學徒出陣「生等もとより生還を帰せず」 | 戦車のブログ

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學徒出陣とは、大東亜戦争終盤の1943年(昭和18年)に兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系(および農学部農業経済学科などの一部の理系学部の)学生を在学途中で徴兵し出征させたことである。

 

 

日本国内の学生だけでなく、当時日本国籍であった台湾人や朝鮮人、満州国や日本軍占領地、日系二世の学生も対象とされた。

 

 

「学徒動員」と呼ばれることもある。

 

 

従来、兵役法などの規定により大学・高等学校・専門学校(いずれも旧制)などの学生は26歳まで徴兵を猶予されていた。

 

しかし兵力不足を補うため、次第に徴兵猶予の対象は狭くされていった。

 

 

まず1941年(昭和16年)10月、大学、専門学校などの修業年限を3ヶ月短縮することを定め同年の卒業生を対象に12月臨時徴兵検査を実施して、合格者を翌1942年(昭和17年)2月に入隊させた。

 

 

この1942年(昭和17年)には、さらに予科と高等学校も対象として修業年限を6ヶ月間短縮し、9月卒業、10月入隊の措置をとった。

 

 

そして、さらなる戦局悪化により翌1943年(昭和18年)10月1日、当時の東條内閣は在学徴集延期臨時特例(昭和18年勅令第755号)を公布した。

 

 

これは、理工系と教員養成系を除く文科系の高等教育諸学校の在学生の徴兵延期措置を撤廃するものである。

 

 

この特例の公布・施行と同時に昭和十八年臨時徴兵検査規則(昭和18年陸軍省令第40号)が定められ、同年10月と11月に徴兵検査を実施し丙種合格者(開放性結核患者を除く)までを12月に入隊させることとした。

 

 

この第1回学徒兵入隊を前にした1943年(昭和18年)10月21日、東京の明治神宮外苑競技場では文部省学校報国団本部の主催による出陣学徒壮行会が開かれ、東條英機首相、岡部長景文相らの出席のもと関東地方の入隊学生を中心に7万人が集まった。

 

 

出陣学徒壮行会は、各地でも開かれた。

 

 

しかし翌年の第2回出陣以降、壮行会は行われなかった。

 

 

 

1943年(昭和18年)10月21日に開催された神宮外苑での学徒出陣壮行会で後の東京大学名誉教授となる江橋 慎四郎が答辞を読んだ。

 

 

 

「明治神宮外苑は学徒が多年武を練り、技を競ひ、皇国学徒の志気を発揚し来れる聖域なり。本日、この思ひ出多き地に於て、近く入隊の栄を担ひ、戦線に赴くべき生等の為、斯くも厳粛盛大なる壮行会を開催せられ、内閣総理大臣閣下、文部大臣閣下よりは、懇切なる御訓示を忝くし、在学学徒代表より熱誠溢るる壮行の辞を恵与せられたるは、誠に無上の光栄にして、生等の面目、これに過ぐる事なく、衷心感激措く能はざるところなり。思ふに大東亜戦争宣せられてより、是に二星霜、大御稜威の下、皇軍将士の善謀勇戦は、よく宿敵米英の勢力を東亜の天地より撃壤払拭し、その東亜侵略の拠点は悉く、我が手中に帰し、大東亜共栄圏の建設はこの確固として磐石の如き基礎の上に着々として進捗せり。然れども、暴虐飽くなき敵米英は今やその厖大なる物資と生産力とを擁し、あらゆる科学力を動員し、我に対して必死の反抗を試み、決戦相次ぐ戦局の様相は日を追って、熾烈の度を加へ、事態益々重大なるものあり。時なる哉、学徒出陣の勅令公布せらる。予ねて愛国の衷情を僅かに学園の内外にのみ迸しめ得たりし生等は、是に優渥なる聖旨を奉体して、勇躍軍務に従ふを得るに至れるなり。豈に感奮興起せざらんや。生等今や、見敵必殺の銃剣をひっ提げ、積年忍苦の精進研鑚を挙げて、悉くこの光栄ある重任に捧げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。生等もとより生還を帰せず。在学学徒諸兄、また遠からずして生等に続き出陣の上は、屍を乗り越え乗り越え、邁往敢闘、以て大東亜戦争を完遂し、上宸襟を安んじ奉り、皇国を富岳の寿きに置かざるべからず。斯くの如きは皇国学徒の本願とするところ、生等の断じて行する信条なり。生等謹んで宣戦の大詔を奉戴し、益々必勝の信念に透徹し、愈々不撓不屈の闘魂を磨礪し、強靭なる体躯を堅持して、決戦場裡に挺身し、誓って皇恩の万一に報い奉り、必ず各位の御期待に背かざらんとす。決意の一端を開陳し、以て答辞となす。1943年(昭和18年)10月21日。」

 

 

その一節の「生等、もとより生還を期せず」は有名な言葉である。

 

 

答辞は教授の添削を受けたが、「生還を期せず」は自ら考えたものだった。

 

 

出陣後、航空整備兵として内地で陸軍に所属する。

 

 

 

「答辞」の体験については、その後あまり語りたがらなかった。

 

 

67年後に朝日新聞編集委員の質問に答えて、「答辞は我が身にとっては名誉なこと。だが、戦没者のことを思えば何も言えない」と、戦後ずっと黙していた心の内を語った。

 

 

壮行会から満70年となる2013年には毎日新聞において、「僕だって生き残ろうとしたわけじゃない。でも『生還を期せず』なんて言いながら死ななかった人間は、黙り込む以外、ないじゃないか」と述べ、戦後に事実と異なる噂やデマによる中傷にも反論しなかったことを明かしている。

 

同じ記事では「自分が話すことが、何も言えずに亡くなった人の供養になる。最近そう思っている」と記されている。

 

江橋慎四郎氏は存命である。

 

 

学徒出陣は「日本ニュース」として記録され屈指の名作とされる。

 

雨の中の明治神宮外苑競技場の「出陣学徒壮行会」は勇ましい「抜刀隊」の行進曲で雨の中行進する出陣学徒の姿がなんとも言えぬくらい胸を打つ。

 

 

入場行進(行進曲:観兵式分列行進曲「扶桑歌」 奏楽:陸軍戸山学校軍楽隊)、宮城(皇居)遙拝、岡部長景文部大臣による開戦詔書の奉読、東條首相による訓辞、東京帝国大学文学部学生の江橋慎四郎による答辞、海ゆかばの斉唱、などが行われ、最後に競技場から宮城まで行進して終わったとされる。

 

 

出陣学徒は学校ごとに大隊を編成し、大隊名を記した小旗の付いた学校旗を掲げ、学生帽・学生服に巻脚絆をした姿で小銃を担い列した。

 

 

壮行会を終えた学生は徴兵検査を受け、1943年(昭和18年)12月に陸軍へ入営あるいは海軍へ入団した。

 

 

入営時に幹部候補生試験などを受け将校・下士官として出征した者が多かったが、戦況が悪化する中でしばしば玉砕や沈没などによる全滅も起こった激戦地に配属されたり、慢性化した兵站・補給不足から生まれる栄養失調や疫病などで大量の戦死者を出した。

 

 

1944年(昭和19年)末から1945年(昭和20年)8月15日までの戦局が悪化してくると特別攻撃隊に配属され戦死する学徒兵も多数現れた。

 

 

全国で学徒兵として出征した対象者の総数は日本政府による公式の数字が発表されておらず、大学や専門学校の資料も戦災や戦後の学制改革によって失われた例があるため、未だに不明な点が多い。

 

 

出征者は約13万人という説もあるが推定の域を出ず、死者数に関してはその概数すら示す事が出来ないままである。

 

 

ただし、当時の文部省の資料によれば当時の高等教育機関就学率(大学・専門学校・旧制高等学校などの総計)は5%以下であり、さらに理工系学生は引き続き徴兵猶予されたため学徒兵の実数は決して多くなかった。

 

 

しかしその多くが富裕層の出身であり、将来社会の支配層となる予定の男子であった大学生が「生等もとより生還を期せず」(江橋慎四郎の答辞の一節)という言葉とともに戦場に向かった意味は大きく、日本国民全体に総力戦への覚悟を迫る象徴的出来事となった。