八九式中戦車 | 戦車のブログ

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八九式中戦車(はちきゅうしきちゅうせんしゃ)は、1920年代後期に開発・採用された大日本帝国陸軍の戦車(中戦車)。



日本初の国産制式戦車として開発・量産された。



秘匿名称「イ号」(「ロ号」は九五式重戦車、「ハ号」は九五式軽戦車)。







『ガールズ&パンツァー』では、県立大洗女子学園Bチーム(バレー部、アヒルさんチーム)が八九式中戦車甲型(甲後期型)に搭乗する。



製作にあたり陸上自衛隊保管車輌への取材も行われたそうだ。





テレビ版で「軽戦車」と呼ばれて「中戦車だ」言い返していたシーンがあったね。



戦闘室内で「押す」シーンは定番になったね。




先の試製一号戦車の成功を受け、戦車の国産化に自信を深めた陸軍であったが、試製一号戦車は18トンという大重量であった。




1925年(大正14年)から1935年(昭和10年)まで、陸軍には軽戦車と重戦車の区分しかなく、



軽戦車=ルノ-戦車に類するもの=10トン以内



重戦車=英国中型戦車に類するもの=20トン以内

と決められていた。








日本は、軽戦車を主力とし、軽戦車より重い戦車は重戦車に分類し、数は少ないが軽戦車を補完する役割とし、軽戦車(主力・多数)と重戦車(補完・少数)の二本立てで、戦車隊を整備する方針であった。


試製一号戦車



そこで1928年(昭和3年)3月28日に、新たに10トン程度の軽戦車を開発することを決定し、試製一号戦車の成果を基に1927年(昭和2年)に輸入したイギリスのビッカースC型中戦車を参考にして開発することになり、同時に重戦車(後の試製九一式重戦車)の開発も決定している。







このことから1928年(昭和3年)当時の日本陸軍は、10トン程度の軽戦車(主力・多数)と18トン程度の重戦車(補完・少数、多砲塔戦車)の二本立てで戦車隊を整備する構想を持っていた。



ところがすぐにその構想は、第一次世界大戦後の不況および1929年(昭和4年)からの世界的大不況を契機とする、軍事予算の削減による、新世代の6トン級軽戦車およびカーデン・ロイド系豆戦車を主力とする、安価かつ高速軽量な装甲車輌を求める、世界的潮流の変化により、1930年(昭和5年)を境に大きく転換し、1930年代半ばの6トン程度の軽戦車(主力・多数)と12トン程度の中戦車(補完・少数、単砲塔戦車)の二本立て+豆戦車(補助車輌)を整備する構想に変化していった。



そこで1930年に、6トン級の軽戦車であるヴィッカース 6トン戦車・ルノー NC27 軽戦車・フィアット3000Bと、豆戦車であるカーデン・ロイド Mk.VIが輸入され、比較検討と研究が行われ、その結果、ヴィッカース 6トン戦車を参考に後の九五式軽戦車と、カーデン・ロイド Mk.VIを参考に後の九四式軽装甲車が開発されることになった。





開発は陸軍技術本部第四研究所で1928年(昭和3年)3月に始まり、同年4月に設計要目が決定、8月に概略設計図面が出来上がり、直ちに陸軍造兵廠大阪工廠に発注され1929年(昭和4年)4月に試作車(試製八九式軽戦車1号機)が完成した。



以後の量産は改修型も含め、民間企業である三菱航空機(1928年(昭和3年)に三菱内燃機から改称。



のちの1934年(昭和9年)に三菱造船と合併し三菱重工業となる)にて行われた。



1929年(昭和4年)12月1日に三菱航空機は、戦車工場として大井工場を新設し、名古屋製作所芝浦分工場と併せて東京製作所とした。




1931年(昭和6年)の満州事変後、日本製鋼所と神戸製鋼所と汽車製造株式会社も生産に関わるようになった。




1937年(昭和12年)には下丸子に三菱重工業東京機器製作所丸子工場が新設され、1938年(昭和13年)に陸軍指定の戦車専門工場として稼働し、国産戦車の6割を生産するようになる。





1929年10月には東京~青森間、660キロメートルの長距離運行試験に成功し、同年同月に八九式軽戦車として仮制式化(仮制定)された。初期試作車は、予定通り重量が9.8 tにおさまったため軽戦車に分類されたが、部隊の運用経験から度々改修が施され(この改修によって機動性は悪化している)、最終的な完成形では車体重量が11.8 t に増加した結果、分類基準の10 tを超えてしまった。



さらに八九式軽戦車よりも軽量な九五式軽戦車が開発されたため新たに中戦車の区分が設けられ、1935年(昭和10年)9月13日に制式名称を八九式中戦車と改定(再分類)されている。






また、のちの九七式中戦車(チハ車)の頃からカタカナ2文字の秘匿名称(試作名称)を付すようになり、さかのぼって八九式中戦車には甲型にチイ、乙型はチロとされた。



この「チ」は中戦車、「イ」はイロハ順で1番目を意味する。しかし命名が遅過ぎたためか、実際に運用部隊等でチイ、チロと呼ばれることはなかったようである。



陸軍第四研究所の戦後回想録の付表では、甲型も乙型も「チイ」と表記されており、「チロ」の命名については疑問視する声もある。



試作車が完成し仮制式化されても、試作車の改修や、日本で初めての戦車の量産故に、すぐには量産体制が整わず、八九式軽戦車の生産は遅々として進まず、間に合わせとして、1930年(昭和5年)に、フランスからルノーNC27軽戦車を10輌(12輌説あり)輸入したが、装甲厚を除き攻撃力や対射撃抗堪性・走行性能など総合性能は、八九式軽戦車の方が優れていた。



生産数は甲型が1934年(昭和9年)までに220輌、乙型が1935年(昭和10年)から1939年(昭和14年)にかけて184輌以上である(甲型が1930年(昭和5年)から1935年(昭和10年)にかけて283輌、乙型が1936年(昭和11年)から1937年(昭和12年)にかけて126輌、総計409輌との説あり)。



八九式は軽戦車と中戦車の二面性を持つ戦車であり、のちに軽戦車としての後継として九五式軽戦車が、中戦車としての後継として九七式中戦車が開発・採用されている。





攻撃力



本車は歩兵直協用途に開発され、機関銃陣地撲滅を目標としていたため、主砲は対戦車戦闘などを想定していない短砲身であった。



元々試製一号戦車用に開発された試製五十七粍戦車砲を、肩当を用いた直接照準操作方式に改修した18.4口径の九〇式五糎七戦車砲を装備した。



この方式が以後の日本戦車に戦車砲車載機関銃の採用を困難にした原因にもなった。




砲塔旋回は人力で、砲塔旋回用ハンドルを回して行う。



砲塔の種類は、試作型砲塔・旧型砲塔・新型砲塔に大きく分類される。



照準器の射距離は500メートルまでで固定目標限定であった一方、方向射界(左右)の微調整と高低射界(俯仰)の全範囲は砲手の肩付操作で行うことから、ハンドル操作で行うよりもかなり照準は早く、空薬莢も自動排莢され、右片手で装填を行うため連続射撃もでき、徐行中であれば行進間射撃も可能であった。





榴弾威力は、九〇式榴弾の場合で弾頭炸薬量250グラム、九二式徹甲弾でも弾頭炸薬量103グラムと多く、徹甲弾(名称は徹甲弾だが、実際は徹甲榴弾(AP-HE))であっても榴弾威力を重視した設計となっていた。



これらは同時期に開発された九一式手榴弾(炸薬量65g)の2倍弱~4倍強程度の炸薬量であった。



徹甲弾の貫徹能力は、ニセコ鋼板に対する試製徹甲弾を用いた試験では射距離45m/30.4mm、350m/25.7mm(存速326m/s秒)、1,400m/20.5mm(同264m/秒)、1,800m/17.5mm(同246m/秒)であった。



なお甲初期型の一部は、間に合わせに、九〇式五糎七戦車砲ではなく口径37mmの改造狙撃砲を装備していた(第一次上海事変に参加した5輌など)。



また九〇式戦車砲の替わりに、車載用に改造した三年式機関銃(改造三年式機関銃)を主武装として旧型砲塔前部に装備した、機関銃装備型が甲初期型に存在した。



その車輌の砲塔後部に機関銃は装備されていない。






1941年7月に陸軍技術本部が調整した「試作兵器発注現況調書」によれば、試作兵器として八九式中戦車に75mm砲短(該当する75mm短砲身戦車砲として当時試験されていた九九式七糎半戦車砲があるが、野砲・山砲の可能性もある)を搭載する改修を行う記述がある。この改修車輌の希望完成年月は1941年11月となっている。



また八九式中戦車の九〇式五糎七戦車砲、及び九七式中戦車の九七式五糎七戦車砲の砲身を互換性のある長砲身37mm戦車砲(一式三十七粍戦車砲を基に開発)へと換装することが検討されており、1942年2月、この試製三十七粍戦車砲の試験が行われている。



これは本車や九七式中戦車の旧式化した短砲身57mm戦車砲を、砲身のみ換装することにより一式三十七粍戦車砲と同等威力の戦車砲へと改修することを企図したものであった。



この試製三十七粍戦車砲(初速約804m/s)は、一式三十七粍砲や一式三十七粍戦車砲と弾薬(弾薬筒)は共通であり互換性があった。



本車は副武装として、初期には保弾板給弾方式の改造三年式機関銃、のちに改造十一年式軽機関銃を経て、車載用に改造した弾倉給弾方式の九一式車載軽機関銃を車体前面と砲塔後面に装備した。



初陣の満州事変以降、中国大陸における戦いでは攻撃力不足が問題となるような深刻な脅威にぶつかることはなかった。



むしろ本車への最大の不満はその低い機動力であった。



これは、中国大陸におけるほとんどの戦いが「追撃戦」であったからである。



八九式は数字の上では良道を最高速度 25km/h で走行することが可能だったが、悪路・路外では最高速度を発揮できず、8km/h ~ 12km/h 程度が実用速度となった。



この反省が機動力を重視した九五式軽戦車の開発に繋がっている。



しかし、ノモンハン事件や太平洋戦争では対戦車戦闘能力の欠如が問題となった。






実戦



本車は1931年(昭和6年)の満州事変で初陣を経験した。百武俊吉大尉率いる臨時派遣第1戦車隊に、ルノー FT-17軽戦車やルノーNC27軽戦車の置き換えとして配備された。



1932年(昭和7年)に勃発した第一次上海事変では、重見伊三雄大尉率いる独立戦車第2中隊に本車5輛が配備された。



また同隊にはルノー乙型戦車10輛も配備され、実戦比較された結果、八九式に軍配が上がった。



この戦いでは戦車部隊が注目を集め、「鉄牛部隊」として活躍が報じられた(当の戦車兵はこの名称を好まず、のちの戦いでは「鉄獅子(てつじし)」と報じられるようになる)。



しかし、中国国民革命軍の精鋭第十九路軍の激しい抵抗と、網目のようなクリークに妨げられ、必ずしも楽な戦いではなかった。




1933年(昭和8年)に発動された熱河作戦に於ける承徳攻略戦で、臨時派遣第1戦車隊は日本初となる機械化部隊である川原挺進隊に加わったが、本車は悪路に起因する足回りの故障が多発し、活躍の主役はより高速な九二式重装甲車に奪われた。



この作戦では日本初の戦車単独による夜襲なども行われている。





初めて本格的な対戦車戦闘を経験した1939年(昭和14年)のノモンハン事件においては、九五式軽戦車と少数の九七式中戦車とともに中戦車の主力として投入された。



この戦いでは、日本軍戦車の対戦車戦闘における攻撃・防御両面能力不足が露見した。



そのため、九七式中戦車では対戦車能力を向上させた新型戦車砲の開発(試製四十七粍戦車砲)が同年から行われ、これは一式四十七粍戦車砲として制式採用され新砲塔チハに搭載、また1940年(昭和15年)には攻撃力・防御力・機動力全体を向上させたチヘ車(一式中戦車)の開発が行われた。



しかしながら日本の国力の低さおよび、1930年代後期から第二次大戦にかけては航空機と艦艇の開発・生産が優先され、後継戦車の開発・量産が遅延していたため八九式の改良も放置される事となった。





太平洋戦争開戦時には、九五式軽戦車・九七式中戦車への更新が進んでいたが、南方作戦のフィリピン攻略戦において戦車第4連隊が装備する少数の本車が投入された。



また、末期のルソン島防衛戦の際には、戦車不足のため、既に引退していた本車までもかき集められ戦闘に参加している。



1945年(昭和20年)沖縄戦において、戦車第二十七連隊が首里北方の戦いに参加した。





本車は「軍神」として有名になった西住小次郎大尉の乗車であった。



西住は戦車第5大隊第2中隊隷下の小隊長として、支那事変における1937年(昭和12年)の第二次上海事変から徐州会戦中の1938年(昭和13年)5月17日に流れ弾に当たって戦死するまでの間、30回以上の戦闘に参加した。