ジョン・ウォルター・クリスティー | 戦車のブログ

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ジョン・ウォルター・クリスティー(John Walter Christie、1865年5月6日 - 1944年1月11日)は、アメリカ合衆国のエンジニア、発明家。



1865年5月6日、ニュージャージー州のリバーエッジに生まれ、鉄工所勤務を経て蒸気船エンジニアを経験、初期の潜水艦の研究にも携わった。



彼が率いるフロント・ドライブ・モーター社は第一次大戦中から自主的に自走高射砲や戦車の開発を始めており、後に高速戦車の研究開発で知られることとなる。






クリスティー式戦車



M1910から始まるクリスティー式戦車は、航空機用水冷発動機をもとにしたリバティーエンジンの馬力の大きさと相まって、M1928で(非武装の状態で)装輪111.4km/h、装軌68.5km/hという当時の戦車としては圧倒的な速度性能を発揮した。



それまで無関心であった米陸軍もこれには興味を示し少数を採用したが、より大きな興味を示したのはソ連とイギリスであった(ポーランドも興味を示し購入を検討したが、入手に至っていない)。




1931年に、M1928の砲塔の無いデモ車であるM1940(M1931の砲塔の無い試作型であるM1930と呼ぶ資料もあるなど、名称に諸説あり)を二輌購入したソ連軍は試験を重ねて改良、リバティーの国産版であるM-5エンジンを搭載したBT戦車シリーズを生み出す。



また、英軍も輸入を試みたが「軍事機密」として米政府の今更な横槍が入り、農業用トラクターとして輸出申請したり、部品レベルにまで解体して偽装、ようやく入手できた。




その後の研究開発により、A-13(Mk.III巡航戦車)からクリスティー式サスペンションを採用している。





クリスティーは後に、ソ連に強力な戦車を作らせるきっかけとなった技術を売却してしまったことを後悔していると語っている。





M1928から採用された新式の懸架装置である「クリスティー式サスペンション」は、大型の接地転輪の一つ一つを、二重構造の車体側面に収納したコイルスプリングで独立懸架させたものである。
(後のソ連の試作軽戦車・T-25や、アメリカの試作駆逐戦車・T49やT67では車台側面が二重構造ではなく、スプリングがむき出しになっているため、構造がわかり易い。)






ストロークが大きく従来のボギー型のリーフスプリング式に比べ路外機動性に優れ、また最後部の接地転輪と起動輪が、内蔵されたチェーンで繋がり駆動することで、履帯を外している際は路上での高速走行が可能な装輪装甲車となった。




装軌走行中は操縦手の左右のブレーキレバーにより、また装輪走行中はステアリングハンドルを取り付け、先頭の接地転輪を左右に振ることで方向転換を行った。




従って装軌走行中に片方の履帯が切断された場合は、左右で操行の手段が異なる状態となるため、まともに走行することができなくなる。





走行方式の切り替えは一見便利であったが、履帯を付けたり外したりする手間がかかりすぎ不便であり、量産・実戦投入された戦車としてはBT-2、BT-5、BT-7で採用されたに止まり、続くT-34シリーズや英軍の巡航戦車ではクリスティー式であっても装輪走行はできなくなっている。




また、既に大戦前にソ連軍の他の戦車で採用されていたトーションバー式サスペンションの方が路外での機動性や乗り心地により優れており、戦後に開発された量産型戦車でクリスティー式の足回りを持つ物は(英軍のアヴェンジャーやチャリオティア等、大戦中に開発された戦車のシャーシを流用したもの以外には)採用されていない。





なお、上部支持転輪が無く大型接地転輪を持つ戦車を全てクリスティー式と誤解する人も多い。



例えば上部支持転輪の無いT-43、T-44、T-54/55、T-62はクリスティー式ではなくトーションバー式であり、逆に上部支持転輪のある英軍のコメット巡航戦車はクリスティー式である。



両者は車体側面のコイルスプリングを使っているか、床下のトーションバースプリングを使っているかで区別される。