相馬大作事件 | 戦車のブログ

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相馬大作事件(そうまだいさくじけん)とは、文政4年4月23日(1821年5月24日)に、南部藩士・下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)を首謀者とする数人が、参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた津軽藩主・津軽寧親を襲ったテロ事件・暗殺未遂事件。



秀之進の用いた別名である相馬大作が事件名の由来である。



杜撰な計画と、事件前に裏切った仲間の密告により、津軽寧親の暗殺に失敗したため、秀之進は南部藩を出奔した。



後に秀之進は幕府に捕らえられ、獄門の刑を受けた。


大浦為信(後に津軽為信)


事件の背景



弘前藩主・津軽氏と盛岡藩主・南部氏の確執は、戦国時代の末期から安土桃山時代、弘前藩初代藩主である大浦為信(後に津軽為信)の時代に端を発する。



もともと大浦氏は、盛岡藩主となった三戸氏(三戸南部氏。南部氏の宗家。)と同じく、南部氏の一族だった。



この大浦氏に久慈氏(南部氏の庶流とされる)から養子に入った大浦為信は、1571年(元亀2年)に挙兵し、同じ南部一族を攻撃して、津軽地方と外ヶ浜地方および糠部の一部を支配した。



さらに大浦為信は、1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐に際して、当時の三戸南部氏当主・南部信直に先駆けて参陣し、所領を安堵されて正式に大名となった。



このような経緯から、盛岡藩主・南部氏は弘前藩主・津軽氏に対して遺恨の念を抱いていた。



ただ、津軽氏側は南部氏とは異なる出自であることを主張していた。






1714年(正徳4年)には、両藩の間で檜山騒動と呼ばれる境界線紛議が起きた。


これは、陸奥国糠部郡野辺地(現・青森県上北郡野辺地町)西方の烏帽子岳(719.6m)周辺地の帰属に関して両藩が争った問題である。


弘前藩は既成事実を積み重ね、文書類などの証拠を整備して、一件を仲裁する幕府と交渉したのに対し、盛岡藩はこれに上手く対応できなかったため、この地域は幕府により弘前藩の帰属と裁定された。



この処置は盛岡藩に不満をもたらした。



なお、この一件は相馬大作事件の107年も前の出来事である。



事件の前年の1820年(文政3年)には、盛岡藩主・南部利敬(従四位下)が39歳の若さで死亡(弘前藩への積年の恨みで悶死したと伝わる)。



利敬の養子・南部利用が14歳で藩主となるが、若さゆえにいまだ無位無官であった。



同じ頃、弘前藩主・津軽寧親は、ロシアの南下に対応するために幕府から北方警備を命じられ、従四位下に叙任された(従来は従五位下)。



また、高直し(藩石高の再検討)により、弘前藩は表高10万石となり、盛岡藩8万石を超えた。



盛岡藩としては、主家の家臣筋・格下だと一方的に思っていた弘前藩が、上の地位となったことに納得できなかった。




相馬大作について


諱は将真(まさざね)。陸奥国二戸郡福岡(現・岩手県二戸市)の盛岡藩士・下斗米総兵衛の二男に生まれた秀之進は、無類のきかん坊だったが、病弱であった兄が父母に「家督は弟に譲って下さい」と頼んでいるのを盗み聞きし、脱藩して1806年(文化3年)に江戸に上ったとされる。



江戸では、初めは夏目長右衛門という旗本に師事して武術を修め、夏目が蝦夷に派遣されると、次に平山行蔵(夏目は平山の高弟)に入門。



平山門下で兵法武術を学び、文武とも頭角を現して門人四傑の一人となり、師範代まで務めるようになった。




父が病気と聞いて帰郷し、1818年(文政元年)に郷里福岡の自宅に私塾兵聖閣(へいせいかく)を開設。


同塾では武家や町人の子弟の教育にあたった。


同年10月、同塾は近郷の金田一に移転する。


武道場(演武場)


兵聖閣は、すべて門弟たちの手によって建設され、講堂、武道場(演武場)、書院、勝手、物置、厩、馬場、水練場などを備えていた。



門弟は200人をこえ、数十人が兵聖閣に起居していたといわれている。



その教育は質実剛健を重んじ、真冬でも火を用いずに兵書を講じたと伝わる(二戸市歴史民俗資料館に遺品の大刀、大砲、直筆の遺墨碑(拓本)が展示されている)。



当時、北方警備の必要が叫ばれ始めていたが、大作も門弟に「わが国の百年の憂いをなすものは露国(ロシア)なり。有事のときは志願して北海の警備にあたり、身命を国家にささげなければならない」と諭していたという。



この思想は、師匠の平山行蔵の影響とされる。


ただ、遠州浜松に予定していた東海第二兵聖閣が台風によって海に流されたことや、有能な財務担当の細井萱次郎が「コロリ」であっけなく死亡したことから、兵聖閣の経営状態は極めて悪化していた。


津軽寧親



事件の経過


1821年(文政4年)、秀之進は寧親に果たし状を送って辞官隠居を勧め、それが聞き入れられないときには「悔辱の怨を報じ申すべく候」とテロ行為を予告した。



これを無視した津軽寧親を暗殺すべく、秋田藩の白沢村岩抜山(現・秋田県大館市白沢の国道7号線沿い)付近で、陸中国鹿角郡花輪(現・秋田県鹿角市)の関良助、下斗米惣蔵、一条小太郎、徳兵衛、案内人の赤坂市兵衛らと大砲や鉄砲で銃撃しようと待ちかまえていたが、密告によって津軽寧親は日本海沿いの別の道を通って弘前藩に帰還し、暗殺は失敗した。





なお、物語の多くでは紙で作った大砲1発を打ち込んだことになっているが、実際には大名行列は現場を通らず、竹で作った小銃20門を秋田藩に持ち込んだとされている(未使用)。




秀之進の父、総兵衛は大吉と喜七と徳兵衛という仙台藩出身の刀鍛冶を雇っていた。



しかし、彼らは代金が払われないために仙台藩に帰郷できないでいた。



そのうち秀之進の計画を知り、さらに身の危険を感じ、事件の計画を津軽藩に密告した。



大吉と喜七、徳兵衛の3人はこの功績により津軽藩に仕官することになる。



暗殺の失敗により、秀之進は相馬大作と名前を変えて、盛岡藩に迷惑がかからないように、江戸に隠れ住んだ。



江戸でも道場を開いていたと言われている。



しかし、幕吏(実は弘前藩用人・笠原八郎兵衛)に捕らえられ、1822年(文政5年)8月、千住小塚原の刑場で獄門の刑に処せられる。



享年34。





門弟の関良助も小塚原の刑場で処刑されている。





一方、津軽寧親は藩に帰還後体調を崩した。



参勤交代の道筋を許可もなく変更したことを幕府に咎められたためとも噂されたが、寧親は久保田で何日か滞在しており、その間に道筋変更の願いを提出したする記録がある。



寧親は数年後、幕府に隠居の届けを出し、その後は俳句などで余生を過ごした。



この寧親の隠居により、結果的に秀之進の目的は達成された。



なお、この事件と前後して、盛岡藩内では当主替玉相続作戦(前年に家督相続したばかりの南部利用(南部吉次郎)が、事故による負傷のため急死。未だ将軍御目見得前であったため、改易・減封をおそれた家臣団は、吉次郎に年格好が似た従兄の南部善太郎をひそかに「南部利用」として擁立した。)などを行っていて、津軽藩の家格云々どころではなかった上に、「現役の自藩士による他藩藩主襲撃未遂事件」が露呈すると、藩の存続自体がますます危うくなる状況だった。



津軽藩の記録では、これは南部藩家老南部九兵衛の計画によるものであるという。



秀之進と関以外の関係者は事件後情報が漏れないように、牢につながれた。



また、秀之進の息子と弟は南部藩に保護された。





その後


老中青山忠裕が自邸にて経緯を糺した際に、武士の立場上から秀之進に同情を寄せたという話も残っている。



当時の江戸市民はこの事件を赤穂浪士の再来と騒ぎ立てた。



事件は講談や小説・映画・漫画の題材として採り上げられ、この事件は「みちのく忠臣蔵」などとも呼ばれるようになる。



民衆は秀之進の暗殺は実は成功していて、弘前藩はそれを隠そうと、隠居ということにしたのではないかと噂した。


実際は津軽寧親は普通に隠居し、その後は風雅を楽しんで暮らしている。



この事件は水戸藩の藤田東湖らに強い影響を与えた。



当時15~16歳で江戸にいた東湖は相馬大作事件の刺激から、後に『下斗米将真伝』を著した。



この本の影響を受けて儒学者の芳野金陵は『相馬大作伝』を著した。







さらに長州藩の吉田松陰は北方視察の際に暗殺未遂現場を訪れ、暗殺が成功したか地元住民に訊ね、また長歌を詠じて秀之進を称えた。



吉川弘文館『国史大辞典』の相馬大作に関する評伝は、「武術を学ぶ一方で世界情勢にも精通した人物。



単なる忠義立てではなく、真意は国防が急であることから、両家の和親について自覚を促すことにあったらしい」というものであった。



平戸藩主・松浦静山は「児戯に類すとも云べし」とこの一件を酷評している。




盛岡藩の御用人であった黒川主馬等が提唱した忠義の士・相馬大作の顕彰事業により、南部家菩提所である金地院境内の黒川家墓域内に供養碑が建立された。



この供養碑には頭脳明晰となる力があるとの俗信が宣伝され、かつては御利益に与ろうと石塔を砕いてお守りにする者が後をたたなかったという。



黒川家によれば、同家による補修・建て替えは数度におよび、現在の石塔は何代目かのものである。


妙縁寺には秀之進の首塚がある(住職の日脱が秀之進の伯父であったため首を貰い受けた)。



また、秀之進の供養のために1852年(嘉永5年)10月、南部領盛岡に感恩寺が建立され、秀之進の息子(後の英穏院日淳贈上人)が初代住職となった。


妙縁寺と感恩寺はいずれも日蓮正宗の寺院。



斬首で使用された刀「延寿國時」(南北朝時代の作)は、青森県弘前市指定文化財として市内に現存する。



また、東京都台東区の谷中霊園には招魂碑がある。



この招魂碑は歌舞伎役者の初代市川右團次が、相馬大作を演じて評判を取ったので1882年(明治15年)2月、右団次によって建立された。





江戸時代の講談に取りあげられた「相馬大作事件」の種本や刊行物の類は現在は発見されていない。


1884年(明治17年)の改新新聞に連載された『檜垣山名誉碑文』が1885年(明治18年)に刊行された。



1888年(明治21年)には講談『檜山麒麟の一声』が講釈師・柴田南玉によって演じられ、相馬大作の勇武を持ち上げ人気を博した。



相馬大作事件が大衆に知られて人気が出たのは、柴田の高座からであると言われている。



また、『檜山実記・相馬大作』などの演題も、田辺南龍・邑井一・邑井貞吉などの講釈師によって演じられた。



しかし、この弘前藩を一方的に悪者に仕立てたこれらの講談に対し不満を抱いた旧弘前藩士らは抗議し、訴訟にまでなった。



警視庁は公演や芝居は差し止め、刊行本は発売禁止としたが、押さえきれず、表向きの看板をはずした中で興行はつづいた。



1923年(大正12年)、東京八丁堀では講釈師・神田魯山が興行を行った。



1927年(昭和2年)には東京神田での宝井琴慶、浅草での西尾麟慶の興行などが有名になっている。



宝井琴慶の「檜山」は、相馬大作が江戸両国橋上で津軽家の御乗物に発砲し、仕損じて木更津に逃げるという筋書きであるという。


長谷川伸

相馬大作を裏切った刀工の一人徳兵衛は、身の危険を感じながらも相馬大作を終始にわたって手伝い、犯行予定現場まで相馬大作に同行し、その後相馬大作の行動を江戸の奉行所や弘前藩で証言して、弘前藩にはその功績によって武士に取り立てられた。



徳兵衛の子孫である菊池武夫は、弘前藩が悪者扱いされている多くの「相馬大作物」の存在を憂い、作家長谷川伸に家に伝わる文書一切を預けた。



長谷川伸はその文書から研究を始め、さらに多くの史料を集め、相馬大作物の「トンチキさ」に気づく。


長谷川は小説『相馬大作と津軽頼母』を『大衆文芸』誌1943年1月号から1944年2月号まで連載。


さらに、戦後時に触れ書き改めている。



長谷川は自身の小説『相馬大作と津軽頼母』を「事実に近いノン・フィクション小説」としている。



この小説によって弘前藩の冤はかなりすすがれてもいるが、弘前藩の反省点も同時に描かれている。


津軽氏の出自に関して、弘前藩と盛岡藩は異なる主張をしていたが、弘前藩用人の笠原八郎兵衛による江戸での強引な工作に反感を感じた奉行の青山忠裕は、わざわざ「津軽家古来、南部家臣下の筋目」などと判決文に相馬大作の言い分を全面的に取り入れ、これを聞いた相馬大作は落涙している。



津軽頼母は笠原八郎兵衛と対立する弘前藩の重臣で、より広い視点から事件を見ており、勇猛な考えを持つ藩士が多い中、思い切った行動を取りながらも事件を穏便にすまそうとする人間として描かれている。