陸軍士官学校校歌 | 戦車のブログ

戦車のブログ

戦車のことなど書いてます。
アメンバー・メッセージ、ペタは受け付けていませんので御了承下さい。
ブログの内容・文章・画像を許可無く無断転載を禁じます。
悪質な場合は著作権侵害となりますのでご注意下さい。

 

 

軍隊とか自衛隊には軍歌とは違い部隊歌や校歌がある。

 

自衛隊でも「隊歌」がある。

 

旧軍の学校や部隊歌も今年は紹介してゆこうかと思う。

 

旧軍出身者も年々減り、かつては全国的に知られていた歌も忘却されて行きつつある。

 

旧日本陸海軍の歌を紹介することで少しでもかつて日本にはこういう組織がありそこに歌があったことを知って欲しい。

 

陸軍士官学校校歌はその第一弾です。

 

 

陸軍士官学校は、大日本帝国陸軍において現役兵科将校を養成する教育機関(軍学校)のこと。

 

通称・略称は陸士(りくし)、士官学校

 

自衛隊で「陸士」と言えば旧軍でいう「兵」のことで、解っていない人はよく混同する。

 

英語圏では、Imperial Japanese Army Academyとして知られている。

 

 

陸士校歌として、1921年(大正10年)に『陸軍士官学校校歌』が制定された。

 

 

作詞は第36期の寺西多美弥、作曲は陸軍戸山学校軍楽隊。 

 

 

本歌は1923年に歌詞を大改訂し再制定されている。

 

 

陸軍士官学校本科(旧)ないし陸軍士官学校(新)と、陸軍士官学校予科(旧)ないし陸軍予科士官学校(新)とで校歌は事実上共通であるが、陸軍航空士官学校は別に『陸軍航空士官学校校歌(作詞は第51期の久保田八雄、作曲は陸軍戸山学校軍楽隊)』が制定されている。

 

 

市ヶ谷台時代の歌詞では「市ヶ谷台」・「戸山代々木」などとされていたものは、陸士の座間移転後は「相模原の」・「富士の裾野」、予士の朝霞移転後は「振武の台」・「大武蔵野」などと一部変えて歌唱されているほか、歌詞番の加減も行われた。

 

 
陸軍士官学校校歌

    太平洋の 波の上
    昇る朝日に 照りはえて
    天(あま)そそり立つ 富士が峰(ね)の
    とわに揺るがぬ 大八洲(おおやしま)
    君のみたてと えらばれて
    集まり学ぶ 身の幸(さち)よ

    誉れも高き 楠(くすのき)の
    深き香りを したひつつ
    鋭心(とごころ)磨く 我等には
    見るもいさまし 春ごとに
    赤き心に 咲き出(い)づる
    市ヶ谷台の 若桜

    隙(ひま)ゆく駒の たゆみなく
    文武の道に いそしめば
    土さへ劈(さ)くる 夏の日も
    手(た)にぎる筆に 花開き
    星欄干(らんかん)の 霜の晨(あさ)
    揮(ふる)ふ剣に 龍躍(おど)る

    いざや奮ひて 登らばや
    困苦の岩根 踏みさくみ
    理想の峰に 意気高く
    鍛へ鍛ふる 鉄脚の
    歩ごと聞かずや 誠心を
    国に捧ぐる その響き

    ああ山ゆかば 草蒸すも
    ああ海ゆかば 水漬(みづ)くとも
    など顧みん この屍(かばね)
    われら股肱(ここう)と のたまひて
    いつくしみます 大君の
    深き仁慈(めぐみ)を 仰ぎては

 

 

明治元年8月に京都に設置された兵学校(後に兵学所と改称)が起源とされ、これは明治2年9月に大阪へ移転して兵学寮となる。

 

 

さらに1871年(明治4年)、大阪兵学寮は陸軍兵学寮と海軍兵学寮に分離され、12月7日には東京の和田倉門外に移転する。

 

 

翌1872年(明治5年)12月28日、陸軍兵学寮の中に「士官学校」「幼年学校」「教導団」の三校舍を設けた。

 

 

他の教育機関と異なり、卒業後わずか20歳そこそこで高等官(予科入校後は本科に進み卒業後は極短期間の見習士官を経て陸軍少尉に任官すると高等官八等たる奏任官六等)になれる陸士は魅力的で、全国の旧制中学校の秀才を集め、「一高・海兵・陸士」と並び称されるほどであった。

 

 

また、資金難など生活面から旧制高校や大学予科などの上級学校に進学できない、ないし旧制中学を途中退学せねばならない家庭の子にとって、授業料なく無償で高等教育(第二次世界大戦後は旧陸士卒業生の進学等では、短期大学相当の教育程度と認定されている)を受けられる陸士は憧れの的であった。

 

 

1937年に、陸軍士官学校本科は陸軍士官学校と改称され、陸軍士官学校予科は陸軍予科士官学校となる。

 

 

同年8月、陸軍士官学校は座間に移転し、卒業式に行幸した昭和天皇から相武台の名が与えられた。

 

 

さらに同年10月1日、航空兵科将校となすべき生徒及び学生の教育を行うために、陸軍航空士官学校分校が設置された。

 

 

翌1938年12月に同分校は陸軍航空士官学校として独立し、1941年に修武台の名が与えられる。

 

 

航士では専門教育のため早期に入校をさせ、原則として隊付勤務をしなかった。

 

 

1941年には予士が朝霞に移転し、振武台の名が与えられた。

 

 

1938年に陸士本科の修学期間が1年8ヶ月に短縮され、更に1941年に1年間に短縮される。

 

 

1945年(昭和20年)6月に第58期生が卒業し少尉に任官、これは陸士最後の少尉任官期となる。陸軍士官学校が閉校されるのに際して、在校中の第59期生には特別に卒業資格を与えられた。

 

 

第60期生は、8月28日閣議決定により筆記試験無しで文部省所管の学校に転入させる措置が取られたが、当時の一高はその指示に逆らって転入試験を実施した。

 

陸士全体では、予士在校中に終戦を迎えた第61期生が最後である。