『日本海大海戦』は、1969年に東宝が製作した日本の戦争映画。
『東宝8・15シリーズ』の第3作とされるが、前2作と異なり日露戦争を題材としている。
監督 | は、丸山誠治。 |
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音楽は佐藤勝。
日露戦争開戦から、乃木希典による旅順攻略、日本海海戦における東郷平八郎率いる連合艦隊がバルチック艦隊を撃破するまでを描く。
「日本海大海戦」は、特撮の神様と呼ばれた円谷英二が実質的に特技監督として参加した最後の映画作品となった。
艦船のミニチュアは美術スタッフ60人を動員して107隻が用意された。
また、戦艦三笠のミニチュアは13メートルにおよぶ巨大なものが造られた。
海戦シーンでは、日露戦争当時では太平洋戦争当時よりも砲弾の威力が弱いことを考慮し、フロンガスによって水柱を表現している。
佐藤勝の戦争作品でもっとも有名で人気があるのは『日本海大海戦』の「日本海マーチ」であり、金管楽器と木管楽器が織り成す軽快な行進曲に男女混声合唱が加わるこの曲は、戦争音楽の傑作として知られている。
義和団の乱の後、出兵した英、米、仏、独、日、伊、墺の各国は兵を引き揚げたが、ロシアだけは満州に5万の兵を留め、さらに増強していた。
日本の再三再四の抗議も成果がなく、ついに交渉は途絶した。
1904年1月12日、宮中の御前会議で日露開戦に傾いたことを受け、明治天皇は「国交断絶は両国の不幸である」とロシア皇帝に直接電報を打つ旨を述べた。
だが、ロシア政府からの返事は無かった。
海軍大臣・山本権兵衛は海軍の即時行動を伊藤博文に進言した。
2月5日、日露の国交は断絶し、連合艦隊司令長官・東郷平八郎はバルト海より来るバルチック艦隊との対決に備え、旅順の攻略に取りかかった。
聨合艦隊司令長官東郷平八郎役は三船敏郎が演じている。
三船敏郎は、1940年(昭和15年)、徴兵・甲種合格で兵役に就いた。
中国大陸で育ったことから、徴兵に際し死を覚悟し、父親の勧めで初めて日本(神戸)の土を踏んだ。
写真の経験・知識があるということから満洲国・公主嶺の陸軍第七航空隊に配属されるが、そこでのしごきが凄まじく、一発二発のビンタでは倒れないのでよけいに殴られ、声が大きいだけでも殴られ、顔が変形するほどだったと、テレビのインタビューで語った。
そこで写真業の手伝いをしていた腕を見込まれて、航空写真を扱う司令部偵察機の偵察員となった。
その後、1941年(昭和16年)に内地で、滋賀県八日市の八日市飛行場「中部九八部隊・第八航空教育隊」に写真工手として配属され(後に第七中隊の特別業務上等兵として炊事の責任者をしていた。)
上官に対して反抗的な態度を取っていたので、「古参上等兵」のまま6年間を過ごした。
1945年(昭和20年)の戦争末期には熊本の隈之庄の特攻隊基地に配属され、出撃前の隊員の遺影を撮る仕事に従事した。
写真班で、航空写真をもとに要地の地図をつくるとともに、少年兵の教育係も任された。
自分が育てた後輩たちが、次々と南の海で死んでいくのを見送ることとなる。
終戦後にこの戦争体験を「悪夢のような6年間」と述懐したという。
長男 史郎の話によると、翌日出陣する少年兵にはスキヤキを作って食べさせたと涙を流して語ったという。
また少年兵に向かって、最後のときは恥ずかしくないから「お母ちゃん」と叫べと言っていたという。
後に、「あの戦争は無益な殺戮だった」と、海外のマスコミの取材に対して語った。
戦争で徴兵されていた頃、三船は喧嘩になると階級章を外して「俺も外すから、お前も外せ。お互い階級章をはずして、人間対人間で行こう!」と言ってタンカを切り、そうすると相手は意気消沈してしまったという。
他の兵隊がいじめられているのを見た時には「同じ日本人なのに何でいじめるんだ。俺は俺の階級を忘れる。お前もお前の階級を忘れて俺と勝負しろ」 と言ったという。
三船敏郎は海軍元帥である東郷平八郎や山本五十六を数多く演じたことでも知られる。
邦画・ハリウッド映画を含め、山本五十六を演じた回数では現在でも三船がトップである。