九五式軽戦車は、1930年代中期に開発・採用された大日本帝国陸軍の戦車(軽戦車)。
秘匿名称「ハ号」(「イ号」は八九式軽戦車、「ロ号」は九五式重戦車)。
日本戦車としては最多の2,378輛が生産され、九七式中戦車 チハ(チハ車)とともに第二次世界大戦中の日本軍の主力戦車として運用された。
九五式軽戦車は軽量・快速だが小型・軽装甲であり37mm戦車砲の榴弾の威力が小さい(危害範囲が狭い)ので、本車を補完するために、八九式「中戦車」の後継として、八九式よりも最高速度と装甲厚を増した九七式中戦車が開発された。
榴弾の威力が大きい(危害範囲が広い)が装甲貫徹能力に劣る短砲身57mm戦車砲を搭載した九七式中戦車は、「火力支援戦車」「歩兵支援戦車」の色合いが濃い物であった。
よく誤解されがちであるが、「九五式軽戦車が余りに非力で主力となる戦車になれない失敗作だったので、代わりに九七式中戦車が開発された」わけではない。
また、「中戦車である九七式が主力となる戦車で、軽戦車である九五式が補助となる戦車」という見方は、第二次世界大戦後半の、軽戦車が陳腐化した状況からの間違った見方である。
開発当時はあくまでも九五式軽戦車こそが主力であり、九七式中戦車はそれを補完する存在であった。
いわば両車は、ドイツ陸軍のIII号戦車とIV号戦車、イギリス陸軍の巡航戦車と歩兵戦車のような関係であった
モスクワには占守島で戦った戦車十一聯隊の「士魂」の九五式軽戦車が展示されている。
終戦時の時点で九五式軽戦車は、日本本土の各部隊に446輌前後、南方軍には132輌前後が残存していたと思われる。
生き残った車両は大部分が解体されたが、一部は八幡製鐵所など壊滅を免れた工場へ送られ、砲塔や武装を撤去した上で、ブルドーザーや牽引車として戦後復興に活躍し、警視庁ではキャビンを拡大した改造型が警備用装甲車両が充実する昭和40年代まで配備されていた。
また北海道中央バス石狩線で積雪対策として馬そりを車輪代わりに使う雪上バス「バチバス」の牽引車として用いられていた。