激戦地は心霊スポットなる傾向がある。
硫黄島もそうだしペリリュー島もそうだ。
数年前、ペリリュー島へ慰霊団として行った時にも日本兵の幽霊が出たよと若い頃にペリリュー島に神社を建立した神主さんが話しをしてくれたし、現地の人も慰霊祭をやってくれると日本兵の幽霊が出なくなるので神社や慰霊碑を整備してくれている。
大東亜戦争中、太平洋に点在する小さな島々では日本軍の玉砕が相次いだ。パラオ諸島ペリリュー島の戦いも、その悲劇の一つである。
ペリリュー島守備隊長・中川州男大佐(歩兵第ニ連隊長)以下約一万名の日本軍は、アメリカ軍の上陸部隊およそ四万ニ千名を相手に孤軍奮闘した。
五百以上ともいわれるサンゴ礁の洞窟陣地を駆使して抗戦し、神出鬼没の遊撃戦をも展開、アメリカ軍に多大の出血をしいた。アメリカ軍は火炎放射器や手榴弾を使って、洞窟に立てこもる日本兵をしらみつぶしに駆逐するほか、有効な手だてを講じられなかった。
アメリカ軍は当初、
「三日間で作戦は終了する」
と、豪語していたが、ふたを開けてみれば、二ヶ月以上にも及ぶ激戦が繰り広げられたのであった。
ペリリュー島の戦いでは日本軍の美談が残されている。戦闘に突入する前に島民を全て避難させていたため、民間人の死者を一人も出さなかったのである。
さて、住民が戦闘終了後にペリリュー島に戻ってみると、小高い丘はアメリカ軍の艦砲射撃によって、はげ山に変貌し、石灰質の白色のサンゴ礁が顔をのぞかせていた。
住民の命こそ失われることはなかったが、かつてのペリリュー島の風景は失われてしまったのである。
そうした中、奇妙なことが起こった。
もうペリリュー島を守備する日本兵はいないはずなのに、軍刀や銃剣がカチャカチャ鳴る音が聞こえてくる、というのである。
戦後になって、遺骨収集団や慰霊団がペリリュー島を訪れているが、そのときにも軍刀や銃剣の音が聞こえてきたらしい。
集団の中から、ある人は何を思ったのか、
「誰々、誰々」
と、亡くなった人の名前を呼び、さらに、
「お迎えにきました」
と告げて、白木の箱に遺骨を納めるような仕草をしたそうである。
すると、軍刀や銃剣の鳴る音が、以後しなくなったという。
アメリカ海兵隊の評価は「日本軍はアメリカ軍に多大な犠牲を負わせる事によって、長期に渡る遅滞・流血戦術を実行する事に成功した。
ペリリューで被った多大なコストは、日本に向けて太平洋を進む連合軍に大きな警鐘を鳴らした。海空で圧倒的優勢であり、莫大な量の艦砲射撃やナパーム弾を含む爆撃と4倍にもなる兵力差であったにも拘わらず、日本兵1名の戦死ごとにアメリカ兵1名の死傷と1,589発の重火器及び小火器の弾薬を要した。この戦いは数か月後には硫黄島と沖縄での、日本軍の見事に指揮された防御戦術に繋がる事となった。」と中川大佐による、アメリカ軍になるべく多くの出血を強い、長い期間ペリリュー島に足止めする作戦が成功し、日本軍の頑強な抵抗が、後の硫黄島戦と沖縄戦の前哨戦となったと評価している。
アメリカ軍内では日本軍の頑強な抵抗への評価が高い一方で、ペリリュー島攻略のメリットがその莫大な損失に見合うものだったのか?と言う疑問が今日でも投げかけられている。
陸軍第323連隊が無血占領したウルシー環礁が天然の良港で、ペリリュー島より遥かに基地を構築するのに非常に適した島であり、アメリカ海軍はここに巨大な前線基地を構築し、その後の硫黄島戦や沖縄戦での重要な拠点となった。
一方、当初の目的であったフィリピン戦への航空支援基地としての役割についても、ペリリュー島の飛行場が整備されフィリピンへの支援ができるようになったのはダグラス・マッカーサーがレイテ島に上陸してから1ヶ月も経った後の事であり、その時点では大きな戦略的価値を失っていた。その為、アメリカ国内においても、ペリリュー戦は殆ど顧みられる事はなく、同時期に行われたフィリピン戦やヨーロッパ戦線のマーケット・ガーデン作戦などのニュースが新聞紙面を飾っていた。
第1海兵師団戦史担当者も「激しく戦って、たくさんやられて、見返りが少ない。第一海兵師団ではいつもの事だよ。」と自虐気味に振り返っている。
米兵の幽霊はでないのだろうか?