呉という街は歴史も古く、近代には軍港として大きく発展した。
広島県といえば「反戦」というイメージが強い県だが、呉は戦艦大和の故郷であり、海上自衛隊の街として今も海軍の軍港としての歴史に触れることができる街である。
以下産経ニュースより転載
明治維新から150年。発足したばかりの明治政府にとって、最大の課題の一つが近代的海軍の建設だった。
明治中期に整備された日本最大の軍港を擁した広島県呉市を訪ね、旧海軍の歴史に日本近代化の成功と失敗、そして現代につながるヒントを求めた。
県南西部に位置し瀬戸内海の島々を防波堤に、穏やかで深い入り江を備えた天然の良港、呉。JR呉駅から南に1キロほど離れた小高い丘「歴史の見える丘」に上ると、三方を山に囲まれたすり鉢状の地形が特徴的な港を一望できる。
眼下にはかつて戦艦大和を建造したドックの上屋など旧呉海軍工廠(こうしょう)を引き継いだ巨大な造船施設が広がる。
現在は大和より大きな全長約360メートルに及ぶ大型コンテナ船が建造中で、林立するクレーンや赤レンガの建物など、往事の「東洋一の軍港」の威容がしのばれる。
一帯には、明治22(1889)年から旧海軍の鎮守府が置かれていた。
鎮守府とは、軍港に置かれた海軍の本拠地のことで、管轄の各海軍区の防衛に当たるほか、工廠や病院など多くの関連施設の運営監督を担当。
明治の中期までには呉のほか横須賀や佐世保、舞鶴の4カ所に設置され、日本の海防体制が整えられた。
西洋列強に対抗
明治初期までの呉は、瀬戸内のどこにでもあるような半農半漁の小さな町にすぎなかった。
なぜここに、鎮守府と日本一の海軍工廠が開かれることになったのか。
『呉海軍工廠の形成』(錦正社)の著書があり、呉軍港の歴史に詳しい千田武志・呉市参与は、その理由を「当時の欧米列強と日本の国力差を考えた結果だった」と語る。
明治政府が横須賀に続く「第二海軍区鎮守府」の場所を呉に決めたのは明治19年。
最初から海軍最大の造船所を置くことを前提とした、周到な用地調査の末の選定だった。
「戦争になった場合、外海に面した横須賀や長崎に造船所があればたちまち攻撃されてしまう。しかし瀬戸内海の奥に位置し、いくつもの瀬戸(狭い海峡)に隔てられた呉には敵艦も入れない」
当時、海軍力の整備は国家の存立に関わる喫緊の課題だった。莫大(ばくだい)な国家予算を投じて海軍建設を急いだのは「ペリー艦隊の衝撃が非常に大きかったからだ」と、戦艦大和を中心にした呉の歴史を扱う博物館「大和ミュージアム」(呉市)の戸高一成館長は指摘する。「たった4隻の軍艦をやすやすと江戸湾深く、江戸城に大砲が届く位置まで入れてしまった。西洋列強は海軍をもって世界を制覇し、植民地化している。それに対抗するには、日本も海軍を持つしかない、と」
軍艦国産化に力
江戸幕府は長崎海軍伝習所を設置するなどして近代的海軍の造成に着手し、明治政府もその土台の上でさらに海軍増強に邁進(まいしん)した。
中でも力を入れたのが軍艦の国産化だった。
日清、日露の両戦役で使われた主要な軍艦は、ほとんどが外国製だったが、千田参与は「単純に、外国から艦を買っていたから日本には技術がなかった、とはいえない。日本は軍艦を買うとき、中国などとは違って、必ず自分たちで造る、ということを前提にしていた」と話す。
軍艦購入の際には、発注先に必ず技師を送りこむ。
その艦が回航されてくると、修理や改造を重ねて造船や特殊鋼、砲の製造など幅広く技術を高めていった。
明治36年、呉鎮守府内に置かれていた造船部門と兵器製造部門が統合され、呉海軍工廠が発足した際には、すでにかなりの技術的蓄積ができていた。
大正2年に英国で竣工(しゅんこう)した戦艦金剛を最後に以後、主要艦艇はすべて国産化される。
戸高館長は、旧海軍の70年あまりの歴史を概括して、こう語る。
「前半はヨーロッパに追いつこうと懸命に努力して、わずか50年ほどでおおむね達成。70年目で世界一の戦艦である大和を造るほどにまで発展した。技術導入の歴史としては驚くべき成功といえる」。
海軍は名実共に、日本近代化のトップランナーだった。
【用語解説】呉港
海軍の一大拠点として発展し、第二次世界大戦中の呉市の人口は広島市に迫る約40万人(現在約23万人)、工員ら約10万人に及ぶ日本一の海軍工廠を擁する都市となった。
平成28年、旧軍港の横須賀、佐世保、舞鶴の3都市とともに文化庁の「日本遺産」に指定された。
(産経ニュース)
ドッグの見える丘へ行ったことを思い出した。
友人を車椅子に乗せ呉地方総監部前の坂道を車椅子を押して坂道を登った。
坂の上にはたくさんの記念碑があり、戦艦大和を建造したというドッグや、改修中の護衛艦が見えた。
まさしく歴史の見える丘であった。
その時、一緒に居た友人はもういない・・・。