玉砕 ~甦らぬ英霊二百万~ アッツ島・キスカ島 | 戦車のブログ

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北部軍司令官樋口季一郎中将が慰霊祭で長々と頭を垂れているシーンがとても印象的だ。

 

 

アッツ守備隊玉砕の報告は5月30日に昭和天皇に伝えられた。

 

 

昭和天皇は、上奏をした杉山元参謀総長へ「最後まで良くやった。このことをアッツ島守備隊へ伝えよ」と命令した。

 

 

杉山はすかさず「守備隊は全員玉砕したため、打電しても受け手が居りません」と言った。

 

 

これに対して昭和天皇は「それでも良いから電波を出してやれ」と返答した、という。

 

 

こうして、無念にも散って逝った守備隊へ向けた昭和天皇の御言葉が、決して届かないであろう事を承知した上でアッツ島へ向けて打電されたという。

 

 

アッツ島での玉砕の報を聞いた時に東条英機首相・陸軍大臣は声をつまらせてむせび泣いたという。

 

 

 

アッツ島の戦いは、1943年(昭和18年)5月12日にアメリカ軍のアッツ島上陸によって開始された日本軍とアメリカ軍との戦闘である。

 

 

山崎保代陸軍大佐の指揮する日本軍のアッツ島守備隊は上陸したアメリカ軍と17日間の激しい戦闘の末に玉砕した。

 

 

太平洋戦争において、初めて日本国民に日本軍の敗北が発表された戦いであり、また第二次世界大戦で唯一、北アメリカで行われた地上戦である。

 

 

アニメ「決断」では解りやすくアッツ島やキスカ撤退作戦を描いている。

 

 

日本軍は1942年(昭和17年)6月に海軍のミッドウェー作戦の陽動作戦としてアリューシャン列島のアッツ島をキスカ島と共に攻略、占領して「熱田島」と改称した。

 

 

アッツ島には6月8日、旭川第7師団の穂積部隊(北海支隊独立歩兵第三〇一大隊と配属部隊の独立工兵一個中隊)の約1,100名が衣笠丸で上陸し、キスカ島には海軍部隊が上陸した。

 

 

 

ところが穂積部隊はアメリカ軍がキスカ島に上陸するという情報を受け、9月18日にキスカ島に転進した。しかしアッツ島を無人にするわけにもいかず、アメリカ軍の空襲に遭いながらも、占守島を守備していた米川中佐が率いる北千島第89要塞歩兵隊の2,650名が10月30日に進出してアッツ島守備隊となり、飛行場と陣地の建設を開始した。

 

 

 

一年のほとんどが霧か時化と言う気候のため、守備隊にはストレスのあまり精神を病む者が続出した。

 

 

 

1943年(昭和18年)になると、アメリカ軍はアッツ島への圧力を強め、時折建設中の飛行場へ空襲や艦砲射撃を加えており、アメリカ軍の上陸は間近と予想された。

 

 

同年2月に山崎保代大佐が北海守備第2地区隊長に任命され、アッツ島守備隊長としての着任、人員・武器弾薬・物資の増援が計画された。

 

 

まず第一次増援輸送として、3月10日には君川丸、粟田丸がアッツ島に到着して輸送を成功させた。

 

 

続いて第二次増援輸送として、3月27日に輸送船2隻(浅香丸、崎戸丸。山崎保代大佐同乗)と三興丸が日本海軍第五艦隊に護衛されてアッツ島に到着予定であった。

 

 

しかしアッツ島沖海戦が生起し第五艦隊は撤退し、この輸送は中止された。

 

 

山崎保代大佐も上陸できなかったため、4月18日に「伊31」潜水艦に便乗して着任した。

 

 

アメリカ軍はアッツ島への上陸作戦を5月7日とした。この時期はアッツ島周辺では一年霧があるうちでももっとも霧の多い時期であった。

 

 

 

軍令部第一課長山本親雄大佐は「敵が五月アッツ島に上陸するとは考えていなかった。来てもまずキスカ島であろうと考えていた」と回想している。

 

 

米軍の計画では3日で全島を制圧する予定であった。

 

 

1943年5月5日、ロックウェル少将が率いる、戦艦3隻、巡洋艦6隻、護衛空母1隻、駆逐艦19隻などからなる攻略部隊、第51任務部隊がアラスカのコールド湾を出港した。

 

 

上陸部隊はA・E・ブラウン陸軍少将が指揮する陸軍第7師団1万1000名であった。アメリカ軍の作戦名は「ランドクラブ作戦 (Operation Landcrab)」という。

 

 

上陸部隊は洋上で天候回復を待って、5月12日に上陸を開始した。

 

 

主力は霧に紛れて北海湾(Holtz Bay)と旭湾(Massacre Bay)、さらに北部海岸に上陸し、抵抗を受けることなく海岸に橋頭堡を築くことに成功した。

 

 

 

 

 

アメリカ軍は戦艦2隻でアッツ島を砲撃したが有効な損害を与えられなかった。

 

 

地上戦は1日目は両軍とも霧に遮られ、散発的な戦闘を行っただけであった。

 

 

2日目の5月13日に北海湾から上陸したアメリカ軍北部隊は周辺を一望できる芝台(Hill X)にある日本軍の陣地を霧に紛れて接近、包囲し、一個中隊に陣地を攻撃させた。

 

 

日本軍はすかさず機関銃と小銃射撃でこれを撃退したが、陣地の位置が露見し、野砲と艦砲の激しい砲撃と艦上機からの銃爆撃を浴びせられ、たこつぼと塹壕だけの陣地は大きな損害を受け100名前後の戦死者が出るにいたって守備隊は芝台陣地を放棄し退却した。

 

 

芝台を奪われた日本軍は西浦(West Arm)の南の舌形台(Moore Ridge)に防御の拠点を移し、高地を巡って15日まで米軍と激しい戦闘を行った。

 

日本軍は高射砲を水平射撃してアメリカ軍を砲撃したが、精度は低かった。

 

 

 

一方、旭湾に上陸したアメリカ軍南部隊も前進を開始した。

 

平地の霧が晴れる一方、山上の日本軍陣地は霧に包まれたままであったという。

 

 

米軍兵士の証言によると、戦艦ネバダの14インチ砲が火を噴くたび、日本兵の死骸、砲の破片、銃の断片、それに手や足が山の霧の中から転がってきたという。

 

 

この部隊は虎山(Gilbert Ridge)と臥牛山に挟まれ三方を山地に囲まれた渓谷で日本軍と遭遇し、三方向からの十字砲火を受け第17連隊長アーノル大佐が戦死し混乱状態に陥った。

 

 

この渓谷はアメリカ軍に「殺戮の谷」(Massacre Valley)と称されることになる。

 

 

その後、北部隊と合流すべく臥牛山の日本軍陣地に一個大隊で攻撃を仕掛けたが、高地から平原を見下ろす日本軍は迫撃砲や機銃などでこれを防ぎ、アメリカ軍を海岸まで後退させた。

 

 

 

各地で日本軍はアメリカ軍の攻撃を防いでいたが、15日にはアメリカ軍の砲爆撃によってアメリカ軍北部隊を押さえていた日本陣地が損害を受け、16日アメリカ軍はこの機を逃さずに部隊を前進させた。

 

 

北部の日本軍は舌形台を放棄し、山崎部隊長は戦線を熱田(Chichagof)に後退させた。この際に守備隊は武器弾薬の補給及び一個大隊の増援の要請をおこない、揚陸地点を指定した電報を打った。

 

 

同じく南部の陣地も砲爆撃を受け、これにあわせてアメリカ軍は戦車5両を突入させ一気に突破を図り、南部の日本軍は戦線縮小の命令を受け後方の陣地に転進した。

 

 

18日からアメリカ軍は勢いに乗り縮小された日本軍の戦線に攻撃を加えたが、日本軍の各陣地は、将軍山(Black Mountain)や獅子山(Cold Mountain)の高地に拠って抵抗し寡兵をもってよくアメリカ軍の攻撃を撃退した。

 

 

特に荒井峠(Jarmin Pass)の林中隊は一個小隊でアメリカ軍二個中隊の攻撃を防いだ。

 

 

 

ブラウン少将は増援を要求したが16日に解任され、ユージーン・ランドラム少将が代わりの指揮を執った。

 

 

18日、大本営は「熱田奪回の可能性薄し」とアッツ島放棄を決定した。当時の参謀次長秦彦三郎中将は「陸海軍共反撃作戦を考えたが、若松只一第三部長から船を潰すから成り立たぬという意見があり、さらに海軍も尻込みしたので反撃中止になった」と回想している。

 

 

21日に北方軍司令部の樋口季一郎中将に増援の派遣中止を通告した。戦史叢書には樋口の回想が記載されている。

 

 

『“参謀次長秦中将来礼、中央部の意思を伝達するという。彼曰く「北方軍の逆上陸企図は至当とは存ずるがこの計画は海軍の協力なくしては不可能である。大本営陸軍部として海軍の協力方を要求したが海軍現在の実情は南東太平洋方面の関係もあって到底北方の反撃に協力する実力がない。ついては企図を中止せられたい」と。

私は一個の条件を出した。「キスカ撤収に海軍が無条件の協力を惜しまざるに於いては」というにあった。(中略)海軍はこの条件を快諾したのであった。そこで私は山崎部隊を敢て見殺しにすることを受諾したのであった。”』

 

 

生き残った傷だらけの最後の日本兵300名は無線機を破壊すると夜の内に米軍の上陸地点を見下ろす台地に移動し、そこから山崎部隊長を陣頭に平地へ下る形で最後の突撃を行った。

 

 

この意表を突いた突撃によってアメリカ軍は混乱に陥った。

 

 

日本軍は大沼谷地(Siddens Valley)を突き進み、次々とアメリカ軍陣地を突破、戦闘司令所や野戦病院、舎営地を蹂躙しアメリカ軍曰く“生物はもちろん無生物までも破壊”した。

 

 

日本軍の進撃は止まらず、遂には第7師団本部付近にまで肉薄する事態となるが、雀ヶ丘(Engineer Hill)で猛反撃を受け全滅。最後までアメリカ軍の降伏勧告を拒否して玉砕した。

 

 

なおこの突撃中、山崎部隊長は終始、陣頭で指揮を執っていた事が両軍によって確認されている。

 

 

米軍のある中尉は右手に軍刀、左手に国旗を持っていたという証言を残している。

 

 

 

日本軍の損害は戦死2,638名、捕虜は29名で生存率は1パーセントに過ぎなかった。

 

 

アメリカ軍損害は戦死約600名、負傷約1,200名であった。

 

 

28日夜、日本海軍の空母機動部隊は東京湾を出撃したが、守備隊が全滅したとの報と、事前に派遣した潜水艦が敵空母を発見できなかったため翌日に作戦は中止となり29日の夕方に東京湾に帰還した。

 

 

同じくアッツ島沖の第一水雷戦隊も幌筵へ引き返した。

 

 

 

30日、大本営はアッツ島守備隊全滅を発表し、初めて「玉砕」の表現を使った。

 

 

それまでフロリダ諸島の戦いなどで前線の守備隊が全滅することはあったがそのようなことが実際に国民に知らされたのはアッツ島の戦いが初めてであり、また山本五十六の戦死の発表の直後だったため、日本国民に大きな衝撃を与えた。

 

 

大本営は「山崎大佐は常に勇猛沈着、難局に対処して1梯1団の増援を望まず」と報道したが、実際には上記のとおり5月16日に補給と増援の要請を行っており、虚偽の発表であった。

 

 

 

1943年9月29日、アッツ島守備隊将兵の合同慰霊祭が、札幌市の中島公園で行われた。

 

 

 

アッツ撤退に関しては、海軍の作戦指導に対して陸軍では釈然としないものがあったという証言があり、陸軍参謀総長杉山元及び参謀次長は「アッツ問題に関連して海軍が協力してくれなかったと言う風ことは一切言うな」と発言している。

 

 

アッツ島の喪失によってよりアメリカ本土側に近いキスカ島守備隊は取り残された形となったが、日本軍はキスカ島撤退作戦を実施し、木村昌福少将率いる救援艦隊によって脱出・撤退に成功した。

 

 

1950年にアメリカ軍によってアッツ島に以下の文面が書かれた記念碑が設置された。

 

 

「第二次世界大戦 1943年

 

 

日本の山崎陸軍大佐はこの地点の近くの戦闘によって戦死せられた。

 

 

山崎大佐はアッツ島における日本軍隊を指揮した。

 

場所 エンジニアヒル クレヴシー峠

 

第17海軍方面隊指揮官の命により建立した。1950年8月」