戦争と兵器 「機甲部隊」 | 戦車のブログ

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機甲部隊とは、戦車・装甲車・自走砲など火力と機動力を有する機械化部隊の総称である。

 

機甲部隊は,戦車部隊を中心とした装甲化された諸兵種連合の部隊をいうが,装甲化された歩兵を中心とした諸兵種連合の機械化部隊を含める場合もある。
 
編成上,火力,機動力,防護力に優れ卓越した攻撃力を発揮し,現代の陸上戦闘の中核的存在である。
 
 
 
 機甲部隊の中心となる戦車は,第1次世界大戦末期に塹壕戦となり膠着状態に陥った戦況打開のため,まずイギリス軍,次いでフランス,ドイツ軍によって開発された。
 
 

機甲師団の特徴は戦車部隊を主力としていることにある。

 

他の部隊は戦車部隊を支援するためにあり、戦車の移動速度に追随するために自動車化・機械化されている。

 

その規模、内容は、国や時期により大きく異なるが、2 - 4個の連隊または旅団から構成され、人員規模は1 - 3万人、戦車の数は数十両 - 数百両である。

 

 

機甲とは、機械化装甲の略称として第二次世界大戦前から使用されており、現在陸上自衛隊でも使用されている用語である。

 

同様の部隊で編成される、機械化歩兵部隊が主体であるものは機械化歩兵師団と呼ばれている。

 

イギリスのArmoured Division、アメリカのArmored Division、ドイツのPanzerdivisionなどが相当するが、日本語訳は書籍・雑誌の出版社・著者・訳者によって表記が異なっており、特にドイツ軍について装甲師団の語も多く用いられている。

 

 

戦車師団と呼ばれることもあるが、戦車部隊の比率がより大きいものが区別されている場合もある。

 

 

第一次世界大戦後に塹壕戦から機動戦への戦術開発の結果、第二次世界大戦で真価を発揮した電撃作戦の主体となった。

 

 

第二次世界大戦当時、米英軍では歩兵師団は既に自動車化されており、現代では先進国の場合、歩兵師団と言えども多数の戦車が配備され、歩兵も装甲兵員輸送車、歩兵戦闘車に運ばれ、機甲師団との違いは大きくない。

 

 

戦車の登場は第一次世界大戦中のことであり、塹壕線突破などが主目的であった。

 

始めは歩兵部隊の支援として、歩兵に従属する形で各車が分散される形で用いられた。

 

 

大戦終了後、各国の軍人(イギリスのジョン・フレデリック・チャールズ・フラー、フランスのシャルル・ド・ゴール、ドイツのハインツ・グデーリアン、ソ連のミハイル・トゥハチェフスキー、アメリカのアドナ・R・チャーフィー・ジュニア、日本の井上芳佐など)や軍事研究家(イギリスのベイジル・リデル=ハートなど)が歩兵ではなく、戦車を主戦力とした部隊の構想を着想した。

 

戦車を主力とし、歩兵をその支援にまわすことで、機動力と打撃力がある部隊が構成でき、それが軍としての理想形だと考えた。

 

 

 

だが、フランスでは要塞マジノ線の建設に軍事費の多くを費やし、軍幹部は歩兵が軍の主力と考えたため、ド・ゴールの意見は採用されなかった。

 

 

イギリス・ソ連での実際に行われた機甲師団の実験も、イギリスでは軍縮政策で、ソ連ではスターリンによる赤軍粛清の際、トゥハチェフスキーら機械化を進めた将校を処刑・追放したことで、頓挫してしまう。

 

 

ドイツはヴェルサイユ条約の厳しい軍備制限(陸軍兵力10万人、海軍1.5万人。参謀本部、潜水艦、空軍、戦車は保持出来ない)によって戦車戦術を研究出来なかったが、張りぼての戦車や「農業用トラクター」と詐称して製造して、ソ連国内の秘密の戦車学校にて戦車戦術を研究した(I号戦車)。

 

 

アドルフ・ヒトラーの後援もあり、世界で機甲師団を最初に編成したのは、ドイツ再軍備宣言後のドイツ国防軍であった。

 

1935年10月15日に第1から第3の三個装甲師団が編成されたのが最初である。

 

 

ロシア戦車は良く言えば安価で実用性が高く後進国では評判がいいが、悪く言えば乗員の居住性軽視・濁ったペリスコープ・歪んだ照準器・貧弱な無線機など細部の質の低さにおいで先進国では悪評が高い。

 

ただしこれはロシア兵に言わせれば西側戦車のほうが贅沢すぎるといったものであり、その質にたよらない物量作戦はバグラチオン作戦を頂点に、兵員の質を誇るナチス・ドイツ軍を撃退した。

 

資本主義国が世界大恐慌に苦しんでいた1930年代、隔絶した経済圏を持つソ連は第一次五カ年計画(1928-32)のもと順調に重工業を発展させていた。

 

農業用トラクターの量産技術が生かされ、1930年先駆的な機械化旅団が創設された。

 

トゥハチェフスキー

 

「縦深作戦理論」という、砲兵と航空機の支援の下、歩兵支援戦車が突入し、遠距離行動戦車が敵陣地(縦深)を突破、敵後方に機械化騎兵を展開し包囲すると言う、独自の戦術を編み出していた。

 

 

しかし、スターリンにより、機械化部隊の編成を行っていたミハイル・トゥハチェフスキー将軍、縦深作戦理論の考案者のウラジーミル・トリアンダフィーロフ将軍、参謀として理論の完成に当たったアレクサンドル・エゴロフ参謀総長らが粛清されたため、この実験は頓挫することとなった。

 

 

ドイツの戦車の大型化にあわせ、T-34は砲塔と主砲を大型化したT-34-85に代わり(1990年代まで発展途上国では現役であった)、KV戦車の後継としてIS-2スターリン重戦車が投入された。

 

最終盤、後のロシア戦車の特徴となる、低姿勢の半円形の砲塔を持つIS-3重戦車が配備されたがヨーロッパにおける実戦には間に合わなかったとされる。

 

IS-3 は戦後1970年代まで東側諸国や発展途上国で使用された。

 

 

1942年、アメリカ陸軍は、機甲師団において、コンバット・コマンドと称する新しい編制を採用した。

 

これは、隷下部隊を持たない戦闘団司令部を2個、師団司令部隷下に常設しておき、必要に応じて、様々な部隊を配属して戦闘団を編成するというものである。

 

当初、戦車と歩兵の連携を軽視していたため戦車部隊の比率が高い編成だったが、戦訓により編成が見直された。

 

 

1943年には、コンバット・コマンドをさらにもう1個増設するとともに、連隊編制を廃して、師団隷下に直接各大隊を配した編制が採用された。

 

ただし、1943年型機甲師団では、機甲兵力がやや減少することから、1942年型機甲師団も重師団と称されて、第2及び第3機甲師団は、この重師団編制のままで残されることとなった。

 

これに対して、1943年型機甲師団は軽師団と称された。

 

第二次世界大戦終結までに第1から第14・第16・第20の16個機甲師団が編成された。

 

 

大日本帝国陸軍では、1934年(昭和9年)3月に編成された小型機甲師団ともいうべき独立混成第1旅団(2個戦車大隊基幹の諸兵科連合部隊)が戦前では唯一のものであった。

 

独立混成第1旅団は1938年(昭和13年)8月には廃止、一方で隷下の機甲部隊は第1戦車団に改変され、以降日本陸軍は3個戦車連隊と司令部からなる「戦車団」3個を有すこととなる。

 

 

ノモンハン事件では第1戦車団を中心に歩兵などを臨時に配属した運用が行われたほか、中国大陸の戦線においては「戦車集団」が何度か臨時に編成され機動打撃力として活動した。

 

 

1941年(昭和16年)2月、陸軍機甲本部が新設されて機甲部隊に関する教育・編制・技術開発の諸業務の統括調整が図られた。そして1942年(昭和17年)6月24日に戦車第1師団・第2師団・第3師団の編成が下令。

 

しかしその編制は、既に大東亜戦争が始まっていたにもかかわらず対ソ連戦を念頭においたものであった。

 

理論上は2個戦車旅団(各2個連隊構成、各連隊は戦車58輛保有)・1個機動歩兵連隊(3個大隊構成)を基幹に機動砲兵連隊・師団速射砲隊・師団捜索隊・師団防空隊・師団工兵隊等から編成されることになっていたが、部隊は編成されたものの肝心の戦車や自動車・砲は揃わないといった状態がほとんどで、その上一部の戦車連隊が抽出されてしまうなどして、その編制すら満足になることはなかった。

 

 

しかも新式戦車は全て本土決戦に向けて温存され、外地部隊は大戦を通して九七式中戦車とそのマイナーチェンジ型から更新されることはなかった。

 

 

1942年7月には満州方面の2個戦車師団等を隷下とする機甲軍が編成されたが、1943年10月に廃止された。

 

 

1944年(昭和19年)7月6日には、本土決戦に備えて千葉陸軍戦車学校などの教導部隊を改編し、戦車第4師団の編成が下令された。

 

戦車連隊3個を基幹にするものの歩兵を欠き、砲兵も最初から分属させるなど戦車第1・第2・第3師団と較べて全く異なる編制で、独立戦闘力のある機甲師団とは呼びがたいものだった。

 

 

 

第二次大戦後、戦車の高性能化が進み、随伴する歩兵や砲兵も進化を遂げた。

 

歩兵部隊は、トラックから装甲兵員輸送車に搭乗するようになり、さらには重武装の歩兵戦闘車が登場している。

 

また、大砲についても、牽引式の大砲は減少し、自走砲化され軽度の装甲をも持つようになった。

 

 

対戦車砲は対戦車ミサイルに取って代わられるなど、各兵器の武装のミサイル化が進んだ。

 

 

日本においては北海道に陸上自衛隊第7師団が編成されているが、これは事実上の機甲師団である。

 

自衛隊における唯一の機動打撃部隊であり、北海道防衛の要と考えられていた。

 

 

90式戦車および10式戦車を装備する3個戦車連隊、89式装甲戦闘車をふくむ1個普通科連隊(実質的な機械化歩兵連隊)を基幹とし、特科・高射特科もふくめて、全部隊が機械化されている。

 

 

但し、人員6500名弱と旅団規模である事、戦車部隊に随伴すべき普通科部隊や特科部隊の規模の小さいことなどの問題も指摘されている。