悲劇の宮家 北白川宮永久王 陸軍砲兵大尉 | 戦車のブログ

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北白川宮永久王(きたしらかわのみや ながひさおう、1910年(明治43年)2月19日 - 1940年(昭和15年)9月4日)は、日本の皇族、陸軍軍人、貴族院議員。陸軍大将北白川宮能久親王の王子北白川宮成久王の第一王子。最



終階級は陸軍砲兵少佐(薨後特進)、勲等は大勲位菊花大綬章。



母は明治天皇の第七皇女房子内親王。妃は男爵徳川義恕の次女祥子。



参謀たる陸軍砲兵大尉としてモンゴルへ赴任していたが、演習中に航空事故に巻き込まれ事故死した。






1923年(大正12年)、父・成久王の事故死により北白川宮家を継ぐ。翌1924年(大正13年)、東京陸軍幼年学校に入校、続いて陸軍士官学校予科、同本科(43期、兵科・砲兵)を経た1931年(昭和6年)、陸軍砲兵少尉任官。



1934年(昭和9年)、陸軍砲工学校高等科を卒業する。




その後も陸軍野戦砲兵学校で乙種学生として教育を受け、1939年(昭和14年)には陸軍大学校を卒業(52期)。




陸大卒業後、初めて赴任した蒙彊方面の駐蒙軍で参謀の職についていたが、1940年(昭和15年)9月4日午前11時過ぎ、張家口での演習中、不時着して来た戦闘機の右翼の先端に接触、右足膝下切断、左足骨折、頭部に裂傷という状態で病院に運ばれたが、同日午後7時過ぎに薨去した。


享年31。



翌9月5日午後1時には死亡が発表されたが、具体的な地名・死亡の状況は軍事機密として伏せられていた。



しかし、翌日の新聞では午前11時20分負傷、午後7時21分薨去と詳細が報じられた。




尚、永久王の死は純然たる事故死であったが、名誉の戦死と発表されている。





永久王は父・成久王や他の皇族たる陸軍軍人(朝香宮鳩彦王・賀陽宮恒憲王・閑院宮春仁王・朝香宮孚彦王・竹田宮恒徳王等)がそうであったように、軍服は大正末・昭和期当時の陸軍青年将校の間で大流行していた、瀟洒で派手なものを仕立て着用していた。




永久王には妃祥子との間に道久王と肇子女王がおり、道久王は父永久王の没後北白川宮を継承するも、第二次世界大戦敗戦後の1947年(昭和22年)に皇籍離脱、その後伊勢神宮大宮司に就任。


肇子女王は旧公爵の島津忠広(島津忠承長男)に嫁す。





北白川宮家は初代智成親王が僅か17歳で薨去し、2代能久親王は台湾で戦病死、3代成久王は自動車事故で薨去するなど不幸続きであった事から、悲劇の宮家などとも呼ばれる。





父母:北白川宮成久王 - 房子内親王



兄弟:永久王 - 美年子女王 - 佐和子女王 - 多恵子女王



妻:徳川祥子(とくがわ さちこ、1916年(大正5年) - 2015年(平成27年)) - 男爵徳川義恕次女



子: 第1王子:道久王(みちひさおう、1937年(昭和12年) - )



第1王女:肇子女王(はつこじょおう、1939年(昭和14年) - ) - 公爵島津忠廣夫人








妻、北白川宮永久王妃の北白川 祥子は、1947年(昭和22年)10月14日に皇籍離脱となるが、姑にあたる成久王妃房子内親王とともに北白川家を支えた。



1969年(昭和44年)女官長に就任する。



平成改元後も皇太后宮女官長として香淳皇后に長く仕えた。



2015年(平成27年)1月21日午後11時40分、急性肺炎のため東京都内の自宅で死去した。