真田氏の家紋と言えば「六文銭」が有名である。
真田家の象徴でもある家紋「六文銭」の意味するところは、三途の川の渡し賃が六文銭であったことからきている。
その覚悟を示したものであろう。
真田家の家紋についてはいろいろあることを知ってますか?
江戸時代に作成された『真田家系図』に拠れば、真田氏は清和源氏の発祥で、信濃国小県郡(現在の長野県東御市)の海野棟綱あるいは真田頼昌の子という真田幸隆が小県郡真田郷を領して真田庄の松尾城に居住して以後、真田姓を名乗ったというのが発祥だという。
江戸時代の真田氏の定紋は『寛政重修諸家譜』によると「真田銭」とも呼ばれる「六連銭」である。
俗に「六文銭」とも「六紋連銭」ともいう。おもに六連銭は戦時の旗印として、「結び雁金」「州浜」はそれ以外の場で使われたが、徐々に六連銭の使用頻度が高くなり、六連銭以外の紋の使用頻度は低下したが、替紋として引き続き使用された。
真田氏が六連銭を用いたのは、幸綱(幸隆)が武田氏に臣従した際との逸話が残されている。
真田氏の源流である海野氏は滋野氏嫡流を名乗り、滋野氏の家紋である「月天七九曜」にちなみ「月輪七九曜」を家紋にしていたことがわかっている。
一方、江戸時代に岡部藩として存続した駿河安部谷の安部氏や越後長尾家(後の上杉家)の記録にある上州吾妻郡の羽尾氏、「長倉追罰記」に記載された羽田氏など、海野氏流を名乗る支族の家紋(旗印)に六連銭やその類似紋「六連点」(ろくれんてん)が登場する。
これらは幸綱が武田氏に臣従する以前から用いていた痕跡があり、真田氏を含む海野氏流支族の六連銭は、本家の海野氏からの継承ではないかと思われる。
現在のところ、中世海野氏が六連銭を用いた史料は確認されていないが、日本家紋研究会は『関東幕注文』に羽尾、大戸など海野一族が「六れんてん」を用いていること、江戸旗本海野家が六連銭を本紋としていること、現在の海野姓で地域を問わず広く六連銭が用いられていることから類推して、「六連銭は真田氏独占の家紋ではなく、信濃国の大族滋野氏から出た海野氏の代表家紋の一つであろう」としている。
江戸時代には、真田幸村を取り上げた物語や真田氏の武勇を題材にした講談などの影響で「六文銭=真田」と認識されるようになる。江戸時代や明治時代の浮世絵などでは、大坂の陣において真田幸村(信繁)の部隊が、「六文銭の旗」を掲げて徳川家康の本陣を襲撃する場面が描かれているが、「大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣蔵)の真田隊の旗としては「総赤に金線」の旗が描かれ、旗紋は描かれていない。
その一方で、六連銭が描かれた総赤の切裂折掛の幟旗があるが実際の使用については詳らかではない。
六文銭のいわれが諸説あります。
真田家が六文銭を旗印として用いたのは武田家滅亡後の北条氏との一戦で勝利してからだとする伝承があります。
居城である上田城に逃げ込もうとした真田勢を北条の大軍が追いかけてきました。そのときに、上杉家から帰された弁丸こと真田信繫(幸村)が一計をたてた。
白無地の旗に永楽通宝を書き込ませ、それを布下や穴山らの部将に持たせ北条軍に夜討ちさせた。
北条軍の重臣のひとりである松田尾張守の紋所が永楽通宝であったため北条軍では謀反が起こったかと驚き、その混乱した隙に上田城に戻ることができたという。
真田昌幸はこれにより信繫(幸村)に六文銭を家紋にせよと言ったらしい。
しかし、上田城は武田家滅亡直後ではまだ出来ていないことを考えるとあやしい伝承であります。
次は九度山真田庵にある言い伝え。
六文銭旗の由来としています。
天正十年三国峠で上杉の大軍を戦わずして説伏せた真田父子は三百余人の軍勢を引いて三国峠を過ぎた箕城(箕輪城か)で北条氏政の大軍四万五千と対決。
その時信繫は十四才。
父昌幸に『家名をあげるのはこの時です。どうして恐れることがありましょうか』と言って無紋の旗を取出し北条方の重臣松田尾張守の旗の紋、永楽通宝の紋を描き、旗六本を造り味方を六隊に分け敵陣に夜討ちをかけました。
北条方は松田が謀反を起こした言って大騒動でした。昌幸は信繫にその功を誉め『お前は今から定紋を六文銭にすることを許す』と言いました。
これが真田の六文銭旗の由来であるとあります。
そして最後の説が、六連銭は仏教でいうところの六道銭のことで、三途の川の渡し賃であります。
決死の覚悟であるという意気込みが伝わるところからこの家紋にした、という説があります。
六文銭は真田家の家紋として有名であります。
六連銭紋。真田家は六文銭を用いる前は雁金(かりがね)の紋でした。
ちなみに、この家紋は真田家だけの家紋ではなく、海野氏や深井氏もこの家紋であります。