偕楽園と好文亭 | 戦車のブログ

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茨城県の誇る水戸の偕楽園へ行く。


前回水戸へ行った時は、茨城県護国神社へ見美かれるように参拝しぺリリュー慰霊碑の前に立っていたため時間がなくて行かなかった。



今回は偕楽園へ行くつもりで来た。


大人の乳母車を出し、友人を乗せる。



陸橋があってエレベーターがあるのでとても便利だ。


ゴロゴロ乳母車を押しいざ偕楽園へ。




偕楽園は、水戸藩第9代藩主徳川斉昭(烈公)が、1833年(天保4年)藩内一巡後、常陸国(茨城県)水戸の千波湖に臨む七面山を切り開き、回遊式庭園とする構想を持った。



同じく彼の大胆な藩政改革構想に成った日本最大の藩校弘道館で日夜文武に修行する藩士の余暇休養の場へ供すると同時に、領民と偕(とも)に楽しむ場にしたいと、この巨大な大名庭園は斉昭自らにより「偕楽園」と名づけられた。




偕楽とは中国古典である『孟子』の「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」という一節から援用したもので、斉昭の揮毫『偕楽園記』では「是れ余が衆と楽しみを同じくするの意なり」と述べられている。


名君である水戸徳川家の烈公は立派だね。






竹林があると北海道人の性でついつい写真を撮ってしまう。



ただ坂道が多くて友人を乗せて車椅子を押すのは大変だ、暑いし車輪が小さいのでガタガタなっている。



しかたがなく下車し杖をついてゆっくり歩いてもらうことに・・・。



バリアフリーはエレベーターまでだったね。



水戸学へ帰着する斉昭の愛民精神によりこの水戸家の庭園は、江戸時代当初から毎月「三」と「八」が付く日には領民にも開放されていた。



その伝統を受け継ぎ、いまなお偕楽園は日本三名園のうちで唯一、入園無料である。



なので歩くくらいしょうがないのである。



日陰へ行けば涼しく、北海道とは違う景色がとても気に入った。




偕楽園は、国の史跡及び名勝に指定されており(指定名称は「常磐公園」)、隣接する千波湖周辺の拡張部を含めた「偕楽園公園」は、都市公園としてニューヨークのセントラルパークに次ぎ世界第2位の面積を持つ。



また伝統的に、岡山市の後楽園や金沢市の兼六園と並んで日本三名園の一つに数えられてきた。






世界第二位の面積を誇る偕楽園をとぼとぼ歩く、すると「好文亭」なる建物が。



あまり偕楽園の知識なく歩いて来たので、「好文亭」がどういうものか知らず・・・、「入ってみよう」と決断した。



入ったら別世界だったね。




襖の絵が凄い・・・・・。


これは見たことないくらい美しい日本家屋だ。


好文亭の名前の由来は、晋(しん)の武帝の故事「文を好めば則ち梅開き、学を廃すれば則ち梅開かず」により、梅の異名を「好文木(こうぶんぼく)」といったことから命名されたといわれている。



二層三階の好文亭と北側の奥御殿からなり、一般に全体を総称して好文亭と呼んでいるそうだ。



昭和20年の水戸空襲により焼失し、昭和30年から3年かけて復元されたものである。






好文亭は水戸藩第九代藩主徳川斉昭の別墅(べっしょ)であるが、そこは己一人が楽しむ所ではなく、民と 偕(とも)に楽しむ所であった。


皇室とも縁が深い。


1902年(明治35年):大正天皇が皇太子の時、好文亭梅の間へ宿泊する。



1912年(大正元年)10月25日:昭和天皇が皇太子の時、学習院生徒として来園、好文亭前に松を手植えする。


1974年(昭和49年)10月20日:第29回国民体育大会に際し、昭和天皇・香淳皇后行幸。


1993年(平成5年)4月22日:秋篠宮文仁親王・同妃好文亭に来亭。




畳みの縁にも葵の御紋がある。


この好文亭も決して平穏な歴史ではなかったのが解る。


1945年:好文亭が水戸空襲で焼失(1958年復元)


1969年:好文亭が落雷で再度焼失(1972年に復元)


前年(1968年)に避雷針の予算要求が認められなかった直後であった。



2007年9月28日:水戸藩の学問・教育遺産群の一部として世界遺産の暫定リストに入るべく、文化庁に提案。




2011年 3月12日:前日3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の影響で園内が崩落の恐れ・液状化現象・地盤沈下、好文亭の土壁破損等の被害が発生。



そのため、3月12日以降の当面の閉園、梅まつり・夜梅祭後夜祭の中止を発表。




4月29日:梅園・吐玉泉等に限り部分開園(被害が発生した好文亭等は立入禁止)。




12月1日:震災で被害を受けた箇所の復旧工事が進められ、本園拡張部が完了。



2012年


1月1日:震災で被害を受けた箇所の復旧工事が進められ、南崖部分の開園を開始。



2月7日:好文亭が復旧し、震災からおよそ11か月で全面復旧。




三階への階段は急で友人には無理かと思ったがゆっくり登って来た。



お城の天守閣に上るような感じの急な階段で、この急な階段は、不意の敵襲に備えたものであるという。



そんな急な階段のせいがお膳を運ぶのに大変だったのか、お膳専用の滑車があり、今でいうエレベーターがあった。




好文亭三階の楽寿楼(らくじゅろう)からの千波湖や田鶴鳴梅林の眺望は見事でした。



贅沢な一時であった。


見学後茶店でカキ氷を食べた。


生き返ったね。


あっちこっちに石碑があり水戸徳川家の歴史も学べる。


さて、帰り道迷った・・・。



汗を拭き拭き歩いていると、「崖(がけ)急に 梅ことごとく 斜めなり」 の句碑が。



正岡子規の俳句だ。


句の通り梅の木はことごとく斜めだった、正岡子規の歩いたこの道を私も歩いているんだなと感慨深いものがあった。


偕楽園と好文亭、水戸にはたくさんの史跡やし旅館、博物館があります。


一日では周り切れないでしょう。


でも、偕楽園に行ったら好文亭も見学して下さい。


日本の美に触れられる素敵な公園でした。