フランツ・ハルダー(Franz Halder, 1884年6月30日‐1972年4月2日)は、ドイツの軍人。
最終階級は陸軍上級大将。
第二次世界大戦初期に陸軍総司令部参謀総長を務めるが、アドルフ・ヒトラーと対立して更迭された。
名門の軍人
バイエルン王国ヴュルツブルクに、300年以上も同国の軍人を歴代輩出する家系に生まれる。
父マクシミリアンもヴァイマル共和国時代に上級大将に昇進している。
ハルダーはアビトゥーア合格後の1902年に、士官候補生としてアンベルクの第3王立バイエルン砲兵連隊「プリンツ・レオポルト」に配属される。
当時の連隊長は父マクシミリアンだった。
1904年、格別の優秀な成績で少尉に任官。砲兵学校、工兵学校、陸軍大学などで学習を続ける。
1914年に陸軍大学を首席で卒業。1907年、軍人の娘ゲルトルートと結婚。夫妻は三女をもうけた。
第一次世界大戦には東部戦線、西部戦線で参謀として従軍。
早くも1914年、危険な偵察任務に従事して戦功を挙げ、一級鉄十字章。
1915年、第6バイエルン歩兵師団兵站部長。
同年大尉に昇進。
1917年から第2軍、ついで第4軍参謀。
終戦後の1919年、国防省で戦術教官となる。
1922年に少佐、1931年に大佐に昇進。
参謀総長
1933年にナチスが政権を獲得するが、ハルダーはこの新政権と距離を置いた。
1934年3月14日、少将に昇進。翌年10月15日、ミュンヘンの第7歩兵師団長に補される。
この間もナチスの容喙に抗っていた。
1936年8月1日、中将に昇進。参謀本部作戦局長、次いで教育局長となる。
その職掌で担当した軍事演習で、総統アドルフ・ヒトラーと個人的面識を得る。
ヒトラーの知遇を得て彼はさらに出世し、1938年2月に砲兵大将に昇進。
同年9月、ルートヴィヒ・ベック参謀総長がヒトラーによる国防軍指揮への介入に抗議して辞任する。
その後任にはハルダーが任命された。
ベックを中心とする国防軍将官グループは、当時進んでいたズデーテン危機に際し、イギリスの介入がある場合はヒトラー追放を計画しており、ハルダーもそのグループに近かった。
しかしミュンヘン会談でイギリスが譲歩して事態が収拾されると、クーデター計画はしぼんでしまい、ハルダーはこのグループから離脱した。
この変心についてハルダーは、プロイセン軍人の伝統的規律と国家元首への忠誠に従ったため、としている。
参謀総長として、ハルダーは第二次世界大戦初期のドイツの侵攻作戦策定に関わった。
すなわちポーランド侵攻、西方侵攻、そしてバルバロッサ作戦である。
1940年、フランスに勝利した直後に上級大将に昇進。
しかし徐々にヒトラーとの作戦上の意見の相違が大きくなり、1942年9月24日に参謀総長を更迭され、予備役に編入された。
逮捕・戦後
シュタウフェンベルク大佐らによるヒトラー暗殺未遂事件が発生した1944年7月以降、国防軍の将官が親衛隊により大量に逮捕され拷問を受けた。
そうした取り調べの中で1938年のクーデター計画が浮上し、ハルダーは妻や長女と共に逮捕され、フロッセンビュルクにある強制収容所に入れられた。
1945年1月に公式に軍籍を剥奪された。
その後ダッハウ強制収容所に移された。
やがて4月にシュタウフェンベルクの家族らと共に南チロル地方に移され、親衛隊員により隠密裏に処刑されることになったが、そこにアメリカ軍が迫ったため監視の親衛隊員が逃亡し、ハルダーらはアメリカ軍の捕虜になった。
こうしてハルダーらは「敵軍」によって解放された。
しかしヒトラーとの対立や1938年のクーデター計画に加わっていた事、それにしばらく強制収容所に収監されていた事が逆にハルダーに幸いする。
その結果、彼は連合軍により「反ヒトラー」将校の一人として破格の扱いを受ける事となる。
ハルダーはイタリアにあるアメリカ軍捕虜収容所で夏まで過ごしたのち、特に戦争犯罪で訴追される事は無くあっさり釈放された。
1946年から1961年まで、ハルダーはアメリカ陸軍戦史研究部ドイツ支所の所長として働いた。
現在一般的な第二次世界大戦の戦史記述は、ハルダーによる影響が大きい。
退職時の1961年にアメリカ陸軍から、一般市民に対する最高の勲章である市民功労勲章を授与されている。
バイエルン州アッシャウ・イム・キームガウで死去した。