極真空手家 大山 倍達 | 戦車のブログ

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大山伝説は多いが針小棒大なことも多く、あくまでも「伝説」だ。
マンガ「空手バカ一代」もあくまでもマンガである。


大山 倍達(おおやま ますたつ、1923年(大正12年)7月27日(旧暦6月4日) - 1994年(平成6年)4月26日)は、男性武道家・空手家であり、国際空手道連盟総裁・極真会館館長。


極真空手十段。


1970年代に週刊少年マガジンに連載された劇画『空手バカ一代』でも、主人公として取り上げられた。



父・崔承玄と母・金芙蓉の6男 1女の第4子として朝鮮全羅北道金堤市で生まれた。



1964年(昭和39年)日本国籍を取得/帰化している。



一時期、崔猛虎・大山猛虎・大山虎雄・崔倍達などと名乗っていた。


幼少期は満州国と朝鮮半島で育ち、16歳で日本一の軍人を志し、山梨県の山梨航空技術学校(現日本航空高等学校)に入学。


きつい肉体労働でアルバイトをしながら学校へ通い、当時難関であった陸軍士官学校へ入学する為の受験勉強も少ない時間の中で行うという苦学生の身であった。



1938年(昭和13年)9月に空手道を松濤館流の船越義珍に師事、その後松濤館流と剛柔流を主に学ぶ。



山梨少年航空技術学校卒業後に陸軍士官学校を受験するも失敗、挫折する。


だが、当時拓殖大学学生であった木村政彦が、柔道界最高の栄誉であった天覧試合優勝を成し遂げた事に感動し、1941年春、同じ拓殖大学に入学したとされる。



同大学では司政科に在籍したとされ、政治家を志す。石原莞爾主催の東亜連盟に参加する等の活動をするも、同年末に大東亜戦争が勃発。



在学中のまま少年兵として徴兵されるという大きな壁に直面し、政治家の志も挫折する。



終戦前に海軍の「特攻隊」に志願したが終戦を迎えて出撃ができなかったという逸話もあるがそのような事実はなかった(これは「空手バカ一代」の話からだった)。




早稲田大学高等師範部体育科(のちの早稲田大学教育学部体育専修)中退。



終戦後は千葉を中心に民族運動に参加したとする説もある。



また、「山篭り」で空手修行に励んだともいう。



1946年(昭和21年)6月に俳優の藤巻潤の実の姉である智弥子と結婚。



このときの媒酌人は田中清玄。3人の女の子(留壹琴・恵喜・喜久子)をもうける。



1947年(昭和22年)に京都で開催された戦後初の空手道選手権で優勝、1952年(昭和27年)にプロ柔道の遠藤幸吉四段と渡米、1年間ほど滞在して全米各地で在米のプロレスラーグレート東郷の兄弟という設定(Mas. Togoのリングネーム)で空手のデモンストレーションを行いながら、プロレスラーやプロボクサーと対決したとされる。




帰国後大山は、牛を素手で倒し(合計47頭、うち4頭は即死)、その映像は映画『猛牛と戦う空手』1954年(昭和29年)として公開された。


多くの武道家と交流し、また世界各国を巡りさまざまな格闘技を研究、空手の指導を行い、直接打撃制の空手(極真空手-フルコンタクト空手)を作り出した。




短期間ではあるが、1956年(昭和31年)に大東流合気柔術の吉田幸太郎から合気柔術とステッキ術も学んだ。



その他、講道館柔道を曾根幸蔵九段に、・ボクシングをピストン堀口にそれぞれ師事。





目白の自宅の野天道場、池袋のバレエスタジオ跡の大山道場を経て、1964年(昭和39年)国際空手道連盟極真会館を設立し、数々の名だたる弟子・名選手を輩出している。多くのフルコンタクト系各流派を生み出す元ともなった。


1994年(平成6年)4月26日午前8時、肺癌による呼吸不全のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去。70歳没。豪快で情に厚い人物であったという。



死亡直前の4月19日に立会証人5人の下で松井章圭を後継者とする旨等とした危急時遺言が作成されたが、公証役人がいなく、妻の智弥子に知らされていなかったことから大きな確認裁判へと発展。



裁判ではこの緊急時遺言について、立会証人の中に遺言によって組織上の地位を得る利害関係者がいたこと、その利害関係者が立会証人として遺言内容の決定に深く関わったことなどから、大山が遺言者として遺言事項につき自由な判断のもとに内容を決定したものか否かにつき疑問が強く残ると判断されて、1995年に却下された。


また「韓国にも戸籍があり妻と三人の息子がいる」と言われたが、韓国の戸籍とされた書類は誕生日が違う事から、「同一人物ではない」と東京法務局と裁判所で認定された。





青年時代より、日本ボディビル界の祖と言われた若木竹丸の著書「怪力法」に影響を受け、戦後実際に若木よりウエイトトレーニングの指導を受けた。



発達した胸筋と背筋のためレントゲン撮影では薄く影が出来るほどであったといわれる。



またパンチ力の増強のために懸垂が有効と聞けば、最後は片手懸垂を連続20回こなすほど腕力があった。


その反面、若い頃の大山の空手は、荒々しく実戦を重視しすぎていたため、巻き藁突き・サンドバッグ・組手稽古・ボディビルの鍛錬ばかりして、型の稽古を嫌い、たびたび先輩方から苦言を受けるほどであった。


松濤館の船越義珍

手修行時の大山を知る空手関係者は異口同音に「彼は力は強いし、組手や実戦は強いが型は下手」と語っていた。



壮年期から晩年にかけて好んで剛柔流の「転掌」や「鉄騎」を演じるフィルムが現存し重厚で見事な型稽古を見ることができる。


第5回オープントーナメント全世界空手道選手権大会において、最後の演武は創作型「円転掌」であった。



「空手バカ一代」の爆発的人気により、伝説的存在として「大山神話」が広まったが、実際のところ戦後の一時期においては、敗戦という心の痛手の為に、暴力団の用心棒稼業を行ったり、娼婦といちゃつく連合国軍の兵士を叩きのめして回り、指名手配されるなどの荒れた生活であった。



連合国軍の憲兵隊から追われる身となった大山は一度逮捕されるが、すきを見て脱走。


衆議院議員であった小沢専七郎の助力で身を隠す為に仕方なく身延山、それに引き続き清澄山に山篭りすることとなった。


松濤館の船越義珍から1年3か月で初段を得て以降、剛柔流の山口剛玄や曺寧柱(書籍における日蓮宗僧籍“曺七大師”)、大東流合気柔術の吉田幸太郎、朝鮮YMCAからアマチュア・ボクシング、ピストン堀口からプロボクシング(実際地方のボクシング興行で試合した経験もあり)、曾根道場での講道館柔道、若木竹丸や井口幸雄などからボディビルや重量挙げ、金城裕から沖縄空手との交流や空手界の古老との仲介役になってもらったりと、当時としても多岐に渡る格闘技、武術関係者との親交を深める。





また、武術修行のみならず、船越門下では実力随一であった船越義珍の三男「義豪」を見舞ったり、本部朝基の弟子、山田辰雄(書籍では由利辰朗)、太気拳の澤井健一、玄制流空手、躰道の祝嶺正献、虎殺しの空手家である山元勝王などとも親交を結んでいた。


「不世出の達人」「武道の神様」と称された合気道家の塩田剛三は拓殖大学の先輩にあたり、澤井健一と共に養神館本部道場で稽古を見学したこともある。



拓殖大学の先輩には、柔道史上最強と言われる木村政彦も居る。



全日本選手権を13連覇し「鬼の木村」と怖れられた。



大山は若い頃この木村の強さに惹かれ柔道の試合を観戦しているが、晩年「木村の全盛期ならヘーシンクもルスカも3分もたないと断言できる」とまで言っている。


この木村政彦との戦後の深い親交については『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(増田俊也)に詳述されている。


この作品は、木村政彦vs力道山戦で木村が力道山の八百長破りでKOされた時にリングサイドにいた大山の怒りと悲しみを克明に描写している。



木村がリングに倒れた時、大山はその場で立ち上がってリングに上がり力道山を倒そうとするが、周りの人間が必死に止める。



まさに最強の男たちの運命が交錯する歴史的瞬間であった。



また増田は、柔道側からの新視点による綿密な取材から「大山は間違いなく日本屈指のストライカー(打撃格闘家)だった」と断言している。





著名な政治家とも親交があり、極真会館の初代会長を衆議院議員の佐藤栄作(極真会館設立の3か月後に首相に就任)、副会長を衆議院議員の毛利松平が務めた。



衆議院議員であった辻兼一や同じく衆議院議員の小沢専七郎は、戦後の荒れた時期、大山の庇護を行っていた。




1991年(平成3年)の第5回全世界選手権においてアンディ・フグが劣勢で負けが決まった時、フランシスコ・フィリォに止めが入ったが、フランシスコ・フィリォが構わず左上段回し蹴りをして、アンディ・フグが失神したのを見て「止めが入ってたとはいえ、倒された者は勝者にふさわしくない」としフィリォの一本勝ちを認めた。



大山は極真会館の門弟にとっては何者にも代え得ない絶対無比のカリスマであった。


それゆえに1994年(平成6年)の大山の死は、上位クラスの指導者や大山の遺族などの間で“極真”の主導権や方向性・商標、そして大山の後継者の座を巡っての数多くの諍いが繰り広げられる直接の引き金となった。



かくて、大山が作り上げた極真空手は内紛と分裂、さらには大山の“極真”の正当後継を自認する団体の乱立で現在に至るまで揺れ続けている。



10円玉曲げ


非常に握力の強い空手家であった。


著書『強くなれ! わが肉体改造論』によると、若い頃の握力は100キログラムを超えていたとのこと。



最近の検証では120~130キログラムあったと言われている。


若い修行時代から、両手の五指の訓練は欠かさなかった。



その結果、硬貨を、親指・人差し指・中指の腹の部分で押さえて曲げることが出来たとされる(「パワー空手」の記事による)。


未だにこの記録を打ち破る者は、自らの弟子からも、それ以外からも出ていない。



大山の著書には柔道家の木村政彦が実見しているとある。


目撃談として、剛柔流の山口剛史(山口剛玄の息子)が「1953年(昭和28年)に浅草公会堂で演武会を開いた時、10円玉を曲げていた。後で目の前でやってもらったこともある」と言い、南本一郎は「初めて会った時に、3つの指で10円玉を曲げたんですよ。それもハンパな曲がり方じゃなくて、しっかり曲がってた」と証言している。



『空手バカ一代』などの漫画でもこのエピソードが語られ、この際全身にジンマシンが出るという話を聞き、当時の週刊少年マガジン編集長が連載を決意したという逸話がある。



劇中では「原因は不明だが人間の限界を超えた動きの副作用」というような表現がされていた(『男の星座』)。


また貧乏空手家時代に、他人のオゴリへの返礼としてこの技を余興として見せたという。



これら(硬貨曲げ等)はトリックがあったと指摘する関係者もいるが、昭和26年から昭和33年に作成された10円玉(いわゆるギザ十)は現行の10円玉よりも若干薄く、大山倍達は実際に曲げたという説が有力となっている。


10円玉の硬貨折りを実見したと語る人も多数存在する。



前述の証言をした山口剛史は幼少の頃、新年会や演武会で大山の硬貨折りやビール瓶の手刀斬りなどの神技を見るのが楽しみだったと語っている。




世界誠道空手道連盟誠道塾会長 中村 忠の証言


大山館長が僕らと組手をする時は、いつも受けの組手ですからね。攻撃をさせて、それを受ける。僕らは腹や胸をポンポンと突いても蹴っても構わない。


そんな時の大山館長の組手の構えは、最初は「前羽の構え」で、次に寄り足をして、「尾麟の構え」、そして「龍変の構え」で、スッと踏み込んでくる。



この上下に回転する手が、裏拳に変化したり、相手の道着を手刀で引っ掛けたり、様々に変化する。


今度は手が来ると思って上段をガードすると、ローキックのように足払いでいきなり倒される。



まさに変幻自在で、こちらからは動きが読めない。



でも、僕ら生徒とやるときはほとんど正拳を使わず、掌底で顔面にバチンときたり、みぞおちやアバラを狙う時も掌底でしたね。


掌底と言っても体重を乗せ、踏み込んで打ってくるのですごく効きますよ。


僕も大山館長の掌底を脇腹に喰い、動けなくなったことがあります。


でも、僕なんかじゃなく、もっとうまい上手な先輩とやる時は正拳も使うこともありましたよ。



僕は高一でまだ始めて間もない頃で館長も手加減してくれていましたが、安田先輩や茂さん、泰彦さんなんかと、組手をするときは激しくやってましたね。



大山館長は右の正拳が得意だったようですが、直線的な正拳だけでなく、回して打つ正拳もよく使っていましたね。


それが回し打ちとは違って、正拳の背刀部側の拳頭で打つんです。



館長の正拳は普通の人の何倍も拳頭が大きく、いろんな角度から鍛錬されていましたから、その拳頭の背刀部側をフックのように使い、相手が前へ出てくると、サッと左側45度へ体サバキして、すれ違いざまに右の正拳回し打ちを当てるんです。



ただし、顔面やみぞおちは危ないので、わざと胸を狙って入れてましたね。


館長の組手は柔らかく受け、変幻するけれども、極めの時は「ウウッ!」と腹から呼吸というか気合を出し、瞬間的にすごい威圧感を感じさせるんです(原文ママ)。


こちらは自由に攻撃させてくれるんですが、他から見るとあまり動いていないように見えるんです。


実際に大山館長と向き合うと、撹乱されて攻められないんですね。



「上からくるか下からくるか?」と思っているうちに倒されてしまう。最初は間合いが遠くて、こちらは突いたり、蹴ったりできるんですが、わからないうちにスーッと入ってきて、瞬間に何か小技を出してきてやられてしまう。今思うと、遠い間合いの攻撃も全て館長にコントロールされていたんでしょうね。



館長はダイナミックな攻めの方に、接近すると相手の突きを孤拳で受け、その手を掌底に返して腹を打ったり、手刀に変化させたり非常に小技もうまい方でした。



たぶん当時は30代前半の一番円熟していた時期だったんじゃないでしょうか。


大山館長はあの大きな体で動きが速く、足も股割りで全部開く柔軟性をお持ちでした。


回し蹴りも横蹴りも上段にヒュッと上がりましたよ。


組手のときはほとんど中足で回し蹴りを使い、やはり強く当てないように気を使っていましたね。


でも一番の得意技はやはり右の正拳で、掌底や孤拳はそれを使うための付随する技だったと思います。