ノモンハン事件80年目の夏 かつての戦場は…“日本軍大敗”史観の宣伝いまも | 戦車のブログ

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中国側のノモンハン事件か・・・・・。

 

ノモンハン事件では北海道から第七師団も出動し多くの将兵が戦没された。

 

満州国軍と関東軍がソ蒙軍と戦ったが、記事に書かれているように日本もソ連も正確な戦死傷者は解っていたない。

 

日本側も意図的な改竄があったり、戦死した者が実はソ連軍の捕虜に結構なっていたりと不都合な真実があり、捕虜交換で帰って来た日本兵に・・・・黒い歴史があったりする。

 

ソ連に残った日本兵捕虜も多かったというしね・・・・。

 

以下産経ニュースより転載

 

 

 

 中国とモンゴル国境付近に、かつて日本軍とソ連軍が激戦を交わしたノモンハンがある。

 

現在は牛や馬が放牧された草原が広がっているにすぎない。

 

戦闘発生から80年目の夏、中国人観光客でにぎわう内モンゴル自治区の戦場跡を訪ねた。

 

 

 

 

 日本でノモンハン事件と呼ばれる戦闘は、1939(昭和14)年の5月から9月まで続いた。

 

 

日本軍・満州国(当時)軍と、ソ連(同)軍・モンゴル人民共和国(同)軍が参戦、モンゴルでは「ハルハ川戦争」、中国では「ノモンハン戦争」と呼ばれている。

 

 

 発端は満州国とモンゴル人民共和国の国境をめぐる対立で、それぞれの国を後押しする日本とソ連が介入し本格的な武力衝突に発展した。

 

 

 戦場は現在のモンゴルと中国にまたがっていて、激戦が繰り広げられたハルハ河畔はモンゴル領内にある。

 

中国側の戦場跡は草原が広がるばかりだった。

 

 

 内モンゴル自治区のハイラルから車で3時間余り、二百数十キロ離れた草原の真っただ中に「ノモンハン戦役遺跡陳列館」がある。

 

 

 現在、陳列館は改装工事中で、土産物店しか開業していない。

 

訪れたのは7月下旬の平日だったが、100人近くの中国人観光客が押し寄せていた。

 

周辺の草原には戦車や軍用機が無造作に展示されているだけ。

 

観光客たちは中国国旗が掲げられた戦車によじ登ったり、砲身にまたがったりして写真を撮っていた。

 

 「とにかく大草原を見たかったんです。ノモンハン戦争? ここに来て初めて知りました。本当に日本という国は中国のあちこちに戦争の足跡を残しているんですね」

 

 

 黒竜江省から来た女子高校生(18)は楽しそうだった。

 

 

土産物店にノモンハン事件の説明板があった。

 

 

 「日本の関東軍とソ連・モンゴル軍の局地的な正規戦、それがノモンハン戦争である」「航空戦、戦車戦など、当時の世界軍事史上空前の規模だった」などと記されていた。

 

 

 問題はその後である。

 

「日本の関東軍は5万4000人余りの兵力を消耗した」とあった。

 

ハイラルで見学した戦争記念館でも、日本軍のノモンハンでの死傷者は「5万4000人」で統一されていた。いずれも根拠は示されていない。

 

 

 1988年に中国で出版された『ノモンハン戦争』(吉林文史出版社)には、ソ連側が公開したものとして「日本・満州軍死傷者5万2000~5万5000人、ソ連・モンゴル軍死傷者1万8500人」などの数字が紹介されている。

 

 

 「戦後、ソ連側の死傷者情報が正確ではなかったため、ノモンハンでは『日本軍が5万~6万人もの死傷者を出して大敗した』と広く認識されていた」

 

 

 こう指摘するのは、ノモンハン戦役遺跡陳列館の開設に携わった、内モンゴル自治区新バルグ左旗(旗は行政単位)の巴図孟和・文物管理所長(60)だ。

 

 

 「ところが、ソ連崩壊後に情報公開が進み、ソ連側の被害も甚大だったことが明らかになった」という。

 

 

 

 ソ連としては「戦勝」を宣伝する上で、日本側の損害を過大に報告し、自国の損害の実態については秘匿する必要があった。

 

 

 現在では一般に、日本の死傷者約1万7000人、ソ連の死傷者約2万5000人とされている。

 

ソ連の人的損失の方が大きかったというのは今や定説だ。

 

 

 

 ノモンハンの説明板はこう締めくくられていた。

 

 

 「この戦争は世界反ファシズム戦争史上、最も重要な1ページでもある」

 

 

 中国では、「抗日戦争」を通じて、その「世界反ファシズム戦争」の勝利に大きく貢献したのが中国共産党だと教えられている。

 

 

 共産党にとっては、「最も重要」と位置づけたノモンハンの戦闘で、ソ連の被害の方が大きかったことは不都合な真実なのだ。

 

 

 “日本軍大敗”史観は今もなお中国で受け継がれ、宣伝されていた。

 

 

 

 そもそも、中国がノモンハンに同陳列館を建設した目的は何か-。

 

 

 同陳列館は、日本兵の鉄兜や火炎瓶、遺品などを集めて1989年に開館したが、目的は「歴史教育」ではなかった。

 

 

「観光開発だった」(新バルグ左旗の当局者)という。

 

 

 中国では80年代、「シルクロードブーム」などによって日本人観光客が増え始めていた。

 

 

 だが、開館した89年に、学生らの民主化運動を武力鎮圧した天安門事件が発生。

 

観光客数の伸びにブレーキが掛かったものの、徐々に回復し、ノモンハンを訪れる戦友会のメンバーや遺族たちが増えていった。

 

 

「夏のシーズンに計250人以上の日本人が来たこともあった」(地元観光業者)という。

 

 

 それでも最近は、訪れる日本人が少なくなったようだ。

 

近くのノモンハン村の食堂で聞くと、「日本人は6、7年前に来たのが最後」らしい。

 

 

 村には、故平山郁夫画伯の寄付金をもとに99年に建設された小学校があった。

 

しかし過疎化が進んで廃校となり、校舎は野ざらしになっていた。

 

 

 村の脇を大型バスが猛スピードで走り去っていく。

 

 

 ノモンハン事件発生から80年目の夏。

 

かつての戦場は、その歴史さえ知らない中国人観光客たちが訪れて牛や馬と戯れる草原と化していた。(中国総局長)

 

 

 

(産経ニュース)

 

 

ノモンハン事件には表に出てこない黒い歴史がある。

 

敢えてここには書かないが、そういう話は現代日本にも通じる日本社会の縮図のような気がする。

 

現代にもノモンハン当時の関東軍作戦参謀辻政信のようなエリート軍人が少佐レベルで好き勝手にやりたい放題やって責任もとらずに一時的に閑職に就いて気がついたらまた中央に戻ってきてやりたい放題やって・・・・・。

 

そんなエリートは官庁の官僚にも民間企業の会社員にもきっといるだろう。

 

私はノモンハン事件を随分調べてノモンハンへ従軍した方に話しを伺った。

 

話を伺った方で生きている方はほとんどいない。

 

 

最近、友人のノモンハン本が文庫化された。

 

お盆はじっくり読もうかな、単行本ではとっくに読んでいるのだけれどね。