは日本に追い詰められたと信じた。

 

このように小野田にもたらされた断片的な情報と戦前所属した諜報機関での作戦行動予定との間に矛盾が起きなかったために、30年間も戦い続ける結果となった。

 

末期には、短波ラジオで日経ラジオ社の中央競馬実況中継を聞き、小塚と賭けをするのが唯一の娯楽であった。

 

 

だがそんな小野田も、長年の戦闘と小塚金七死亡後の孤独により疲労を深めていった。

 

1974年に、一連の捜索活動に触発された鈴木紀夫がルバング島を訪れ、2月20日にジャングルで孤独にさいなまれていた小野田との接触に成功する。

 

鈴木は日本が敗北した歴史や現代の状況を説明して帰国をうながし、小野田も直属の上官の命令解除があれば、任務を離れることを了承する。

 

この際、鈴木は小野田の写真を撮影した。

 

 

3月9日に、かつての上官である谷口義美元陸軍少佐から、文語文による山下奉文陸軍大将(14HA司令官)名の「尚武集団作戦命令」と、口達による「参謀部別班命令」で任務解除・帰国命令が下る。

 

 

 

一 大命ニ依リ尚武集団ハスヘテノ作戦行動ヲ解除サル。

 

 

二 参謀部別班ハ尚武作命甲第2003号ニ依リ全任ヲ解除サル。

 

 


三 参謀部別班所属ノ各部隊及ヒ関係者ハ直ニ戦闘及ヒ工作ヲ停止シ夫々最寄ノ上級指揮官ノ指揮下ニ入ルヘシ。已ムヲ得サル場合ハ直接米軍又ハ比軍ト連絡ヲトリ其指示ニ従フヘシ。

 

 

— 第十四方面軍参謀部別班班長 谷口義美

 

 

 

翌3月10日にかけ、小野田は谷口元少佐にフィリピンの最新レーダー基地等の報告をする。

 

小野田はフィリピン軍基地に着くと、フィリピン軍司令官に軍刀を渡し、降伏意思を示した。

 

この時、小野田は処刑される覚悟だったと言われる。

 

フィリピン軍司令官は一旦受け取った軍刀をそのまま小野田に返した。

 

司令官は小野田を「軍隊における忠誠の見本」と評した。

 

小野田のマラカニアン宮殿で行われた投降式には、マルコス大統領も出席し、武装解除された。

 

その際、マルコス大統領は小野田を「立派な軍人」と評している。

 

小野田は終戦後に住民の物資を奪い、殺傷して生活していたとすれば、フィリピン刑法の処罰対象になる。

 

 

小野田は、終戦を信じられずに戦闘行為を継続していたと主張し、日本の外務省の力添えもあって、フィリピン政府は刑罰対象者の小野田を恩赦した。

 

 

この時に交わされた外交文書によれば、日比両政府による極秘交渉の中で小野田ら元日本兵により多数の住民が殺傷されたことが問題視され、フィリピンの世論を納得させるためにも何らかの対応が必要とされたという。

 

 

フィリピンに対する戦後賠償自体は1956年の日比賠償協定によって解決済みとされていたが、小野田によるフィリピン民間人殺傷と略奪のほとんどは終戦以降に発生したものであり、反日世論が高まることへの懸念から、日本政府はフィリピン側に対し「見舞金」という形で3億円を拠出する方針を決定した。

 

 

こうして、小野田にとっての大東亜戦争が終わり、1974年(昭和49年)3月12日に、日本の羽田空港へ帰国を果たした。

 

 

 

帰国の際に「天皇陛下万歳」を叫んだ事や、現地軍との銃撃戦によって、多数の軍人や住民が死傷した出来事が明らかになった事(フィリピン政府当局の政治判断により、小野田への訴追は行われなかった)、また本当に日本の敗戦を知らなかったのか、という疑問が高まるに連れて、マスコミからは「軍人精神の権化」「軍国主義の亡霊」といった批判も受けた。

 

 

小野田に対し、日本国政府は見舞金として100万円を贈呈するが、小野田は拒否する。

 

拒否するも見舞金を渡されたので、小野田は見舞金と方々から寄せられた義援金の全てを、靖国神社に寄付している。

 

 

昭和天皇との謁見も断り(万が一、天皇陛下が謝罪するようなことを避けるため)、新宿区の国立病院医療センターに入院後、小野田は戦闘で亡くなった島田と小塚の墓を墓参している。

 

 

小野田のフィリピンでの功労は、ニノイ・アキノ国際空港傍にある「フィリピン空軍博物館」に、小野田がフィリピン空軍将軍宛に書いた手紙と共に、展示ケースにて展示されている。

 

また1996年(平成8年)には、かつて活動していたルバング島に、フィリピン空軍の兵士護衛の下、再訪を果たしている

 

 

同じく長期残留日本兵として2年前に帰国し、驚くほど早く戦後の日本に適応した横井庄一と異なり、小野田の場合は、父親との不仲や一部マスコミの虚偽報道もあり、戦前と大きく価値観が変貌した日本社会に馴染めなかった。

 

横井との対談がなんどか企画されたが、実現しなかった。

 

理由は、横井が天皇陛下より拝領れた兵器である銃剣を穴掘り道具に使ったことを聞き、小野田が横井との対談を拒否していたからだという。

 

 

帰国当初は大きな話題になったため、マスコミにつけ回され、一挙手一投足を過剰取材の対象にされて苦しんだ。

 

ヘリコプターが、ゲリラ戦時の敵軍航空機と重なって、悩まされた時期もあったという。

 

帰国の半年後に、次兄のいるブラジルに移住して小野田牧場を経営する事を決意。

 

日本帰国後に結婚した妻の町枝と共にブラジルへ移住し、10年を経て牧場経営を成功させた。

 

 

ブラジルに移民していた実兄の薦めもあり1975年渡伯。

 

 バルゼア・アレグレ移住地 (マット・グロッソ州テレーノス郡: Fazenda Varzea Alegre Mun, de Terence, EST. Mato Grossa do sul.)にて、約1200haの牧場を開拓。7年間は無収入だったが10年目には軌道にのせ1800頭の肉牛を飼育した。

 

1979年5月に発足したバルゼア・アレグレ日伯体育文化協会初代会長に就任。2004年ブラジル空軍より民間最高勲章メリット・サントス・ドモントを授与される。同年マット・グロッソ州名誉州民に選ばれる。)

 

 

その後、「凶悪な少年犯罪が多発する現代日本社会に心を痛めた」として『祖国のため健全な日本人を育成したい』と、サバイバル塾『小野田自然塾』を主宰 (1984年7月) 。

 

2009年5月15日には、「小野田寛郎の日本への遺言」と題した講演を2時間に渡って行った。

 

その後も講演活動を続けていたが、2014年1月16日、肺炎のため東京都中央区の病院で死去した。

 

91歳没。